インドネシアを拠点とするアーティスト、アイ・チョー・クリスティンにとって、世界初となる美術館個展『アイ・チョー・クリスティン 霊性と寓意』が金沢21世紀美術館で開催中だ。
これまでマシュー・バーニーやオラファー・エリアソンなど名だたる欧米作家の個展が開催されてきたこの場所で、東南アジア出身の女性アーティストの個展が開催される。巨大な多島国家・インドネシアの急速な経済成長や、東南アジアにおける存在感を考えれば、この個展は今後のアジアの変化を占うものといえるだろう。アートは、作品が訴えるメッセージや美しさに加えて、大きな時代の変化にも寄り添っている。
だがそうした時代と呼応する一方で、アイ・チョー・クリスティンの作品は個人の内にある思いや時間とも強く共鳴している。魚、ドラゴン、ぬいぐるみ、ギロチン……作品に登場する様々なモチーフは、作家自身の体験や記憶を通して表現されるからこそ、ある「強さ」を持っている。
社会の一握りの豊かな人やエリートだけではなく、普通に生きる人々に、どうすれば表現に込めたメッセージを伝えることができるか。
ーアイ・チョーさんがアーティストを目指したきっかけは何でしょうか?
アイ・チョー:初めて表現することに明確に興味を持った対象は、ファッションでした。小学校のときに、たまたまあるデザイナーの記事を読んだんです。そのデザイナーは特別に高価な衣服だけではなく、普通の人たちにも手に届く身近なファッションも手がけていて、その考えにとても共感しました。
社会の一握りの豊かな人やエリートだけではなく、普通に生きる人々にどうすれば表現とそこに込めたメッセージを伝えることができるか。当時からそれを誠実に考えていて、自分もそのデザイナーのようなことができれば素敵だな、と思ったんです。
ー大学でグラフィックアートを専攻し、卒業後はテキスタイル工房でデザイナーとして働いていたそうですね。
アイ・チョー:ええ。残念ながらファッションデザイナーの道は断念しましたけれど(苦笑)。大学の第一志望はデザインで、第二志望がファインアートだったんですが、結局受かったのはファインアートだけ。
そのときは家族で大騒ぎになりました。両親に現実的な考え方で、「アートを専攻しても、卒業した後、仕事がないじゃない!」と心配されて。そこで私は「1年経ったら学部を移るから大丈夫!」と説得したんですけど、いざ入学してみたらファインアートの方が自分には素晴らしく居心地がよかったので、そのまま居続けることに……。
ー美大生、芸大生あるあるですね(笑)。日本の大学でもよく聞く進路転換です。
アイ・チョー:在学中に先生から「君の最大の強みはライン(線)にある。だからグラフィックアートに集中してみたらどう?」とアドバイスされたのは大きかったですね。
活動の初期から、作家として息長く活動したいと強く意識してきました。
ー今回の展示作品で特に興味深かったのが『純粋な土地の真実』(2001年)で、製図したような緻密な線にアイ・チョーさんのルーツを垣間見るようでした。現在のオイルバー(チョーク状の油彩画材)を使ったペインティングとは、かなり違った印象があります。
アイ・チョー:活動の初期から、作家として息長く活動したいと強く意識してきました。年齢とキャリアを重ねていくうえで何が必要かを考えると、戦略的にすべきことはとても多かった。
『純粋な土地の真実』(2001年)© Ay Tjoe Christine, courtesy of Ota Fine Arts / 提供:金沢21世紀美術館
会場展示風景 / Photo:木奥惠三 提供:金沢21世紀美術館
アイ・チョー:いくつかの目標を設定して、それを達成することを目指したんです。例えば、具象、人の姿、構造、構図……。それらの課題を自分の納得できる水準まで研ぎ澄まそうとしていた様子が、初期作には強く反映されています。
ー理数的というか、とても論理的ですね。
アイ・チョー:アートに関わることが好きでたまらなかったから、それを継続するために、長期的な作戦を立ててきたんです。
いまの状況は私たちが成長することを阻んでいる。
ー展示にはペインティングだけでなく、インスタレーション、ソフト・スカルプチュア(布生地などを用いた柔らかい彫刻)など日本初公開の作品が多く並んでいます。アイ・チョーさんのソフト・スカルプチュア作品は、とても手軽に作れる点に特徴がありますね。
アイ・チョー:このシリーズは、あるロシア人のアーティストの影響が大きいです。お互いに挑戦したことないメディアの表現に取り組む、というワークショップを一緒にやったのですが、布とワイヤーを使った表現が、自分の理想を手軽に実現できる手段だということがわかったんです。他の人の技術や力添えがなくても作れる点も気に入っています。
『ルカ福音書の有名な一節 #1』(2011年)© Ay Tjoe Christine, courtesy of Ota Fine Arts / photo:木奥惠三 提供:金沢21世紀美術館
ーそういった手軽な方法を採用するのと対照的に、アイ・チョーさんの作品のモチーフは、聖書やキリスト教の世界観を参照しています。なかには、攻撃的とも受け止められるほどの激しいタイトルもありますが、そういった宗教的な世界観はどのように作品に根付いていったのでしょう?
