あなたが「アート」という言葉から思い浮かべるのはどんなイメージだろうか? ひと昔前であれば、絵画や彫刻といった古くからある美術品のかたちだったかもしれないが、おそらく現在では、思い浮かべる人の数だけ、アートの種類も多様であるはずだ。写真、工芸、インスタレーション、パフォーマンス……。時代が多様性への許容を求めるように、アートも多様に拡張していく。
そんな現在を踏まえ、金沢21世紀美術館で始まったのが『現在地:未来の地図を描くために』展だ。同館の15年の歩みを振り返りつつ、アートのいる現在地を示そうとする同展において、ひときわ異彩を放つのが高山明 / Port Bの『マクドナルドラジオ大学』だ。美術館内のオープンスペースには、あのマクドナルドそっくりのカフェスペースがあり、店員が商品を販売している。しかしそこで売られているのはハンバーガーやポテトではない。買えるのは、ヨーロッパにたどり着いた難民や、東京で生きる中国残留孤児らが教えるラジオ講座である。
この奇妙な作品を、高山は「演劇」であると強く言う。では、彼が考える演劇とはどのようなものだろうか? 今話題の『あいちトリエンナーレ2019』に参加し、同芸術祭を巡る表現の自由の議論や、政治団体による脅迫の対策にも関わる彼に話を聞いた。
検閲って悪いものを作るだけじゃなくて、よいものを作るために必要になることもある。
―金沢21世紀美術館にはさまざまなコレクションが収蔵されていますが、高山さんの『マクドナルドラジオ大学』のような演劇作品が購入されるのはかなり稀なことだと思います。
高山:そうかもしれません。この作品はドイツのフランクフルト市でのプロジェクトから始まったもので、移民や難民と呼ばれる人たちが放送大学の「教授」となって、観客にそれぞれの生存のための技術や知をラジオ越しに伝えるというものです。その舞台として選んだのが、人々が日常的に使っているマクドナルド。マクドナルドが教室になる、という感じです。
―今日、そのお披露目がありましたが金沢にまつわる3つの新作が加わっています。そのうちの1本、小坂保行さんのエピソードがとても面白かったです。どこでスカウトしてきたのですか?
高山:金沢はフィリピンの人が多いこともあって、初めはこの街に住む外国の人を探していたんです。スカウトの田中沙季さんという方が教会前で待ち伏せしていたなかで出会ったのが、『ビッグイシュー』(ホームレス自立支援のために作られた雑誌。路上生活する人たち自ら同誌を販売し、自立を目指す)を売りにやって来た小坂さんでした。
―小坂さん、『ビッグイシュー』を売っているだけでなく、個人でZINEも作っているそうですから、編集者みたいですよね。
高山:作っている本も相当にユニークなんです。流行とか関係なく、思いつきだけで作る「自家中毒」みたいな本作りを大事にしたいと小坂さんは授業で言っていて。僕は大学院(東京藝術大学映像研究科)で学生に教えていますから、彼の話を学生に聞かせたかった。
学生の中には、技術はありますけど、このぐらいの基準があってこの辺のラインに合わせれば、よい作品が作れると無意識に思っている人もいる。それとはまったく逆で、小坂さんは初期衝動だけがすべてみたいな作り方を選びつつ、しかし僕らにとっても「なるほど」と共有できるテーマを選んでいる。彼自身が作った独自の論理があって、そこに感動するんです。
―マニュアル化されないクリエイティビティがある。
高山:例えば「演劇」みたいな共通の基盤に乗っかって、その基準に合わせた「忖度」みたいな作品づくりを僕らはけっこうやってしまいがち。そこには「検閲」に似た構造があります。ただ、そうした検閲に似た視点があることによって、逆に自分の価値観を超えた価値観やよいものを作れることもある。つまり、検閲って悪いものを作るだけじゃなくて、よいものを作るために必要になることもあると思うんです。
そもそも、人が学んでいくプロセス自体を、僕はある種の「検閲」だと思っていますから。自分のなかに自分よりもっとよい価値観を入れて、自分を否定していかないとよいものは作っていけない。だから、よい面と悪い面が同居しちゃっている検閲ってあらゆる物事において根深いものだと思うんです。
これは宗教も同様で、「神様が見ているから自分は悪いことはしない」っていうのは、自分への検閲。でもそれは悪い行いを正すことでもあるから、宗教では肯定される。このようにあらゆる場所で、暴力を含めたある種の力と検閲は結びついているわけです。ちょっとうまく言えないんだけれど、小坂さんの雑誌の作り方って、そこにも非常に批評的に絡んでいると思うんです。
ガチさやまじめさにはリスクがある。
―『ラジオ大学』に限らず、高山さんの活動には、都市や社会への関心がありますね。そのルーツはどこにあると思いますか?
