音楽との「偶発的な出会い」をコンセプトに、東京・銀座にある「Ginza Sony Park」にて毎週金曜夜を中心に開催されているライブプログラム『Park Live』。毎回、ジャンル、世代、国境を超えた様々なアーティストが出演するこのイベントに、去る8月12日、いとうせいこうを中心に結成されたダブポエトリー・ ユニット「いとうせいこうis the poet」が出演した。これは「Ginza Sony Park」の開園1周年を記念し、8月9日~12日の4日間にわたって行われた特別編の一環として開催されたもの。
日本語ラップのオリジネーターのひとりである、いとうせいこうの真骨頂ともいうべき、強烈かつ刺激的な「音」と「言葉」の邂逅が繰り広げられたこの日のステージの模様を、終演後に行われたインタビューと共に振り返る。
いとうせいこうが小説や詩などの一節を、即興演奏に合わせて読み、ダブ処理を加えていく「ダブポエトリー」
開演より30分ほどはやく入ると、すでにDJが回すダブ /レゲエのサウンドが鳴り響き、普段とは違った趣を見せている「Ginza Sony Park」の地下4階。「Park Live」の会場となるこの場所は、ビールや食べ物を楽しみながらライブ観覧ができる開放的な雰囲気が魅力的だが、この日はフロア中央に設置されたダブミックス用のミキサー卓が、いつもとは一風変わった物々しい雰囲気を醸し出しているようだ。
この日の出演者である「いとうせいこうis the poet」は、日本初のダブバンド「MUTE BEAT」のメンバーを中心に結成されたダブバンド「DUBFORCE」から派生する形で生まれたダブポエトリー・ユニット。そのパフォーマンスは、いとうが小説や詩、演説などの一節をバンドの即興演奏に合わせてその場で読み、さらに、そこにダブ処理を加えていくというもの。この日、登場したメンバーは、いとうせいこう(Words)、DUB MASTER X(Dub Mix)、Watusi(Ba)、會田茂一(Gt)、龍山一平(Key)、コバヤシケン(Sax)、SAKI(Tp)の7人。
「長いことやっていたら偶然も必然によってつながっていくものですからね」(Watusi)
開演時間になり、まずはステージ上に、いとう、Watusi、龍山の3人が現れた。この日はドラマーの屋敷豪太が不参加だったのだが、その部分を、Watusiがサンプラーで補っていくスタイルのようだ。うねるような低音が響く中、ステージ中央の椅子に座り、iPadを操作しながら、音に合わせて身体を揺らしつつ言葉を発していく、いとう。音と言葉が熱を帯びていくに従い、會田、コバヤシ、SAKIの3人もステージに上がり、演奏に加わっていく。
「いい音で踊っていってください!」と、いとうはフロアに向かって語りかける。演奏の中心には「言葉」が強烈に存在しているが、その言葉は「意味」として、あるいは「メッセージ」として聴き手の脳に飛び込んでくるのと同じ速度で、聴き手の身体そのものを突き動かし、揺らしていくようだ。
まずは終演後の本人たちの発言から、この言葉と即興演奏の融合がどのようなメカニズムによって生まれているのか、紐解いてみたい。
―今日の演奏の手応えはいかがでしたか?
Watusi(Ba):いつも、「もうちょっといけたらな」と思うんですよね。リズムへのはまり方も、絡み方も、もうちょっと満足いくところまでいけたらいいのになって思っているうちに、演奏が終わっちゃう。
このバンドは基本的な曲のテーマはありつつも、サイズも自由に変わっていくインプロビゼーションなんです。それは、言ってしまえば偶然性によって成り立っているということなんだけど、でも、長いことやっていたら偶然も必然によってつながっていくものですからね。毎回、手繰り寄せている感じです。
―非常にストイックな感想ですね。みなさん長いキャリアを積まれてきた方々ですけど、それでも、なにか未知のものに向かっていくような感覚が、この「いとうせいこうis the poet」にはあるのでしょうか。
DUB(Dub Mix):この形は正解がないからこそ、1回のパフォーマンスの中でも、ただただ模索していくしかなくて。その模索の中で、途中で迷い道に入ったり、崖から落下しそうになるときもあるんだけど、それが面白い。
龍山(Key):やることが決まっていないバンドだから、その場でやっていることが正解なのか、間違いなのかも自分で決めなきゃいけないし、「やっては捨て、やっては捨て」っていう感じで、その場で感じていることをやっているだけなんですよね。だから、終わっても、自分がなにをやっていたか覚えていないことが多いし。
SAKI(Tp):私は最年少で恐縮なのですが(笑)、みなさんの演奏に一番楽しませてもらっていると思っています。今日も楽しかったです。
「踊らせたくて仕方がないんだよ」(いとう)
―僕は今日、ダブポエトリーのパフォーマンスを初めて体感したのですが、初めての音楽体験であり、初めての言語体験であり……本当に非常に刺激的な1時間でした。
いとう(Words):こういうインプロバンドって、普通はインストが多いと思うんだけど、僕らの場合は、そこに言葉が乗っているのが面白いと思う。その言葉も、僕が同じオケで違う言葉を読む、みたいなことを毎回のライブでやっているんだよね。
―いとうさんはiPadを操作されていましたけど、「なにを読むか?」というのは、ステージ上で決めていくものですか?
