「生きてるくせに、死んでんじゃねえよ。」このキャッチコピーが印象的な映画『ウィーアーリトルゾンビーズ』が6月14日から公開されている。本作はすでに『サンダンス映画祭』『ベルリン国際映画祭』『ブエノスアイレス国際インディペンデント映画祭』で賞に輝き3冠を達成。世界各国での上映も決定しており、その期待値の高さが伺える。
両親を失って悲しいのに泣けなかった4人の少年少女たちが心を取り戻していく姿が映し出されているこの映画は、長久監督自身がリビングデッドと化していた過去の自分に向けて送ったメッセージでもある。だが実は、本当に伝えたかった言葉が別にあったという。
奇しくも長久監督が『サンダンス映画祭』でグランプリを受賞した2017年、初小説『ボクたちはみんな大人になれなかった』で鮮烈な小説家デビューを飾った燃え殻との対談を通して浮き彫りにしていく。
イジメを受けた過去のある2人が身につけた、人生をゲーム化する処世術
―燃え殻さんには事前に『ウィーアーリトルゾンビーズ』を鑑賞していただきました。率直な感想を教えてください。
燃え殻:映画って「この映画館が似合うな」っていうのがあると思っていて。ユーロスペースが似合うなとか、シネコンが似合うなとか、早稲田松竹が似合うなとか。それでいうと『ウィーアーリトルゾンビーズ』は、シネマライズが似合う映画だなと思いました。かつて裏原宿とか渋谷系が盛り上がっていた時代に、渋谷PARCOの目の前にあった単館系の映画館なんですけど、そこにいくことが当時の僕にとっては誇りで。逆をいえば、それ以外に誇れることがなにもなかったわけですけど(笑)。
あと、物語がゲームっぽく描かれているのもすごくよかったですね。僕、学生の頃にめちゃめちゃイジメられていたんですけど、それをドラクエみたいだと感じていたんですよ。
―ドラクエですか?
燃え殻:自分に起こっている出来事を、ゲームの主人公が試練を受けているかの如く俯瞰して眺めていました。たとえば水泳の授業になると、泳げないのにリレーのアンカーにされるんです。それで他の人とすごい差をつけられてゴールすると乾いた拍手が起こる。そうやって嫌な目にあっている自分を見ているもうひとりの自分がいて……。
そういう経験をしているからかもしれないんですが、『ウィーアーリトルゾンビーズ』の登場人物たちはすごく平気な顔をして過ごしているけど、本当は大丈夫じゃないだろうなと思いながら観ていました。
長久:燃え殻さんが話してくれたことが、今日の対談で僕が伝えたかったことのすべてですね。実は僕も昔イジメられたりしていて、そのときに体得したのが自分の人生を客観視してゲーム的に捉える方法だったんです。それをみんなに教えたくてこの映画を作ったようなものなんですよね。
―主人公たちによるナレーションもどこか自分たちを客観的に見ている感じがありますが、それは長久監督の処世術でもあったわけですね。
長久:少年時代に『MOTHER』(任天堂 / 1989年)とか『ライブ・ア・ライブ』(スクウェア / 1994年)っていうRPGが好きだったんですけど、すごくユーモアに溢れているゲームで。主人公たちがシリアスな内容をヘラヘラしながらナレーションしているのは、そのあたりの影響からなんですよね。ユーモアがあったら辛いことがあっても楽しくやっていけるじゃないですか。
燃え殻:僕もなにか嫌なことがあると、それを脚色してとんねるずさんとか三宅裕司さんのラジオに投稿して昇華してたんですけど、それと似ている気がします。僕の場合は、学校にいくと机の上に花瓶が置いてあったんです。当時はそれが亡くなったことを意味するとは知らなくて、なんか特別だなとか思いながら机の横に置いてずっと授業を受けていたんですけど。そのことをハガキに書いて送ったら、深夜ラジオで「なかなかフレッシュなモノの見方だ」っていわれて、それですごく嬉しくなっちゃって(笑)。
―花瓶で殴ったら倍返しされるかもしれないけど、エンタメにしちゃったら報復されないと。
燃え殻:あと、映画館の中にいつも逃げ込んでいました。あの暗闇に紛れたらすべてが無になるじゃないですか。ブサイクとかカッコいいとか、男とか女とか、若いとか若くないとか。そうすると「A BATHING APEのTシャツが買えなかったな」とか、「BLANKEY JET CITYの新譜の歌詞をまだ覚えてないな」とか、そういう雑念が消えるし、イケてない自分自身のことも気にならなくなるから。オールナイトで映画を上映していた池袋の文芸坐に朝までいて、それから通学したりしてましたよ。
効率が大切にされる社会にウンザリする2人が、小説や映画に感じる可能性
―長久監督自身はユーモアでなにかを乗り切ったエピソードはありますか?