高山:たまごが先かニワトリが先か、みたいな話でもあるのですが、中学時代の僕は「北海道計画」というものを企てていたんですよ。
―北海道計画?
高山:僕が生まれ育ったのは埼玉県の浦和市という、今は合併でなくなってしまった街で、いわゆる東京のベッドタウン、郊外都市でした。これといった特徴のない街で育った自分にとって、広大で、誰も住む人がいないような土地は憧れの場所で、地図帳を眺めては面白そうな地形を見つけて、そこに家を建てるとか、村を作るっていうファンタジーで遊んでいたんです。
―『シムシティ』(マクシスが開発する、プレイヤーが市長になり、街を発展させていくゲーム)みたいに。
高山:その憧れが高じて、19歳から22歳までの3年間、哲学者の牧野紀之さんが主導する共同体に参加して、コミューン生活を実践していたんです。村を作るとか、コミュニティを作るっていう欲求が、どうも自分の根本的なところにあったんですね。でも、実際に共同生活に入るとなかなかきついんですよ。
静岡の山中に夏休みの1ヵ月間行って、午前は勉強、昼は労働、夜また勉強みたいな自然生活を送る。それが終わって浜松の街に降りて、新幹線で家に戻るわけですけど、その途中にマクドナルドで爆食いしてしまうんです。
―禁欲的な生活から解放された反動で。
高山:毒を求めちゃう。自分が生まれた浦和市の毒と、その毒を浄化するものとしてのコミューン。その両方を求める志向が自分のなかにあるとわかったんです。そこに元々持っていた「自分自身でコミューンを作りたい」という欲望が結びついたときに、その最適な回路になったのが演劇でした。
高山:そもそも西洋演劇には、アテネという都市国家のなかに劇場があり、そこに市民が集まってルールを決めていくという歴史があります。その環境で、自分たちはどのように生きていくべきかを話す場が演劇であって、都市国家というコミュニティの一機能だったんです。
演劇をやったから都市にますます関心を持つようになったのか、それとも都市が僕を演劇に導いたのかわからないですが、そういう関係があるのだと思います。
―高山さんの作品は、ツアー形式で都市のスポットを巡るなど、一見すると演劇ではないように思えます。でも、あらゆる機会に「自分は演劇的手法で○○する」とおっしゃっていますね。もはや演劇である必要もなくて社会デザインと言ってもよいのでは? と思うこともあるのですが。
高山:ガチに共同体運動みたいなものをやってしまうと、すごく宗教化していくと思うんです。それはよくないことだと僕は思っていて、例えば家族にしても一枚岩の共同体になるのはよくないと感じます。ガチさやまじめさにはリスクがある。
それをずらしたり、別の迂回路をもたらすものとして、演劇はとても使い勝手のよいツール。演劇を通すことで見えてくる世界は豊かです。他方で、演劇なんてはっきり言えば無駄で、なくてもいい遊びみたいなもの。でも、その塩梅が僕にとってはとてもいいし、それを触媒として社会に還元していくと、実は社会にとってもよいんじゃないか、と考えています。演劇は偽コミューンなんです。
―フィクションであることによって豊かさが生まれる。
高山:その一方で演劇のなかに閉じこもるのもつまらないと思ってしまいます。なので「二重化」をしたい。実際の社会的なコミューンとフィクショナルな演劇的ななにか。それが重なっている部分に興味があるんだと思います。
いかにしてバラバラな乱数的世界を作れるかが、作家としての自分の役目だとすら思う。
―それは今回の『ラジオ大学』も同じですね。この近くにはマクドナルドの本物の店舗があるそうですが、美術館のなかには偽物のマクドナルドがある(笑)。
高山:僕らの作品のタイトルにもなっている「ヘテロトピア(現実に存在しながら、社会の制度と断絶した異なる場所)」は哲学者のフーコーの言葉ですが、彼は面白い比喩を用いています。
鏡のなかに映るイメージはユートピア(理想郷)である。なぜなら自分の影であって実在しないから。ただ鏡それ自体は実在していて、それはヘテロトピアだ、と。これは演劇にもあてはまる考え方で、演劇や劇場はいちおう実態のあるものだからヘテロトピア。でも上演のなかで立ち上がる偽コミュニティは半分リアルであって、半分ユートピアと言えるかもしれない。
