クッションや陶器をモチーフに、フォトリアルな絵画を描いてきた伊庭靖子。彼女の個展『伊庭靖子展 まなざしのあわい』が、東京都美術館で7月20日からスタートする。
父も祖父も画家。そして、美術品や工芸品に囲まれて京都で生まれ育ったというバックボーンから、非常に繊細で工芸的な印象を彼女の作品からは受ける。だが、そのキャリアを俯瞰すると、そこには「見ること」をめぐる実験の痕跡が見えてきた。
繊細な陰影のグラデーションを巧みに描き、装飾的な世界を発表し続けてきた伊庭の、その作品に隠されていた別の目的とはなにか?約10年ぶりの美術館個展を控えた伊庭に話を聞いた。
1980年代は全体的に重たい時代だった気がします。
―伊庭さんはお父さんもおじいさんも画家という、芸術家一家に生まれ育ったそうですね。どんな家庭環境だったのでしょうか?
伊庭:祖父は私が生まれる前に亡くなっていたので、家に飾ってある油絵を知っているぐらいだったのですが、祖父の代から「伊庭研」という、美大や芸大に入りたい学生のための研究所をやっていたんです。
―いわゆる画塾ですね。東京でいう美大予備校のような場所。
伊庭:はい。なので2軒つながった私の家の片方には、いつも10代後半の変な若者たちがウヨウヨしていて(笑)。浪人の方もいるので、昼間っから家の前の通りでキャッチボールをしてたりするんです。
―絵も描かずに(笑)。いい雰囲気ですね。
伊庭:もちろん、みなさん絵の勉強もしていて、木炭で真っ黒になりながら絵を描いてましたよ。うちの猫が教室に遊びに行くと、真っ黒い眉毛をイタズラ描きされて帰ってくるぐらい(笑)。そういう不思議な環境だったので、物心ついた頃から絵を描く真似事をしていましたね。
個人的に、それ(フォトリアルな写実性)が自分の作品の特徴と言われることに引っかかる気持ちもある。
―ところが、伊庭さんは油絵科ではなくて版画科に進んでいます。
伊庭:幼少期の油絵の記憶というと、家の暗い廊下に飾ってある祖父の作品で。昔の絵なので色彩も暗く、表面もひび割れて怖かったんですよ。その重たい感じが嫌でした。かといってデザインではなく美術をやりたい、という気持ちはあったので版画を選んだんです。
―1986年に入学ですから、アンディ・ウォーホルが本格的に日本で知られるようになり、版画ブームが起きた1970年代を経た後の時代ですね。
伊庭:嵯峨美術短期大学に入学したのは父の薦めもあって、木村秀樹先生(日本を代表する版画家の一人、京都府出身)が教鞭をとってらっしゃったからなんです。木村先生は1970年代にたくさんの国際展で受賞されていて、京都や関西では先生のお弟子さんたちも活躍を始めていました。そういった先輩たちの影響も受けながら、版画を始めたんです。
それと、写真を見るのがとても好きで、それも大きい理由です。短大では1年で基礎として、銅版、木版、シルクスクリーンの3つを学びます。そして2回生に上がると、そのなかから1つを選ぶのですが、写真も色も扱えるシルクスクリーンを迷わず選びました。
―伊庭さんの作品の特徴としてフォトリアルな写実性がありますが、その原点でもある?
伊庭:個人的に、それが自分の作品の特徴と言われることに引っかかる気持ちもあるんですよ(苦笑)。でも今も、モチーフを写真に撮って、油絵で描くという手法を続けているので、原点が写真にあるのは間違いないです。
伊庭:1980年代は全体的に重たい時代だった気がします。アートでも、「ニューペインティング」といった油絵具を激しく重ねるような強い表現が主流の時代で、そういう濃い雰囲気に少しうんざりしてたんです。だからこそ、シャープで軽やかな写真の表現に惹かれたのでしょうね。
図鑑の写真って、ありのままじゃないですか。作品っぽい表現性も求められないですし。
―学生時代はどんな美大生でしたか?
