若林恵は「未来」にうんざり。いま語るべきは複雑化したこの社会

合言葉は、「未来はいいから希望を語れ」。雑誌『WIRED』日本版の編集長として活躍後、コンテンツレーベルであるblkswn publishersを設立。初の著作『さよなら未来 エディターズ・クロニクル2010-2017』も話題の若林恵が、この2018年、新たな対話型のイベント『trialog Partnered with Sony』を開始した。

若林とゲストの3人による対話を行うこのトークシリーズ。3月にテクノロジーやアートの最先端が集う世界最大規模のフェスティバル『SXSW 2018』で行われたvol.0を皮切りに、「融解するゲーム・物語るモーション」をテーマにした6月のvol.1を経て、この7月28日にはvol.2「ヴィジョナリー・ミレニアルズ」を開催。ロシアや中国から写真家やパプリッシャーを招き、若き20~30代のミレニアルズと語り合うという。

一見テクノロジーを主題にしているように思える本イベントは、その枠に収まらない未知なる地平を目指そうとしている。主催者の若林にその胸の内を聞くと、話は終了したばかりのサッカーW杯、日本vsポーランド戦から始まって……!?

部下に結果だけを求めて、自分の手柄にしようという上司を、スポーツの中でまで見なきゃいけないって夢も希望もない(笑)。

―ポーランド戦が終わった直後、エッセイ「コロンビアよ、あとはよろしく」をウェブ上にアップされてましたね。一読、若林さんがキレた、と思いました(笑)。賛否が真っ二つにわかれた試合終了間際の日本のパス回し戦略に、「自分の意志を放棄して、勝負を他人まかせにし、結果がよければすべてよしとする。それってどうなのよ」と憤慨されていましたね。

若林:オレだけじゃないでしょ。宮田くんもキレてたじゃん(笑)。「あれをどう判断するかは、社会観、人生観、世界観、根本的な視座にかかわる話」って(笑)。

『さよなら未来』刊行ツアーの一環で仙台にいて、狭いビジネスホテルの部屋でツアーマネージャーと一緒に見ていたんです。今回の大会は忙しくてあまり見れていないけど、W杯の過去3大会くらいは全体の半分、毎大会30試合くらいは見てたんですよ。W杯って面白いじゃないですか、「世界のいま」を垣間見る感じがあって。でもポーランド戦のあの最後は……まあ、まさに日本のいまを見る思いでしたけど(笑)。

若林恵
若林恵

―選手も、ゲーム運びに賛成だった側の人たちも、グループリーグ突破という結果こそ大事だという論調でした。

若林:まあ、それはそれでわからない議論でもないけど、とはいえ、セネガルが追いついちゃったら、監督はどうするつもりだったんでしょうね。結果をもって自己正当化しちゃうと、逆の結果が出たときに自分を根拠づけるすべを失っちゃうじゃないですか。監督は結果をもって評価されてもしょうがない立場だけど、選手はそうじゃないですよね。

マネージャーが自らの手で選手たちを「結果でしか評価されない立場」に置いちゃうのはマネージメントの放棄だろう、という趣旨で書いたんですが、選手が自ら言い訳をしなきゃいけない立場に監督が彼らを選択的に置いたのが、ほんとにイヤだったんです。

―個人的な意見ですが、「勝利が大事、結果がすべてと考えて、現実を追認するだけなんだったら、サッカーを含めたスポーツの価値なんてないんじゃないか?」と感じました。「結果だけ見てればいいじゃないか」と思います。

若林:ほんとほんと! 部下に結果だけを求めて、その結果を自分の手柄にしようっていう上司が世間にザラにいたとして、それをわざわざスポーツ中継のなかでまで見なきゃいけないのかってね(笑)。夢も希望もない(笑)。

若林恵

「みんな」っていうのは誰なんだ、ということが、いま世界ではすごく問題になっている。

―実はそれは、『trialog Partnered with Sony』(以下、『trialog』)の姿勢につながる話だと思います。これだけ世のなかにテクノロジーを含めた未来を語るトークイベントが溢れていても、結果的に現実を追認するような、「このテクノロジーの先に輝かしい未来が待っている」みたいなものが多いですよね。そこでなぜ若林さんが、改めて『trialog』を始められたのかをお聞きしたいです。