長久:僕は自分の経験を切り取って作品を作っているのでたくさんありますよ。『ウィーアーリトルゾンビーズ』でも観ると必ず泣いてしまう場面が2か所あって。そのひとつが「SHINE(死ね)」って書かれているのを「SHINE(シャイン)」って読むシーン。過去に作ったPVでも入れているくらい好きなエピソードなんですけど、あれこそ辛いことをユーモアに転じて高笑いしていくことだと思うんですよね。あとはエンドロールでもぶわってきちゃいます。試写会でも泣いてましたから(笑)。
燃え殻:その感覚、わかります。ネタバレになるので詳しくは触れられないけど、僕もエンドロールで「これは自分の物語だ」って思ったくらい。いま45歳なんですけど、どうにかこうにか生きてこられたのは、まさに『ウィーアーリトルゾンビーズ』で描かれているようなことをやっていたからなんですよね。
さっきのラジオの投稿の話もそうですけど、すごく嫌なことがあってもTwitterで盛って過去を改ざんしてツイートするとか。制限のある世界でいかに楽しめるかが大切だなと思います。世の中には「制限を設けずに好きなことだけして生きていけばいい派」が一定数いるんですけど、それって極端だと思っちゃうんですよね。だって、サッカーも野球も人生も、ルールで制限されるからカタルシスとか感動とか情緒が生まれるわけじゃないですか。それを「手で持ってゴールしたほうが効率よくない?」とか「バットは4回振っちゃダメなの?」ってなると、情緒がなにもないし、生きる楽しみがないんですよね。それって効率とか勝ち負けよりも大切なことだと思うんです。
長久:わかります。僕が映画を作るようになったのは、NATURE DANGER GANGというバンドのライブにいったことがきっかけだったんですけど、彼らの人生への肯定感が半端なかったんですね。「もっとダメでもいいし、夢なんて別になくてもいいし」っていう。そういう非効率な生き方を肯定する作品が世の中に少ないからこそ、使命感を感じて映画監督になったので。
燃え殻:僕自身、夢なんかなくても生きていけると思っているし、むしろ夢がなければ破れないから得だとすら考えているんですよね。それよりも目の前の人を喜ばせることのほうが大切だよって。
でも、いまって「こうすればバズる」とか、「めちゃくちゃ儲かる」とか、「夢を持て」とか、「そのためにはすべて捨てろ」みたいな文言が、SNSを通じてサブリミナル的にバンバン流れてくるじゃないですか。その「すぐに結果を出したい」って感覚は危険なことだなと。
ただ、映画とか小説って伝わるまでに時間がかかるし、観るとか読むことに対する面倒臭さや非効率さもある。そのハードルをどう乗り越えていけばいいんだろうって僕自身も悩んだりもしているんですけど。
長久:すぐに明快な答えを提示するのが主流になっているからこそ、みんな感想が違ってよろしい的なコンテンツがもっと必要ですよね。『ウィーアーリトルゾンビーズ』も100人が100人とも違う感想を抱いて帰れるものにできればいいなと思いながら作っていて。
燃え殻:映画や小説は後々になって評価がひっくり返ることもあるわけじゃないですか。そういう特殊なメディアでもあると思うので、瞬間的に消費されるのではなく、長く愛されるものになるといいですよね。
僕自身、小説が出版されていちばん嬉しかったのが、全国の図書館に置かれたことなんです。そのときに「自分より長生きするものができた」と思えて。たとえ僕が死んだとしても、図書館でハプニング的に手に取ってもらえる可能性があると思うと、その思いだけで生きることができるというか。
長久:僕もいつ作られたのかわからないゴダール(フランスの映画監督、代表作に『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』など)の作品を手に取ったことがあるんですけど、そういう出会い方を他の人にもしてほしくて『ウィーアーリトルゾンビーズ』を作ったので、すごくわかります。
燃え殻:もしかしたら40年後の早稲田松竹で流されている可能性もありますよね。それが映画や小説がある意味なのかなと思います。
「死んでるみたいに生きてもいい」。一生懸命「生きてる」ごっこを続けよう
―この映画では生きることの不条理が描かれていると思うのですが、「生きてるくせに、死んでんじゃねえよ。」というキャッチコピーが秀逸ですよね。
長久:実はもうひとつ案があって、どっちにするかですごく悩んだんですよ。そのもうひとつというのが「死んでるみたいに生きてもいいよ。」っていうコピーなんですけど、どちらのことも伝えたかったんです。そんなに頑張って生きなくてもいいし、でも瞬間的には頑張る必要もあるし。すごく矛盾を孕んでいるんですけど。
燃え殻:僕は「ごっこ」でいいと考えているんですよ。一生懸命やるごっこ。だから、すべての行動に「コント」とつけてみたらいいんじゃないかなって。「コントプレゼン」とか「コント社会人」とか。そうやって役を演じたい。
長久:あ、僕がこうやって三つ編みをしているのも「コント長久允」なんです。僕自身はもともと超真面目な人間で、学生時代はこんな服装じゃなかったし、自分の考えを発言することなんてなかったんですよ。でも、そのままだと裸の自分すぎるのでコントにせざるを得ないというか。
『ウィーアーリトルゾンビーズ』の主人公のエピソードなんて僕の幼少期のまんまですし。ただ、両親は健在なので観たらどう思うんだろうってそわそわします。裸の自分を親に見られるのって恥ずかしすぎません? だから、先に映画のチケットを買って贈ってあげようかなって。こっそり観られても恥ずかしいので。
―それでも自分を表現するしかなかったのはなぜだったんですか?