伊庭:とっても普通ですよ。美大にいると、自分だけのオリジナルな作風を持つように強いられるところがあって、まわりの同級生も「時間」とか「男女の性差について」とか、すごい大きなテーマを掲げるんですね。でも私にはそういうのがまったくなくて。
1回生の技術を学ぶための基礎的な授業で「好きなものを描きなさい」と言われたので、普通に女の子が好きそうなイメージを描いたらものすごい勢いで否定されてしまって、それ以来「自分を出す」ってことが怖くなってしまったんです。
―「個性」を求める美大の教育は今もほとんど変わらないと思いますが、しんどさもありますよね。
伊庭:そんなときに出会ったのが図書館にあった図鑑です。図鑑の写真って、ありのままじゃないですか。作品っぽい表現性も求められないですし。それで、植物図鑑に載っていた植物をモチーフにして制作を始めました。
それでもやっぱり「自分なりのなにかを入れないといけない」って気持ちが当時はまだあったので、自分で植物を撮った写真をモチーフにするとか、有機的なかたちのマケット(模型)を自分で作って写真に撮ったものをモチーフにするとか……いろいろ試していましたね。短大を出て数年間は、版画をメインにした個展をやっていました。
写真を見ていると、ピントの合ったところとボケているところの間、その「あわい」にすごく透明感のある質感があると感じる。
―現在、伊庭さんが主に使っているのは油絵具ですね。なにか転機があったのでしょうか?
伊庭:版画を続けているうちに、自分のやっているのが同じことの繰り返しに思えたからです。今でも、ある程度シリーズを続けているとだんだん似た気持ちになって新しい実験を始めるので、これは私の性格かもしれませんね(笑)。
それで、1993年か1994年の1月1日に「今年は油絵を描こう!」って決意したんです。
―新しい1年の始まりに。
伊庭:まずは版画でやっていたのと同じように、自分が撮った写真を油絵で描いてみようと。それが思った以上に楽しかったんですね。
版画ってなんて邪魔くさい表現なのか、と気づきました(笑)。作りたいイメージはすでにあるのに、複数の版を作って、それを刷り重ねて……。でも油絵は直接描けばイメージがすぐに現れてくる。そのスピーディーさに、目が見開かされる思いでした。
―初期の油絵のモチーフは植物ですね。その後、現在にも続くような布やテキスタイルのイメージが登場します。
伊庭:写真のよいところって焦点のボケた「質感」だと思っていて、それを作品にしたいと思っていました。ただ、ボケているところだけを描いても単にボケた絵で終わってします。ある程度の具象性を残しながら、ボケたところを表現するのに、植物は的確だったんですね。
とはいえ、そればかり描いていて「植物を描く人ね」と思われてしまうのも本意ではありませんでした。人の目って具体的なものに強く惹かれるので、具象性の特徴を活かしながらも、そこにとらわれないようにしたかった。だから、シャツの襟元といった布も描き始めたんです。
―なるほど。伊庭靖子=写実的な作品というイメージから離れたいというのも同じ理由でしょうか?
伊庭:そうですね。私が常に気になっているのは映像の「質」なんです。それは目に見える質感に限らないと思っています。写真を見ていると、ピントの合ったところとボケているところの間、その「あわい」にすごく透明感のある質感があると感じます。その「質」だけを拾えないか、というのが自分なりの大きなテーマなんです。
―これまで伊庭さんの作品に対して常に思っていたのが、こんなにも似たモチーフをなぜずっと描き続けられるのだろうか?という驚きでした。禁欲的ですらあって、この忍耐強さはなんなのだろう、と。でも、それはすべて「質」をとらえるための方法だったんですね。
写真家で批評家でもあった中平卓馬は『なぜ、植物図鑑か』(1973年、晶文社)で、写真が「あるがままの世界に向き合うこと」の必要性を述べていますが、それとも通じる意識がある気がします。
伊庭:そうですね。中平さんのテーマや問いには共通する部分を感じていました。あるいは、リサ・ミルロイ(バンクーバー出身の画家。対象を真正面から描いた写実的な作風で知られる)という靴や皿ばかり描く画家の、ものとの距離の取り方にも大きな影響を受けてきました。それは今回の展覧会にも通じていると思います。
初期はモチーフそのものではなく映像的な「質感」をとらえることから始めましたが、次第にものそのものが発している「質」を描きたいと思うようになったんです。
伊庭:布を描くなかでもテーマや目的は次第に変化していきました。初期はモチーフそのものではなく映像的な「質感」をとらえることから始めましたが、次第にものそのものが発している「質」を描きたいと思うようになったんです。
―もの自体が発する「質」ですか?