6月に開催された『trialog』Vol.1でトークする若林 撮影:西村廣起
6月に開催された『trialog』Vol.1でトークする若林 撮影:西村廣起

若林:強引なつなぎだなあ(笑)。簡単に言うと、まず、未来の話をするときにテクノロジーの話から始めるのをやめたかったんです。それよりもむしろ、現実のなかになんかしらの希望を見つけられれば、その希望に沿って未来を描けるじゃん、みたいなことを言えたらいいかな、と。

で、どういうふうに希望ってものをこの世のなかに見出すんだろうってなったら、それはそれで結構大変じゃないですか。なので、希望を語る前段階として、もうちょっといまの世界の複雑さとか困難さを見ましょうよ、というのが基底にある思いです。

たとえば、日本の大手メーカーって大体がいまも大量生産大量消費モデルのなかに生きていて、「テクノロジーがみんなを幸せにする」みたいなことを普通に信じていて、いまだに平気でそう言うんですよ。でも、これだけ「分断」が進行している世界では、「その『みんな』って誰よ?」ってのが、極めてクルーシャルな問題になってるわけじゃないですか。そこに女性は含まれるのか? 障害者は含まれるのか? LGBTQは? イスラム教徒は? 所得の低い人は? 彼らが言ってる「みんな」っていうのは、過去の社会モデルのなかで中流と呼ばれた人たちを自明のこととして想定しちゃってるんですね。なので、その観点から出されるメッセージって、もはや排他的としか言えないものになってしまっているんです。

若林恵

―なるほど。

若林:たとえば昨年アメリカのオースチンで開催されてる『SXSW』のカンファレンスで見たセッションでは、Facebookのヘイト担当者が、エジプト人でテロ専門のリサーチャーと、「いかにソーシャルメディアからテロリズムを排除できるか」といったテーマで真剣に議論していたんですよ。

インターネットが人を自由にし、解放したのはほんとうだと思うんです。地方で育って、友だちも少なかった子が、親に買ってもらったパソコンで音楽を作るようになって、それをオンラインでやりとりすることで、そこに新しい友だちと希望を見出したというようなtofubeatsくんのような事例もあれば、それまで私書箱を通じて隠れて交際相手とやりとりするしかなかったゲイの人たちに、インターネットやソーシャルメディアが大きな自由をもたらしたっていうような話もある。それは、とてもいい話じゃないですか。

じゃあ、たとえば、中東からパリの郊外に逃げてきた若者が、職もなく知人もおらず、ソーシャルメディア上でようやく見つけた友人がテロリストで、組織の一員になってしまった、ということは、それとどう違うのかっていうのを、一体どこで線引きできるのかと言ったら、とても困難なんだと思うんです、と。

どこまではOKで、どこから先は法的に規制すべき対象なのかって言ったら、どうしたって恣意的にならざるを得ないし、全てが個別事例すぎて、おそらく決定することが不可能なんです。そういうことを世界最大のテックカンファレンスで怒号が飛び交うなか、必死で議論しているんです。

若林恵

―日本の企業がPRを兼ねて語る、フワッとした「ダイバーシティ(多様性)」みたいな話とは、当事者感覚が雲泥の差ですね。

若林:そういうなかに日本企業が、「テクノロジーでみんなを幸せに」みたいなメッセージを引っさげてやってくるわけですね。現実に対する認識のズレは、もはや痛ましいほどで。

―「多様性とは?」という根本のことを語らずに、みんなで延々とポーランド戦をやっているようなものですね。

若林:誰のためにも、未来のためにもならないことを延々と繰り返しながら、ただ問題を先送りしていく、というね。自分たちがこれからどういう社会のなかで生きていくのか、自分たちがどういう社会を作っていけるのか、という議論には、もちろん正解なんかないんですけど、それ以前に、そこで議論をしている人たちと同じ世界を果たして見れているのか、っていうのは重大な問題なんですよね。

文芸やアートは「この世界はどう成り立っているのか」を考え、それを記述していく、ということ。

―そうした若林さんの問題意識のもとに行われている『trialog』では、多くの先鋭的なクリエイターが登壇しているのが印象的ですね。世界的なデジタルアニメーション作家として成功した後、近年は『Everything』などゲームの世界で活躍しているデイヴィッド・オライリーも登壇していました。

『trialog』に登壇したデイヴィッド・オライリー 撮影:西村廣起
『trialog』に登壇したデイヴィッド・オライリー 撮影:西村廣起 (『trialog Vol.1 「融解するゲーム・物語るモーション」レポート』を読む)