長久:中2のときにポエムを書かざるをえなかった気持ちと一緒ですね。校則の厳しい学校にいたからパンクバンドがやりたくなるみたいな。
燃え殻:一緒かもしれないですね。僕、中島らもさんの『永遠も半ばを過ぎて』という小説がすごく好きで。その作品の主人公は、人が書いた原稿を打ち込んでいく仕事をしてるんですけど、あるとき麻薬でラリったまま写植機に向かって小説を書き上げてしまう。その小説のタイトルが「永遠も半ばを過ぎて」だった、という作品なんです。
それってまさに僕の仕事と一緒で。僕はテレビ局の人たちが作った原稿をいろんな書体で打ちまくるようなことをしてるんですけど、いろんな人のいろんな思いの込められた原稿を20年くらい打ち込んでいて。その過程で自分の中に蓄積された言葉があると思いたくて書いたのが、『ボクたちはみんな大人になれなかった』だったんですね。でも、それを小説と呼んでいいのかわからなかった。わからなかったけど、誰かに見せたい気持ちもあった。
そんなふうにして小説を書いた僕が、『ウィーアーリトルゾンビーズ』を観て同じものを感じたんです。「これって映画ですか?」っていう。僕は大好きなんですけど、なんかすごく映画を破壊している気がして。
長久:好きが故に、「映画ならこの破壊にも耐えうるだろう」っていう愛ですよね。殴っても受け入れてくれるだろうと思って作ったんです。とはいえ、やっぱり「こんなの映画じゃない」っていう人もいましたよ。なら、映画であるためになにが必要なのかを教えてほしいですけどね(笑)。
燃え殻:『ボクたちはみんな大人になれなかった』も、「ラブホテルに置いてあるノートだ」っていわれたことがあるんです。それでも僕はいろんな人に読んでほしいと思ったんですよね。それに僕はそこまで小説を読むのは好きじゃなかったんですけど、中島らもさんと大槻ケンヂさんは大好きでずっと読んでいて。あるとき、大槻ケンヂさんに会う機会があって「こんなの小説じゃないっていわれたでしょ? 俺もいわれたよ」って。その言葉を聞いた瞬間に開き直っちゃいました。この人がそういわれてるなら大丈夫だって。
長久:僕、ラブホテルのノートが小説として売られていたら買っちゃいますけどね(笑)。
- リリース情報
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- 『ウィーアーリトルゾンビーズ』
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2019年6月14日(金)から全国公開
監督・脚本:長久允
出演:
二宮慶多
水野哲志
奥村門土
中島セナ
佐々木蔵之介
工藤夕貴
池松壮亮
初音映莉子
村上淳
西田尚美
佐野史郎
菊地凛子
永瀬正敏
配給:日活
- プロフィール
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- 長久允 (ながひさ まこと)
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1984年生まれ、東京都出身。2017年、監督作品『そうして私たちはプールに金魚を、』がサンダンス国際映画祭にて日本人初グランプリを受賞。受賞歴にTCC新人賞、OCC最高新人賞、カンヌ国際映画祭ヤングライオンFILM部門シルバー他。
- 燃え殻 (もえがら)
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神奈川県在住。テレビ美術制作会社で企画・人事担当として勤務。会社員でありながら、コラムニスト、小説家としても活躍。『文春オンライン』にて人生相談コーナーを担当。雑誌『CREA』にエッセイを発表。2017年6月30日、小説『ボクたちはみんな大人になれなかった』(新潮社)が発売された。
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