―なかなか複雑ですけど、つまり虚実が入り混じって、わけのわからない状況が生まれるわけですよね。美術館のなかにマックの鏡像のような偽のマックがあって、でもそこでは100円を払えば飲みものと授業を買うことができる。その関係が、混乱した体験を生み出す気がします。
高山:乱すことが大切だと思うんです。今や世界的にどこの国もポピュリズムが力を持って、多様な考え方を認めない時代です。すべてが真面目になって、思考が硬化しています。
高山:ドイツで暮らしていたとき、僕は精神的に非常にきつい時期を経験しました。妄想が強くなって、幻覚や幻聴が聞こえるようになって外にも出れない。これは統合失調症の一歩手前だったと後になって知りました。そして、統合失調症というのは、僕の感じだと統合があまりに強くなって起きるものっていう気がするんですよ。
―統合というのは?
高山:精神科医の中井久夫さんが自著のなかで、統合失調症を判断するために、数字を言わせるテストがあると書いています。わざと1、7、3、2、4……みたいな乱数を患者に言わせるんです。しかし統合失調症を発症した人は、乱数を言えずに1、2、3、4……とどうしても順番に言ってしまうらしいです。つまり、1つのルール、1つの秩序に統合的に支配されてしまっている。
―なるほど。「乱れ」が失われることが実は異常かもしれないと。
高山:乱れを許容しないって、すごくリアリティがあります。今や、そういう時代になってしまったのだと肌で感じます。だからこそ、いかにしてバラバラな乱数的世界を作れるかが、作家としての自分の役目だとすら思うんですね。統合を逃れるための迂回路を作り、遊べる場所を作っておく。
―とてもリアリティのある話だと思います。高山さんが参加している『あいちトリエンナーレ2019』(10月14日会期終了。取材は終了前に行われた)でも、表現の不自由展実行委員会の思想的な頑なさや、あるいは電凸(企業や団体へ電話で問い合わせる行為)をしてくる人々のクレームとか、ある意味ではアーティストや運営側も、それぞれの考えのベクトルに強く拘束されて見えることがあります。
高山:統合失調症を完全に発症すると、人は世界のことがすべてわかったという妄想に囚われるそうですが、1個の基準を内面化して信じきってしまうのはそれに似ている。「わかった経験」っていうのを、いかにわからなくさせて乱すか、っていうのは、僕ら表現やアートに携わってる者の現代的な課題なんじゃないかなと思います。
これまでは、都市のなかの特異な存在や人に興味が向かっていたが、むしろ今は「普通の人」に関心がある。
―同トリエンナーレの正常化を目指す活動の一環として、高山さんは「アーティストコールセンター」(後に『Jアートコールセンター』と改称)という新しいプロジェクトを立ち上げていますが、それも今おっしゃった課題に関わるものでしょうか? トリエンナーレでは、企画展示の1つだった『表現の不自由展・その後』に対して、運営事務局や愛知県内の公的機関や協賛企業に電凸攻撃が集中したことが大きな問題になりました。
高山:これまでは、都市のなかの特異な存在や人に興味が向かっていたのですが、むしろ今は、いわゆる「普通の人」に関心があります。これはまさにトリエンナーレへの電凸が大きなきっかけになっています。
あれって、多くは普通の人たちがかけているんですよ。組織で圧力をかけるプロ的な人もいるんですが、それよりもむしろ、「普通」って言葉に隠れてしまっている個人がなにかの拍子に集団になって、はるかに恐ろしいバケモノみたいのが現れてしまう。その理由とメカニズムが知りたい。明らかにそういう時代に日本はなっていますし、第二次世界大戦に至るまでもたぶんそうだったと思います。
そして、例えば日韓関係の推移を見ていると、まさか起こるとは思わなかった戦争の気分みたいなものが醸成されている。それは誰もが感じていることでしょう?