いとう:うん、そう。今日も昭和歌謡の歌詞をザーッと読んだ場面があったんだけど、それは「せっかく銀座だし、ファンクの上で昭和歌謡を読んでみたら面白いかもしれない!」ってその場で思いついたから。
それで、iPadからデータを出して読んでみたんだけど、そうしたら、バンドのみんなが音で反応してくれる。それがすごく面白くて。こっちが「意味」を提示して、みんなが「音」で返してくれる。すごく高度なセッションが成り立っているなって思うよ。
―楽器奏者のみなさんは、いとうさんの言葉に対して、ステージ上でどのように向き合うものなのでしょうか。
コバヤシ(Sax):普通に会話をするときも、相手の質問があって、それに対して応えるじゃないですか。それと同じ回路だと思います。もちろん、ある程度決まったフレーズはあるんですけど、せいこうさんが言ったように、同じ曲でも「前のライブで乗っていたのと、今日は言葉が違う!」っていうこともあるんです。
たとえば、せいこうさんが予期せぬタイミングで急に「バナナが食べたい」って言い出すかもしれなくて(笑)。そうしたら、それに対してその場で瞬間的に応えていくんです。
會田(Gt):もちろん、インプロだから楽器同士で張り合う瞬間もあるんだけど、それ以上にこの「いとうせいこうis the poet」では、言葉からインスピレーションを得、そこから自分ができることを探し始める感覚が大きいですね。もちろん、言葉に対する反応の仕方はメンバーそれぞれ違うんです。
いとう:集団で喋っているような感じなんだよね。そうしているうちに、「これは悲劇のほうにいっているな」とか、「これは喜びの方向にいっているかも」みたいな細かい動きが見えてきたりするんだけど、それを追いかけていくと、まったく違う場所に誰かが辿り着いていたりする。
それが本当に面白いし、なにより、決して現代音楽的なフリーキーなものではなくて、ダンスミュージックとしてそれをやるっていうところが最高なんだよね。ヒップホップに出会ったころも、サンプリングという現代音楽的なアプローチがありつつ、なによりも「踊れる」っていうところが最高だなって僕は思ったから。
Watusi:「is the poet」っていうくらいだから「言葉」ありきではあるんだけど、基本的にはディスコのエクステンデッド・バージョンみたいなもので、ずーっと気持ちよく飽きずに踊っていてもらいたいんだよね。ストーリーもありつつ、踊っていてほしい。それがダブの原点だよね。
いとう:そうそう、踊らせたくて仕方がないんだよ。
「『やっと音楽とひとつになれた!』っていう感覚があって、すごく幸せなんだよね」(いとう)
この日のパフォーマンスを体感して驚いたのは、いとうが読む「言葉」は「言葉」としての意味性や強度を失わないまま、それがバンドの即興演奏と出会うことで、快楽性の高い踊れる表現へと昇華されていたこと。
この日は阿久悠や細野晴臣、忌野清志郎の歌詞も読まれるなど、いとうのポエトリーはサンプリング的な要素も色濃いが、この日も披露されたシングル曲“直して次に渡す”には、足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴したことで知られる政治家・田中正造の演説が引用されている。こうした言葉には今、この時代や社会に向けて歴史や知性、思想を込めて言葉を解き放とうとするいとうの強いメッセージ性を見ることができるが、それを、誰をも疎外せず、あくまでも「音楽」として他者に伝えようとするところに、彼の上品さがあると言えるだろう。
―いとうさんが言葉を言葉だけで伝えることよりも「音楽」として伝えることにこだわるのは、先ほどおっしゃっていた「踊れる」という部分、つまり音楽の快楽的な側面に見出すものが大きいということでしょうか?
