女性たちの「50年後の理想の自分」を視覚化した『My Grandmothers』や、老女と少女の残酷な物語を描いた『Fairy Tale』などの写真シリーズで、1990年代より世界的に活躍してきた美術家、やなぎみわ。2010年以降は、かねてから関心を抱いていた演劇に挑戦し、戦前の前衛美術の舞台化や野外劇も手がけてきた。そんなやなぎの10年ぶりの個展『やなぎみわ展 神話機械』が神奈川県民ホールギャラリーで開催されている。
過去の代表的な作品群に加えて、会場には、男神と女神の別離を描く「古事記」の桃投げの神話をベースとした新作の写真シリーズや、人間不在の世界で4台のマシンが繰り広げる自動演劇作品が並ぶ。演劇と美術を往復しながら活動してきたやなぎの、近年の思考とは? また、危機の時代の前衛美術を舞台化してきたその眼に、政治と美術の関係が問われる現在の状況はどう映っているのか。展覧会開幕直後の作家に尋ねた。
写真提供:神奈川県マグカル・ドット・ネット
日本の二分するやり方、切り分けるやり方にはずっと違和感があるということです。
―今回の展覧会は、やなぎさんにとって10年ぶりの個展になります。この間、やなぎさんは主に演劇プロジェクトを展開してきましたが、会場ではそれと並行して制作された新作を観ることができます。はじめにそのひとつ、「古事記」の神話を背景に福島県の桃農園を撮影した、『女神と男神が桃の木の下で別れる』について聞かせてください。
やなぎ:このシリーズは、古事記でイザナギ(男神)とイザナミ(女神)の別離を描く、桃投げの神話を題材にしています。
桃投げの神話とは、人間のために火を産んだ女神が死に、彼女を追って死の国にきた男神がその腐乱した姿に驚いて逃げ、最終的はあの世とこの世の境で妻に桃を投げつけて追い払うという物語です。それによって、妻は死の国、夫は火とともに生の国に戻り、ふたつの世界は分かれる。桃とは、その境目を象徴するものだと解釈しています。
この話に限らず、神話には変な話が多いですよね。オチもなければモラルもない。ましてや、そもそも人間中心には語られない。身も蓋もない話ばかりなのですが、なかでも古事記というのはかなりおかしな話だと感じてきました。
やなぎ:この神話に違和感を覚える点は多々ありますが、たとえば、別れのあと、妻が「大勢の人間を殺す」と言うのに対し、なぜ夫は「より多くの人間を生む」と言うのか。そして、そもそもなぜ火を産んだ女神を死の国に追いやったのか。そうしたことに関心があったんですね。そこから別れのきっかけとなった桃を被写体に撮ろうと考えました。
―男と女、生と死の国を分けるこの神話をいま取り上げたいと思ったのは?
やなぎ:日本では現代に限らず、世界の闇の部分がネガティブに捉えられがちでしょう。それについてはずっと違和感を感じていて。闇の部分を切り分け、封印したり覆い隠したりする。それは、日本の天皇制や神道に関わる問題でもあります。
この東シナ海のアジア文化圏のなかで、死を「穢れ」とする思想は日本にとくに強いものだと思います。また、それを女性に担わせるという文化もそう。そのような二分するやり方、切り分けるやり方にはずっと違和感があるということです。
―撮影場所となった福島の桃農家はどのように選ばれたのでしょうか? 制作時期や桃というモチーフからは、東日本大震災との関係を連想します。
やなぎ:私の制作では、最初に頭のなかにイメージが浮かび、それに合った被写体を探しに行くことが多いんです。福島の桃農園も、いろんな候補地をめぐった結果出会いました。だから震災の問題と今回の作品の関連性は、私も現地でいろいろと気がついたものです。
この写真シリーズは、私の作品のなかでも画期的なものです。被写体に人間ではないものを選んだこと、大きな箱型カメラを使ったこと。そして、写真を眼だけでは撮らないということも考えました。桃の撮影では、テントのように布を被り、一晩中仰向けに寝るんです。すると、背中と地面がべったり重なる。正直、2016年に撮影を始めたばかりの頃は、まだ放射能の除染作業が盛んで少し気にしていましたが、撮影を進めるうちに樹と土、水の循環と自分が一体化するような感覚があって、それはとても大きかった。
今年はご縁があって、視覚障害者の方たちと一緒に夜中の果樹園で撮影をしたのですが、私が撮りたいような写真がたくさん生まれて嬉しかったですね。写真とはそういう開かれたメディアです。みなさん、もちろん見えてはいないんですが、桃の気配と、匂いと、土の感触で撮るわけです。