若林:そうなんです。まさにいま言ったように、世界のフロントラインにいる人が、いま世界というものをどういうふうに見ていて、そこにどんな問題や課題を見出しているのか、ということを、その断片でも明らかにしたいということなんです。技術というものが時代の文化になっていくためには、そうやって最前線にいる人たちの問題意識が起点になる必要があると思いますんで。

VRにしたって、VRにふさわしいナラティブ(物語の話法)が開発されない限りにおいては、文化はおろか、産業としても成立しないじゃないですか。じゃあ誰がそれを考えられるのかというと、ひとりのクリエイターだけではダメで、向こう何十年とか、それこそありとあらゆる優秀なクリエイターが、たくさんのトライ&エラーを繰り返していった先にしかそれって生まれないと思うんです。エイゼンシュテイン(1898-1948年、ソビエト連邦の映画監督)がモンタージュという映画の手法(視点の異なる複数のカットを組み合わせて用いる技法)を開発するまで、映画の発明から30年くらいはかかかってるんですよね。

『trialog』でのトークセッションの様子(左から:水口哲也、デイヴィッド・オライリー、若林恵) 撮影:西村廣起
『trialog』でのトークセッションの様子(左から:水口哲也、デイヴィッド・オライリー、若林恵) 撮影:西村廣起

―オライリーが開発した、ものからものへ、生物から生物へプレイヤーが視点を転々とさせながら世界を体験するゲーム『Everything』の話は、その点での深さが面白かったですね。自分のやっていることは、医者やエンジニアのように、人の恩恵や実用性、つまり助けになっているのかを問うて、「ゲームで自然界を表現する」ことに辿り着いた、と。

若林:オライリーのトークはほんとに鳥肌立つくらい面白かった! ほんとうにすごかった。あんなにずっと「世界を記述する」ということを語り続ける人を、デジタルクリエイティブの領域では初めて見た気がします。

ぼくは、文芸や、それを含めたアートも「自己表現」なんかじゃ全然ないと思ってるんです。「この世界はどう成り立っているのか」ということを、あるメディアや様式を通して記述することを試みるというのが、本質的なアートというものの営為だと思うんです。で、デジタルなクリエイションのなかで、あんなに「世界を記述する」ということを徹底して語る人は初めてで、ああ、ゲームってのは、こういう人の手と頭を通して、ほんとうにアートフォームになっていくんだっていう感じがしました。

―しかも、その描き方の哲学がすごいですよね。熊が歩かずに地面を転がっているトレイラー映像を見ると思わず笑ってしまいますが、でもこれは、複雑な生命体の動きをどう表現しても解像度が低くなってしまうから、ショートカット=引き算をして、現実の世界からほど遠いゲームの世界を、人間の脳に信じこませるためなんだと語っていました。

若林:そうそう。それがゲーム、もしくはデジタルならではの世界記述の可能性である、ということを言っていたわけですよね。おそらくこれまでのゲームの道のりって、描写力のすごく低いところから、技術の進歩に引っ張られるかたちで、ある種のリアリズムを志向していくことになってたんだと思うんですが、でも、それがゲームという形式のなかから内発的に開発された表現だったのかどうかは疑問な気もするじゃないですか。CGがよりリアルになっていくことって「それ自体としてなんの価値なんだっけ?」という。

そういったことへの批判も含めてあの熊の転がし方は、やっぱり天才的なんですよね。彼はあの動きを納得いくものにするためだけに、2年もかけたと言ってましたけど、あそこにこそ、オライリーが考える「ゲームならではの世界の記述の仕方」が宿っているわけですよね。

そうしたことを含めてオライリーの話から、「ゲームがゲームでなければならない理由」というものを初めて聞いた気がしたんですよね。これまでゲームに関して、「インタラクティブなストーリーテリングが可能になる」みたいな話はあったんですけど、それって単にゲームというメディアの「特徴」でしょ? それによってなにが新しく記述可能になるのか、ってところまで踏み込んだ話はあまり聞いたことなくて、オライリーは「システムとして世界を記述するためには、小説でも、映画でもダメで、それはゲームでなくてはならない」って言ってて、ああ、そりゃ確かにそうなのかもな、と。

若林恵

新しいものは人を不安にさせるものですよ。でも、イノベーションとかって、本質的にはそういうものなんですよ。

―でもそうしたテーマは、それこそすぐに答えが出ませんよね。実は今日のインタビューでも、そして『trialog』の壇上でも、若林さんは「なんつーんだろうなあ(なんていうんだろうなあ)」が口癖じゃないですか。