―戦争の経済と技術が発達して、民間の傭兵を抱える戦争企業による代理戦争などは起こっていますが、たしかに国と国が直接衝突する戦争の可能性も否定できなくなっていますね……。
高山:それを回避するためには、今はむしろメインストリートを生きている人を扱って、そのなかに異なる迂回路を見つけていかなければならないように感じています。実は、かつて僕も2ヵ月間にわたって電話攻撃を受けた経験があるんですよ。その間はすべての時間が電話によってコントロールされるような状態で、正気ではいられませんでした。だから、県の職員さんたちが3時間も4時間も苦情の電話を受け続ける状態の厳しさがわかる。
そこで最初に考えたのは、僕らアーティストが職員さんたちの代わりになって電凸のサンドバックになることでした。ですが、もう一歩踏み込んで、電凸を取り巻くルールや対策自体を新たに作ることを、今は考えています。公的な行政機関では、公共サービスとして電話を切っちゃいけないといった暗黙の了解があります。しかし、その妥当性はけっこうグレーでかなり広い。そこに電凸してくる人たちや、公務員の職業意識といった、いろんなものが渦巻いている状況なんですね。
そこで、法律家やコールセンターのプロを招き、ワークショップ形式で1つひとつを検証していくと、脅迫に対する線引きになると同時に、新しいガイドラインを作ることができるのではないかと思っています。それは、これまで考えてきた都市や共同体の問題、新しい公共の定義ともつながってくる気がするんです。
演劇や劇場は、制御装置なんです。多くの人に開かれた場であると同時に、そこに入れない他者を作りだし、共同体を制御していく暴力を持ち合わせている。
―単に「電凸への対策マニュアルを作るということでは?」という印象も持ったのですが、このプロジェクトは作品と呼べるものになるのでしょうか?
高山:そこは難しいところですが、先に述べた検閲のよい面と悪い面の話につながる予感がするんですよ。というのは、ここで作られるマニュアルは、逆に電話の「表現の自由」を規制する暴力的な「法」にもなりかねない。その懸念に対して、僕は「そのとおりです。そういうものを作ろうとしています」と答えます。つまり無制限の暴力みたいなものを、さらなる暴力によってコントロールしようと試みる。毒をもって毒を制する。それは制度化を強める発想でもあります。
しかし、そもそも演劇自体がそういうものなんですよ。ギリシャの劇場には市民が集められて、そこで「フィクショナルな市民像」が作られ、管理される。そのコントロールは劇場を出たあとも影響して、都市国家のアイデンティティを作り出していく。演劇や劇場は、制御装置なんです。多くの人に開かれた場であると同時に、そこに入れない他者を作りだし、共同体を制御していく暴力を持ち合わせている。
―つまり電凸のマニュアルを作る過程が、演劇や劇場を作ることとイコールで結ばれる?
高山:それは実際にやってみないとわかりません。しかし少なくとも、僕は演劇とはその両方の力を持つべきだと考えています。近代以降、演劇は制御する力のほうを捨てて、舞台上で社会問題を扱ったり、作品を見せることのみを演劇としてきた。
演劇は舞台上にしか存在しないと思われているような状況ですが、むしろ演劇がコントロールしてきたのは観客のほうなんです。だって、大勢を1箇所に集めて、一定時間黙っていろ、って大変な暴力ですから。さらに、高額なチケット代は、経済的な基準による排除もうながす。そういった諸々のコントロールを、コールセンターにあてはめてみたいし、コールセンター自体がそういった演劇の両義的な暴力性がそなわっている場だと予感しているんです。
―『あいちトリエンナーレ』では、当初から『パブリックスピーチ・プロジェクト』という作品を上演することになっていて、そこでは日本のアジア侵略にも関わった思想「大アジア主義」についてのテキストを用いています。これらはいわゆる右翼的な性質を持っているわけで、政治的なきわどさをはらんでいますよね。最近の高山さんは、倫理的な動揺を誘うような作品を意図的に作ろうとしていませんか?