アイ・チョー:それはとてもシンプルな理由で、家族や通っていた学校など、自分にとって身近なことだったからです。そこで得た感覚、価値観は私を強く規定しています。人間には究極的に目指すべきものがあるはずで、精神的に新しい段階に脱皮していきたい。そのために必要な多くのものを、私は聖書から学ぶことができました。
『私たちが過大評価されているのは、あなたたちが私たちのことを全く理解していないから 01(細部)』(2015年)© Ay Tjoe Christine, courtesy of Ota Fine Arts / 金沢21世紀美術館『アイ・チョー・クリスティン 霊性と寓意』 (サイトを見る) / 提供:金沢21世紀美術館
会場展示風景 / Photo:木奥惠三 提供:金沢21世紀美術館
ー現代人の感覚、特に無宗教の人が多い日本人の感覚からすると、現代のような多様な価値観がある時代には、宗教や信仰以外のものを頼りにする術もあるように思います。
アイ・チョー:もちろん、ひとつの宗教や考えだけが救いであると言うつもりはありません。その認識は何よりも大切です。
ですが個人的な考えとして、今の状況は私たちが成長することを阻んでいると思うんです。現状を認めてしまったら、人間が目指すべき高みには至ることができない。そのひとつの反映として、宗教的なモチーフを扱っています。自分自身と真剣に対峙すると同時に、自分よりも大きな存在、大きな広がりを持ったものを想像するために。
インドネシアのアーティストは政治的なことを声高に語ります。でも、それでは何も解決しない。
ーアイ・チョーさんの作品には、インドネシアの歴史、そして現在に警鐘を鳴らす、というような意識があるのでしょうか?
アイ・チョー:現在のインドネシアの社会状況を見ると、かつてあったような問題は改善されたと思われるかもしれません。でも、実際は少数派に対しての差別が現在も多く残っています。
そういうことに対して私たちが抗議の声をあげたとしても、状況が変わるとは私は思っていないんです。大切なのは、多数派の人間と個人が併存しながら、ともに力を合わせることができる状況を導き出していくことです。
『あなたの手が必要 #2』(2009年) / 提供:金沢21世紀美術館
ーその「少数派に対しての差別」という言葉からは、1965年にインドネシアで起きた華僑や共産主義者への弾圧『9月30日事件』が思い起こされます。ドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』(2012年、監督:ジョシュア・オッペンハイマー)が同事件を扱ったことで、広く知られるようになりました。
アイ・チョー:私はそのことに対する言葉を、自分のなかに深く沈み込めて、鎮めておかなくてはいけません。もしも直接的に表に出してしまったら、とんでもない猛反発を受けることを重々承知しているからです。
幸運にも私自身と私の一族には、直接的な犠牲者はいませんでした。でも知人には、家族をすべて失ってしまった人が多くいます。事件に対する認識は広く共有されていますが、決して口にはできないんです。
ーしばしばアートのなかには、政治的・個人的な理由で口にすることのできない訴えが暗号のように潜んでいることがありますね。
アイ・チョー:私が作品に求めているのは、政治的な特性を持つ、ある到達点に至るためにはどうすればいいのかを示唆することです。その意味で、ご指摘された要素も私の作品の背景にはあるでしょう。しかしそれは主要な目的ではありません。
会場展示風景 / Photo:木奥惠三 提供:金沢21世紀美術館
ーこれまでアイ・チョーさんの作品について、複数の批評家がテキストを書いています。そのなかで、1990年代のインドネシアのアートシーンでは政治的な主張を具体的に訴えるタイプの作品が主流で、アイ・チョーさんのような作品を受け入れる土壌は存在しなかったという記述がありました。
アイ・チョー:おそらくそうだったと思います。たしかに、インドネシアのアーティストは政治的なことを声高に語ります。そして非常にはっきりとしたメッセージを作品に表現する。でも、私はそれでは何も解決しないことをよく知っているんです。
質の高い絵を描いて、それが誰かの手に渡り、少なからぬ売り上げを得ることを作家の成功とみなすこともできるでしょう。そのために、時代状況に合わせながらそのつどテーマを切り替えて、トレンドに乗っていくことも戦略としてはありえます。でも、それでは到達することのできないことが確実にあるんです。やたら声を張り上げてノドを潰すだけで終わるのではなく、実現に向けて着実な方法を探っていく。それが私のしたいことです。
なぜ人間は存在しているのか? どうやって生きていかねばならないのか? それを考えることが必要です。
ー今回はギロチンを模した巨大なインスタレーション『Lama Sabakhtani #01』(2010年)など、多様なジャンルの作品が展示されています。選択されるメディアの違いをどのように位置付けていますか?