伊庭:ものの「質」が生じるうえでの関係性というか……。質感は、ものの表面で照り返される反射光だったりするわけですが、その光を描こうと思うと、光が到達するまでの空気も影響してきます。それをふまえた素材感や質感にチャレンジしたいと思ったんです。
そこで目に入ってきたのが、光を拡散する布製のクッションや、ツヤが強調される素材である陶器でした。光と影の調子がわかりやすい、白っぽくて無地のものです。
―たしかに白いシーツや枕は、繊細な明暗を伝える素材ですね。ですが、近年のクッションの作品などには模様があるものも目立ちます。
伊庭:最初は、極細のシマ模様ぐらいだったのですが、この模様の存在がクッション本来の地とは異なる質感や空間性を示していることに気づきました。画面のなかに異なる性質を持った要素があることで生まれるのは、鑑賞者の「見る」経験の変化です。
はじめはクッションやソファーと思って見ているけれど、そのなかにちょっと違う要素として、例えば線的なものや浮いている色彩が混ざっている。それに気づくとき、鑑賞者は絵への新しい興味を喚起されて、「これはなんだろう?」と、絵のなかに入っていくような感覚を覚えます。それは単に絵を「見る」のではなく、絵を「体験」することへの経験の変化だと思うんですね。
―例えば、最初は派手な模様に目が行くけれど、じっと見ているうちにそれがクッションの一部であることに気づくわけですね。まるでカメラのフォーカス移動のように、絵のなかで鑑賞者の視点のポイントが変わっていく。そういう行ったり来たりする経験を通して、絵のなかに奥行きが生まれてくる。
伊庭:はい。そこには、私たちが物事を見て、認識することの仕組みがあると思うんです。
―そういう意味で、今回の展覧会に出品される新作は示唆的ですね。例えば、ガラス容器をアクリルボックスのなかに入れた状態で描いていると伺いましたが、アクリルには周囲の風景や反射した光が映り込んでいて、さらに複雑な距離感が生じています。
伊庭:ここ数年、モチーフをクローズアップすることに関心を向けてきましたが、そこから自分の立ち位置を後ろにぐーんと引いていって、モチーフのまわりの空気や質感を描きたいと思うようになったんですね。もちろんクローズアップしなくなるということは、表面の微細な質感をとらえづらくなるということなんですが、その離れる経験自体が面白いんです。
かといって、自分が主観的に感じている距離の遠さを、例えば霧がかったような描写に置き換えても情緒的すぎて余計な感じがする。そこで、実際にモチーフをアクリルボックスで囲んでしまえば、現実の風景にも、ペインティングのなかの風景にも、ある距離感が生まれてくる。そして、映り込んだ風景や光も描くことができる。
伊庭:あと、自分でも意外な展開になっているのが、ひさしぶりに版画に取り組んでいることです。
―その新作は、今回の展覧会にも出品されますか?
伊庭:はい。まだまだ試行錯誤中なんですが、風景画の新しいシリーズを10点ほど。モチーフからずっと離れていくと、描き込みどころがどんどん失われていって、これはもう油絵ではどうしようもないな、って感覚になったんです。そこで版画です。
版画はドットのような細かい粒子でできているんですが、複数の版でそれを重ねていくと、表面が苔の絨毯みたいになっていくんです。それは風景の描写としては正確ではないけれど、粒子の質感によって油絵の描写では実現できない「リアリティ」を持つようになりました。風景を質感として捉えることで、現実の距離や光とは異なるリアリティとして、眼で触るように風景を体感できる。
さらに「発泡インク」という、熱を加えることで膨らむインクも使っていて、それも面白い質感を生んでくれる。これがどういう方向に発展していくかまだわからないですが、新しい方向を示してくれているな、と思っています。
「それでもなくあれでもない。しかしこれ以外にない」と示せるものを探しているような気がします。
―展覧会のタイトルに「まなざしのあわい」とあるように、伊庭さんの関心は、見るという行為のなかにある「あわい」であるように感じます。
伊庭:それは言い換えると、「なにかではない」ってことなのかもしれません。「これが〇〇である」と断言するのが嫌で「それでもなくあれでもない。しかしこれ以外にない」と示せるものを探しているような気がします。
今回のタイトルは企画者の学芸員さんが提案してくださったんです。最初に聞いたときは少し情緒的な印象も持ったのですが、そこに英題の「A Way of Seeing(見る方法)」が加わることで、自分のやってきたことがクリアになった気がしています。
人は「見る」ことでなにを認識しているのか? そして、見るための方法を作品で探ることはできないか?その疑問を解くためのヒントとして「あわい」や「あいだ」をずっと意識してきたのかもしれません。