高山:繰り返しますが、そういうのを積極的にやることで演劇の力を確認すべきだと思っています。「演劇人=アーティスト」みたいな図式がいまや当たり前になっていますが、ギリシャ悲劇の作者であるソポクレスやアイスキュロスは詩人であると同時に軍人や役人でもあったわけで、むしろ権力を持っている人が演劇制作の担い手だった。誤解を恐れずに言えば、演劇という武器を使いこなしてコントロールの手段とすると同時に、社会に乱数を発生させるためのプログラムとして使う。そうしたあり方を自覚することで、演劇の定義は大きく変わります。その根源的な暴力性を自覚的に引き受けることでしか、演劇を更新できないのではないでしょうか?
演劇は毒でもあり薬でもある。けれども、その二面性をきれいに分けて、薬としてだけ使っても演劇は死んでしまう。だからですよ、演劇を本気で観に行く人がほとんどいなくなったのは。僕自身、演劇に足を運ぶことはもうありません。むしろ美術のほうが、「純粋さ」や「正しさ」の強度を持っていて、演劇はそこには太刀打ちできない。
だとすれば、演劇は不純度や混在性……正しいものと悪いものが混ざり合うダイナミズム、ある種の俗的な力に賭けていきたいと思っています。
アートはそれぞれの時代や社会の空気を反映すると同時に、個の強さを伝えるものでもある
高山へのインタビューを終え、あらためて『ラジオ大学』も展示された『現在地:未来の地図を描くために』の会場を歩いてみた。これまでに金沢21世紀美術館が集めてきたコレクションと、テーマごとに集められた空間は、美術館に所属する学芸員がそれぞれのテーマに沿ってキュレーションしたものであるという。政治、科学、ゲーム、関係性など、作品の傾向も種類も多様だ。
同展は、この美術館が始まって15年目を記念して企画されたが、この多様な作品群は、美術館が見て来た15年の多様さを伝えるものでもあるだろう。10月12日からは、さらに金沢ゆかりの工芸作品や新たなインスタレーション、新作が加わり展示規模はさらに大きくなっている。この広い多様性があったからこそ、高山が演劇として定義した『ラジオ大学』も美術館のなかに現れることができた……と言えるかもしれない。
アートはそれぞれの時代や社会の空気を反映するが、同時に個の強さを伝えるものでもある。並列し、併存する個的な作品たち。果たして、それらは高山の言う「社会に乱数をもたらす」存在となれるだろうか。『あいちトリエンナーレ2019』は『表現の不自由展・その後』の展示再開とともに、展示中止されていた他作家の作品が復活し、いちおうの正常化を見せた。だが、文化庁による同トリエンナーレへの補助金不交付の決定は現時点で撤回されておらず、アートと社会と政治の摩擦は依然として収まっていない。つまり、この問いはこの後もずっと続いていくのだ。
- 美術館情報
-
- 金沢21世紀美術館
『開館15周年記念 現在地:未来の地図を描くために』 -
会期
現在地[1]
2019年9月14日(土)~12月19日(木)現在地[2]
2019年10月12日(土)~2020年4月12日(日)※会期中に展示替えあり
前期:2019年10月12日(土)~12月19日(木)
後期:2020年2月4日(火)~4月12日(日)
- 金沢21世紀美術館
- プロフィール
-
- 高山明 (たかやま あきら)
-
1969年生まれ。2002年、演劇ユニットPort B(ポルト・ビー)を結成。実際の都市を使ったインスタレーション、ツアー・パフォーマンス、社会実験プロジェクトなど、現実の都市や社会に介入する活動を世界各地で展開している。近年では、美術、観光、文学、建築、都市リサーチといった異分野とのコラボレーションに活動の領域を拡げ、演劇的発想・思考によって様々なジャンルでの可能性の開拓に取り組んでいる。
- フィードバック 2
-
新たな発見や感動を得ることはできましたか?
-