アイ・チョー:状況に応じて選択しています。私の経験から、いちばん直感的に制作できるのは絵画、キャンバスを使うことです。でも、それだけではどうしても語り尽くせないものがあります。はっきりと「このイメージを表現したい」という意識があるときには、いくつも実験をして、イメージにふさわしい表現手段を見い出します。これは、木の彫刻や、縫製に親しんでいた子供の頃から続いていることです。
『Lama Sabakhtani #01』(2010年)© Ay Tjoe Christine, courtesy of Ota Fine Arts / 3枚のギロチン刃が振り下ろされる衝撃音とともに周囲の真鍮のボールが揺れる
ー子供の頃と比べて、インドネシアは変わったと思いますか?
アイ・チョー:変わっていませんね。
ー同国の経済成長は著しく、アートシーンでは、日本の有力ギャラリーも次々とインドネシアに進出しています。外からは他の東南アジアの国々と同じように経済的にも文化的にも大きく変化しているように見えますが、それでもなお変わらないものとは何でしょうか?
アイ・チョー:たしかに新しい政権のもとで今までにはなかったオープンな体制が実現して、国民には便宜が図られているように見えるのかもしれない。でも、それは大きな代償を支払わないと得られないタイプの自由です。
この仕組みがわかっている人たちは、それをうまく活用して成功へとのぼりつめていきますが、彼らもまた国家に尽くすことを求められ、代償を支払わされているのです。そういうことばかりを繰り返していると、人間としての尊厳は下落していきます。
ーつまり、作品を通してより高次のものに向かう必要があるということですか?
アイ・チョー:なぜ人間は存在しているのか? どうやって生きていかねばならないのか? それを考えることが必要だと思っています。
その答えを私たちの時代で実現することはできないかもしれません。でも、子供たちの世代では実現できるかもしれない。そういう希望を持っていたいんです。
ー今回の新作に『私は人間』という2枚の連作があります。このタイトルには、いまアイ・チョーさんがおっしゃったことが反映されているのではないでしょうか?
アイ・チョー:はい。多数派と少数の個人が共存するための共同体を模索する過程では、特有の危険が現れます。つまり、悪い影響があっという間に広がってしまう危険です。
残念なことに、世の中は清らかで素敵なことよりも、悪いことの方がはるかに広がっていきます。まるで樹木が歪んだ方向に伸びて絡まり合ってしまうように、私たち自身もいびつになってしまって、人間らしさから遠く離れてしまう可能性があります。
そのときこそ「私たちは人間なのだ」ということを意識してほしいのです。その意識は、私たちが間違った方向に踏み出そうとすることを引き止めて、より善い道へと切り替えてくれると思います。
『私は人間 #02』(左)『私は人間 #01』(右)(2017年-2018年)© Ay Tjoe Christine, courtesy of Ota Fine Arts / photo:木奥惠三 提供:金沢21世紀美術館
ー1960年代以降のアメリカのフェミニズム運動のスローガンに「個人的なことは政治的なこと」という有名な言葉があります。本来の文脈からは離れますが、アイ・チョーさんの作品、そしてお話からこの言葉を思い出すんです。混沌とした時代において、個人のアイデンティティーの軸となる信仰や哲学に目を向けることが、ある種の抵抗になるかもしれないという可能性は、端的に希望ではないでしょうか。それは「私は人間である」という表明にも通じる気がします。
アイ・チョー:私自身は自分をフェミニストとは思っていませんし、女性であることが作品に強く投影されているとも考えてはいません。ですが、そのコメントは嬉しい言葉ですね。
- イベント情報
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- 『アイ・チョー・クリスティン 霊性と寓意』
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2018年4月28日(土)~8月19日(日)
会場:石川県 金沢 金沢21世紀美術館 展示室7~12、14
時間:10:00~18:00(金、土曜は20:00まで)
休室日:月曜(7月16日、8月13日は開場)、7月17日
料金:一般1,000円 大学生800円 小中高生400円 65歳以上800円
- プロフィール
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- アイ・チョー・クリスティン
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1973年、バンドン(インドネシア)に生まれる。1997年バンドン工科大学を卒業。テキスタイルデザイナーとして働いた後、2000年頃から創作活動を開始した。以降、インドネシアをはじめとする東南アジアで定期的に個展を開催する一方、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、北京などの国際展にも多数出品している。2001年、フィリップ・モリス・インドネシアン・アートアワードで入賞したのを皮切りに、2009年には香港アートフェアにおいてSCMPアート・フューチャー・プライズを受賞、また2015年にはプルデンシャル・アイ・アワード(絵画部門)を受賞するなど、着実にアーティストとしての地歩を築いている。
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