いとう:うん、そういうこと。自分とは考え方が違う相手に、こちらから一方的に喋っても、どこか自分勝手になっちゃうじゃないですか。でも、「踊る」っていう前提を共有できていれば、そこに快楽があるから、自分勝手にはならないし、失礼がない感じがするんだよね。
しかもこのバンドの場合、自分の言葉もダブ処理を加えられて、壊されていくのがいいんだよね。自分が躍起になってものを言っているときに、ダブ処理を加えられることで、「ひとりで好き勝手ものを言っているんじゃないよ!」って、ツッコミを入れてくれている感じがするんだよ(笑)。
―今日のステージ上で、ラップを辞めたあと古典芸能を学んだ時期があり、そこからポエトリーにいきついた、と仰っていましたよね。その流れについても詳しく伺いたいです。
いとう:遡ると、ヤン富田さんとDUBちゃんと一緒に、1989年に『MESS/AGE』っていうアルバムを作ったんです。それを出して東京と大阪でライブをやったんだけど、(DUBを指さして)この人たちが自分たちの演奏に入り込んじゃってさ、40分くらい放っておかれちゃったんだよ!
DUB:ははははは(笑)。そんなに長かったっけ?
いとう:普通は、トラックがあってラップがあるじゃないですか。そういう当たり前のことがイヤだったんだろうね、ヤン富田さんとDUBちゃんは。それで、今日の即興演奏みたいな感じになっていっちゃったわけ。
「いとうくんも自由にやっていいから」なんて言われたんだけどさ、そのころのはまだフリースタイルもないし、一応、自分の持っているラップをやるんだけど、その場で鳴っている音楽と全然合わない。そのとき、「言葉って、なんて不自由なんだろう!」って思ったんだよね。「全然セッションできないじゃん」って。それで1回、ラップを辞めちゃうんです。
そこから、DUBちゃんや高木完、須永辰緒と、自分の読みたい本を読んで、ダブをかけてもらうっていうことをやるようになって。その方法を見つけてから、「自分のやりたいことはこれだ!」って思ったんだよね。そのころはDJと一緒にやっていたんだけど、チャリティイベントでDUBFORCEが結成されて、このメンバーと一緒にバンドでやるようになってからは、「やっと音楽とひとつになれた!」っていう感覚があって。今はすごく幸せなんだよね。
「分断」が進行する今この時代、「いとうせいこうis the poet」のスタンスは重要な問題提起をはらんでいる
これまでの発言からもわかるように、「いとうせいこうis the poet」の表現は「対話」によって成り立つものだ。音楽と言葉が、楽器と楽器が、演奏とダブが、空間と人が、常に対話しながら世界が構築されていく。どのようにして「その場」に立ち、自分を語り、そして他者を受け入れるのか――そんなことを個々が意識しながら「対話」によって空間を成立させようとする「いとうせいこうis the poet」のスタンスは、「分断」が進行する今この時代において、とても重要な問題提起をはらんでいるように思える。
そしてなにより、そんな繊細な対話を表現として成立させるステージ上の7人からは、経験を積み、駆け引きや心遣いすらも楽しむことができる「大人の空気」を感じることができた。
いとう:このバンドは、プロデューサー率が高いんですよ。だから、演奏していて「今はこういう曲に作っていくんだ」みたいな、その場でアイデアが出てきて、曲ができていくような感覚がものすごくあるんだよね。
今日も、後半で一気にみんなが音を抜いていった場面があって。「音を止めちゃう」って、ダブにとってはすごく大事なセンスなので、「ここでやめるか!」っていうタイミングで、2人くらいを残して音が抜けていった瞬間……あれは堪らなかった(笑)。きっとお客さんも、そういう瞬間を無意識的でも察知して、スリルを感じてくれているんじゃないかな。「このまま、どこにいっちゃうんだろう?」って。
龍山:後半のあの部分は、DUBさんが音切ったんですよね?
DUB:うん。「いけんじゃね?」と思って(笑)。
いとう:これがダブの面白さだよなぁ……。僕も、声を出すか出さないかは、一瞬の判断を求められるからね。
Watusi:経験値からくる運動神経の高さみたいなものなんだよね。
會田:今日も、次にいくためのなにかが欲しいんだけど、誰もなにも出せなくなった状態のときに、宮崎さん(DUB MASTER X)がベードラをドーンッ! と出してくれて、それで僕らが次に進んでいった瞬間がありましたよね。
DUB:ひとつのアクションとして、音を出すのも切るのもものすごい責任なんだよね。そこでは、信頼関係をお互いに求められているなって思う。
俺は常にお客さんの背中しか見ていないから、どの現場に行っても、お客さんの表情が見えないわけよ。そうすると、「これは果たして正しいのだろうか?」って常に考えちゃう。安心できないんだよね。やっている最中の手応えがほしいんだけど、その手応えは、お客さんの背中しかない。
いとう:僕は孤高の人のような顔をして、実はお客さんの顔を常に見ながらやっているから、「こういう声を出すと、客が動くな」とか、案外、意識しながらやっているのよ。僕らは、そうやってお客さんの表情が見えるから「大丈夫だな」って思うんだけど……でも、そんな俺たちの気持ちを、どうやったらDUB MASTER Xに伝えられるのか、わからない!(笑)。
―長い付き合いの中、衝撃的な発覚でしたね(苦笑)。
いとう:でも、今日のライブはよかったよ。みんな「知らない、こんな音楽!」って興奮している感じだった。
DUB:よかったんなら、いいよ。
一同:(爆笑)。
いとう:DUBちゃん的に、「Ginza Sony Park」の使い勝手はどうだったの?