若林:それは単に語彙力と論理性の欠如(笑)。

―いやいや(笑)、でもその探る過程は重要だと思うんです。テクノロジーや未来を語るときに「なんつーんだろうなあ」という人はあまり聞きませんし、でも一方で、根本的な課題や理念を語るならば、ほんとうは「なんつーんだろうなあ」となるのではないか、と。

若林:まあ、でもたしかに、新しいものというか、これまでなかったものって、やっぱり名づけ得ぬものなんだろうとは思うので、簡単に言葉を与えちゃうと、その新しさとか違いっていうのがこぼれ落ちちゃうようにも思うんですよね。

ところが残念ながら、多くの人は、そこまで、そんなには、新しいものとか、すぐに理解できないものとか、が好きじゃないのかもしれない。新しいものは人を不安にさせるものですよ。熊が縦回転したら、最初はゾワっとするじゃないですか(笑)。でも、イノベーションとかって、本質的にはそういうものなんですよ。誰が聞いても安心なイノベーションなんてないわけですから。だから大企業っていうものは、イノベーションを引き受けることが困難、あるいはできないんです。

若林恵

もう一度カメラを手にするということが、なにを意味するのか、ということを本質的には考えてみたい。

―写真をテーマにした次回の「ヴィジョナリー・ミレニアルズ」も、なにかを探るような回になりそうですね。

若林:写真自体のわからなさと同時に、いまの若いクリエイターたちのあり方を考えてみたいんです。おそらく、これまでの大人がやってきたのとは別のやり方とか辿り着き方で彼らは「やっぱり社会というものを考えざるを得ない」と思っているような気がしているんです。それを、ちょっと見てみたいんです。

『trialog』Vol.1の会場の様子 撮影:西村廣起
『trialog』Vol.1の会場の様子 撮影:西村廣起

―ミレニアルズの社会性を写真から探る……どういうことでしょうか?

若林:まず写真って、技術と表現がクロスする場所として、すごく面白いんです。さっきの話で言えば、写真って、そもそも非常に婉曲なかたちでしか自己表現というものが成り立たないアートフォームなんですね。画角などを設定するのは撮影者だけど、写真を撮るのは、どこまでいってもカメラなので。

しかもその写真を成立させていたコンテクストが、デジタルテクノロジーの登場によって変わっちゃっていて、一見アウトプットされる写真は同じようでいて、違うものになっているわけです。イメージの流通経路っていうことに関しても、それまでの主要なチャンネルだった紙の雑誌や新聞から、ネットやスマホに変わっていくことで、写真が伝達し得る内容や意味も、そのこと自体によって変わっているんです。加えて、いまやみんなが常時カメラをスマホのなかに持ち歩いている世界になっているわけですし。

若林恵

―Tumblrが生まれ、Instagramに移り変わり、という話も象徴的ですよね。

若林:そういうなかで、あえて写真家になろうとか、写真によってなにかを記述しようとするということが、一体なにを意味するのか、ということを聞いてみたいんですよね。あえて困難な道を進んでいるように見えるんですよ、いま写真を正面からやるって。

ある世代より上の会社員の方がよっぽど社会意識が希薄なんです。「社会ってなんスか?」みたいな顔をされるわけ(笑)。

―そうした様々な難しさを孕む写真に、ミレニアルズの新たな担い手たちが挑んでいる、と。

若林:今回のトークは『IMA』というアートフォトメディアに協力いただいているんですが、もともと『IMA』がミレニアルズの特集を組むということで、原稿依頼をいただいたんです。それで、特集で取り上げている写真家たちの作品を見たら、ものすごくシリアスだし、すごく大きなテーマを扱っていて、感心したんですよね。

『trialog』に招く1989年生まれのロシアの写真家、マリア・グルズデヴァは、ロシアの国境沿いの街ばかりを撮っている女性なんですけど、彼女は彼女のやり方で、国とはなにかというテーマを取り扱ってるんです。それも、なにか結論を出そうという感じではなく、ずっとそういうことを考えながら国境の街をうろついているという感じで、そのあてどなさの軌跡みたいなものが写真に映し出されてる感じがするんです。そうやって若い写真家が、国とはなにか、家族とはなにか、といったテーマに非常に真摯に取り組んでいる。そこに若い世代特有のアイデンティティの困難といったものがセットになっていて、非常に社会性の強い作家が多いんです。逆に言うと、そういう問題意識を強く持っていなかったら、あえて写真なんか志さないんだろうな、とも思うんです。