―それが制作手法の多様さにもつながっている気がします。今回はさらに、初の映像作品も出品されるとか。
伊庭:そうなんですよ。ステレオグラムという立体視を生かした作品です。
―砂嵐みたいなパターンで埋められた画像を、焦点をうまくずらして眺めていると隠されていた映像が浮かび上がってくる、という遊びですね。10年以上前に流行りました。懐かしいですね。
伊庭:ステレオグラムが苦手で、大人になるまでずっとうまく見れなかったんですよ。ところがあるとき挑戦してみたら「透明な犬」が見えて、ものすごく感動したんです。
ふたたび版画を手がけるようになって、考えていた粒子や距離の問題がステレオグラムのなかに現れた「透明な犬」と、すごくつながった気がしたんですね。そこで、今回はステレオグラムそのものを映像にして展示したいと思ったんです。
伊庭:聞いたところでは、人類の半分くらいはステレオグラムが見られないそうですね。だから勘のよい人は見れるけれど、見れない人もいるかもしれない。そういうところも面白くて、「見る」ってことの意味を問うようなものになるかもしれません。
―「透明な犬」という表現が独特で興味深いです。かつてイギリス首相だったチャーチルは、自身のうつ病を「黒い犬」と表現していました。その犬は、当然他の人には見えないものですし、チャーチル本人にも見えない存在だったかもしれません。でも、犬がいると表現することが彼にとってもっともリアリティのある言葉だったのだろうと思います。
もちろん伊庭さんの作品はうつ病を扱ったものではないですが、見えないからこそイメージを強く持つことが、むしろリアリティを生み出すという意味で「透明な」という表現は面白いと思います。
伊庭:そうですね。特に最近の作品では、遠ざかったり近づいたりすることで感じることのできるリアリティを扱っているのだと思います。そして、それは私にとっては絶対にあるんです。たとえ見えなかったとしても。
- 美術館情報
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- 『伊庭靖子展 まなざしのあわい』
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会場:東京都美術館 ギャラリーA・B・C
会期:2019年7月20日(土)~10月9日(水)
休室日:月曜日、8月13日(火)、9月17日(火)、9月24日(火)
※ただし、8月12日(月・休)、9月16日(月・祝)、9月23日(月・祝)は開室
料金:一般 800円、大学生・専門学校生 400円、65歳以上 500円、一般(団体) 600円
※団体割引の対象は20名以上「サマーナイトミュージアム割引」
7月26日(金)、8月2日(金)、9日(金)、16日(金)、23日(金)、30日(金)の17:00~21:00は、一般600円、大学生・専門学校生無料(証明できるものをお持ちください)
- イベント情報
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- 『対談 清水穣×伊庭靖子』
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2019年7月20日(土) 14:00~15:00(開場13:30)
会場:東京都美術館 講堂(交流棟 ロビー階/定員225名)
出演:清水穣(美術評論家)、伊庭靖子(作家) - 『アーティスト・トーク』
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2019年8月3日(土) 11:00~11:45、
2019年8月24日(土) 11:00~11:45
会場:東京都美術館 ギャラリーA・B・C
出演:伊庭靖子(作家) - 『キッズ+U18デー』
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2019年8月13日(火) 9:30~16:00(最終入室15:30)
会場:東京都美術館 ギャラリーA・B・C
対象:高校3年生以下の子どもとその保護者 - その他イベント情報はこちら
- プロフィール
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- 伊庭靖子 (いば やすこ)
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1967年、京都市生まれ。1990年に嵯峨美術短期大学版画科専攻科を修了。1999年にはフランスのモンフランカンにて滞在制作に取り組む。2001~2002年に、文化庁芸術家在外研修員としてアメリカ・ニューヨークに滞在。現在は京都を拠点に活動している。
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