DUB:ちゃんとしているなって思った。やればやったぶん返ってくるものがあるし、やりやすい場所だったね。
會田:「Ginza Sony Park」みたいな、街の中に「この空間ってなんの場所?」って思えるような謎の空間があるのっていいですよね。
いとう:こういう場所があることが、街の贅沢さだよね。「Ginza Sony Park」は植物もバンバンあるけど、こういう空間作りって1980~90年代にはあったけど、いつの間にか日本がなくしちゃっていた文化だと思う。でも、こういう場所がないと文化として困るし、若い子がここでハイカルチャーに出会うのは、いいことだと思う。僕らも今後、ハウスバンドみたいな形でいっぱいやりたいね(笑)。
「『言いたいことがある』っていう気持ちはみんな同じなんだと思うんだよね」(いとう)
本編ラストを飾ったのは、DUBFORCEでも演奏される楽曲“浜辺”、そしてアンコールには“Dub Fire”を披露。圧倒的な熱量と快楽性によるパフォーマンスを見せた「いとうせいこうis the poet」。その音と言葉のうねりに身を任せながらも、ずっと「この場でお前はどう在るのか?」と問われているような時間でもあった。最後に、若き詩人たちも参加する『LIVE DUB JAM』というセッションイベントも主宰する彼らに、今だからこそ、彼らが「ポエトリー」という表現に懸ける思いを聞いた。
いとう:僕らがこの「いとうせいこうis the poet」での活動をやり始めたとき、ふと横を見ると、ポエトリーのシーンっていうのがあったんだよね。「じゃあ、一緒にやろう」っていう感じでやり始めたのが『LIVE DUB JAM』で。今の日本のポエトリーシーンには、面白い子がいっぱいいる。
ああいう子たちを見ると、僕らの時代の初期衝動に通じるものを感じて……やっぱり、「言いたいことがある」っていう気持ちはみんな同じなんだと思うんだよね。人の心を動かしたかったり、泣かせたかったり、踊らせたかったり、いろんな思いがあると思うけど、なににも捕らわれず、自分の言葉でそれができるのがポエトリーだから。
―ラップや歌ではなく、ポエトリーだからこその自由な表現があるんですね。
いとう:僕は規則が嫌いな人間だからね(笑)。そもそも、楽器さえ弾けないけど「なにかやりたい!」と思ってラップを始める人は多いと思う。だけどラップにも規則がたくさんあって。もちろん、規則があることは素晴らしいことでもあるんだけどね。でも、韻を踏むとかではなく、ただ「叫びたい!」っていう欲求を抱えている人には、ラップよりもポエトリーが合っているんじゃないかな。
規則がない中で上手に人の心を動かすには、それ相応の経験が必要だったりするんだけど、僕のやりたいことの中心にあるのはそういうことなんだなって、今改めて実感しています。
- イベント情報
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- 『Park Live』
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2019年8月12日(月・祝)
会場:Ginza Sony Park 地下4階ライブハウスともクラブとも一味違う、音楽と触れ合う新たな場となる"Park Live"。音楽との偶発的な出会いを演出します。
開催日:毎週 金曜日20:00 - 、不定期
- プロフィール
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- いとうせいこうis the poet (いとうせいこう いず ざ ぽえっと)
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いとうせいこう率いるダブポエトリーのユニット。メンバーは、いとうせいこう(Words) / Dub Master X(Dub Mix)/ 屋敷豪太(Dr.)/ Watusi(Bass) / 會田茂一(Gt) / 龍山一平(Key) / コバヤシケン(Sax)/ SAKI (Tp)。いとう自身の小説や詩や演説などの一節を、即興音楽に合わせてその場で選びながら読んでいき、常にそれをダブ処理することで音と言葉を拮抗させる。通称ITP。
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