若林恵

マリア・グルズデヴァのオフィシャルサイト)
マリア・グルズデヴァのオフィシャルサイトを見る

―普通ミレニアルズといわれるときのイメージとは真逆ですね。

若林:イメージとしてミレニアルズというのは、自己中心的で、集中力がなくて、フワッとした世代だっていう一般認識なんだろうと思うんですけれど、まったくそうではないということをまずはちゃんと明かしたいんです。

むしろある世代より上の会社員の方がよっぽど社会意識が希薄なんですよ。最初の話に戻りますけど、どんな物事にも社会性っていうのはあって、まして「会社」なんていうものも社会的な存在なんですよ、というようなことを会社員に言っても、ほんとに通じないんです。それこそ「社会ってなんスか?」みたいな顔をされるわけ(笑)。経済ってものと社会っていうのはイコールだと思っちゃってるわけね。「社会イコール市場、じゃないんですよ」ってことが理解できなくなってるんです。

若林恵

―それこそ社会的なテーマであるダイバーシティを語るにしても、それを語ることによって経済を成り立たせる、という前提ゆえということが多いですよね。

若林:ダイバーシティを、マーケティング用語としか理解できない人って実際多いんです。それに比べたら、若いクリエイターたちが写真の世界のなかでやってることって、よっぽど希望があるんですよ。彼らの社会意識の高さっていうのは、いわゆる「意識が高い」という話ではなくて、それだけこの世界が難しい、ってことなんだと思うんです。理解をすることも、それを記述したり、描写したりすることも。

それはオライリーにも共通している姿勢だと思うんですが、その難しさを引き受けるためには、これまでの世界を構成してきたパラダイムを根底から見つめ直さざるを得ないんだと思うんです。その表現様式や扱うメディアや、それを成り立たしめていた産業構成も含めて。

若林恵

若林:単純に、写真で自分はどうやって食っていくのかを考えただけでも、相当な困難が予想されるわけですよね。そのなかで、あらゆる角度から「私はなにをやっているんだっけ」ということを考えざるを得なくなるわけじゃないですか。それは写真に限らず、音楽をやってる人だって、みんなが抱える悩みですよね。それぞれの業界がシュリンクしていくなかで、「なんで自分はこれをやるのか」って、自分の頭で一から考え直さなきゃいけないわけじゃないですか。自然と、社会意識は強くなりますよね。

―でも、そうした難しさを抱えて集まり、答えの出ない問いを一緒に考える『trialog』という場は、それこそ「希望」的だと思います。

若林:中国のパブリッシャーも登壇しますし、中国のような場所であえてアートブックのパブリッシャーを志した人の話なんて、想像しただけで、面白そうじゃないですか。

若林恵

イベント情報
『trialog vol.2 「ヴィジョナリー・ミレニアルズ」』

2018年7月28日(土)
会場:amana square
登壇者:
マリア・グルズデヴァ(写真家)
小林健太(写真家)
シャオペン・ユアン(『Same Paper』ファウンダー)
平山潤(『Be Inspired!』編集長)
太田睦子(『IMA』エディトリアルディレクター)
若林恵(blkswn コンテンツディレクター)
and more
参加費:一般 3,000円(税込) 学生 1,500円(税込)

書籍情報
『さよなら未来−−エディターズ・クロニクル 2010-2017』

2018年4月19日(木)発売
著者:若林恵
価格:2,376円(税込)
発行:岩波書店

『さよなら、インターネット−−GDPRはネットとデータをどう変えるのか』

2018年6月21日(水)発売
著者:武邑光裕 / 解説:若林恵
価格:2,160円(税込)
発行:ダイヤモンド社

プロフィール
若林恵 (わかばやし けい)

1971年生まれ。編集者。ロンドン、ニューヨークで幼少期を過ごす。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業後、平凡社入社、『月刊太陽』編集部所属。2000年にフリー編集者として独立。以後、雑誌、書籍、展覧会の図録などの編集を多数手がける。音楽ジャーナリストとしても活動。2012年に『WIRED』日本版編集長就任、2017年退任。2018年、黒鳥社(blkswn publishers)設立。



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