―まさに、視覚だけで写真を撮らないことの実践ですね。作品を前にすると、実際はただ桃を撮った写真にも関わらず、過去の作品に通ずる独特の虚構性を感じました。
やなぎ:そうだと思います。何も加工はしていないのですが、私の性質なんでしょうね。どこか物語性もあると思いますし、マジックリアリズムのような雰囲気もあると思う。
近年は野外劇に力を入れていますが、屋外の舞台では、すべてが沸き立ち、声を上げて喘いでいるんです。風、天候、気圧、人間、あらゆるものが瞬間的にも止まらず激しく動いてる。その反動として何かを定着させたいという欲望もありましたね。野外劇で暗闇を照らすためにつねに持っていた懐中電灯も、この作品の土台になりました。
人外の場所で、機械が演じることを実現したとき、人間が愛おしくなると思う。
―一方、この会場の代名詞である二層の大展示室では、ギリシア神話の女神の名前が与えられた4台のマシンによる無人の演劇空間『神話機械』が展開されています。
やなぎ:2010年に演劇を始め、はじめて本格的に手掛けたのが、1920年代のドイツ表現主義やロシア・アヴァンギャルド、大正期の日本の前衛美術などを題材にした『1924』三部作(第一部『Tokyo–Berlin』(2011年)、第二部『海戦』(2011年)、第三部『人間機械』(2012年)からなる演劇シリーズ)でした。この時代はマシーナリーな美学が流行しており、芸術家のあいだで自動劇場の夢が盛んに描かれました。バウハウス(第一次世界大戦後、ドイツ中部の街・ワイマールに設立された造形学校)の初代校長ヴァルター・グロピウスも、「トータルシアター」という劇場機械を計画しています。
やなぎ:機械が永久機関のごとく動き続けるこうした夢は、実現化したわけではないですが、のちの劇場機構の発展につながりました。また、アントン・チェーホフのような内的な心理描写による演劇もありますが、それとは対極の「型」でやる演劇もある。私にはそうした演劇への憧れがあるんです。
たとえば『南極ビエンナーレ』(2017年、ロシアの美術家アレクサンドル・ポノマリョフが企画した南極が舞台のプロジェクト)も人外の世界をテーマにしていますね。
私もいずれは参加したいと思っているのですが、そうした人外の場所で機械がずっとハムレットやギリシャ悲劇を演じるというのは面白いと思っていて。というのも、おそらくそれを実現したとき、人間が愛おしくなると思うからです。近年では宇宙に美術作品を送り込む試みもありますが、それにも近いかもしれません。
『南極ビエンナーレ』の様子
―宇宙や南極など、一度人間の認識の外を感じさせる場所に出ることで、あらためて「人間」が見えてくる、と。
やなぎ:そうです。ただ、演劇でそれをやるのは通常は無理なんですよ。複製芸術の小説や音楽ならできるけれど、演劇は絶対的に人の肉体がないとできないから。しかし、機械を通すことで可能になるかもしれない。「演劇の複製芸術化」の試みとも言えます。
大衆の逆鱗に触れれば制作ができないので、芸術家の意志はだんだん薄れていくんです。
―舞台ではない場所に劇場空間を立ち上げるという意味では、やなぎさんが2016年から手掛ける中上健次原作の『日輪の翼』も、巨大なステージトレーラーで巡礼しながら上演されるキャラバン形式の野外劇です。
やなぎ:そうですね。今年10月に神戸で行なった『日輪の翼』は、新幹線車両などの重機運送に使われる巨大で平らな船を客席に、半分海、半分陸のような場で上演しました。舞台となる陸側は中央卸売市場で、どこまでが演出で現実かわからないような感じでした。
通常の劇場とは、演劇をやるための機械です。相応の設備やスタッフを備えていて、毎日間違いなく上演できるようになっている。だけど、裏を返せばその範疇でしかないとも言える。一方で野外劇では、何が起こるかわかりません。とくに今回は市場を舞台にしたことで、芸術と労働の関係について考えるきっかけにもなりました。
―というのは?
やなぎ:一般的に芸術は、毎日の反復からなる労働とは対極のものと考えられています。ただ演劇の再演は、毎日同じことをするわけですから、その意味では労働に近い。
それに野外劇では、地元の人に可愛がってもらうことが決定的に重要です。可愛がってもらい、おひねりをもらってご飯を食べる。これは非常に古典芸能的な発想のように聞こえるかもしれませんが、野外に舞台を作るには、その土地から認証されることが必要です。よそ者が、いきなりやってきて、生者や死者が集う「斎庭(ゆにわ)」となる場所を作るわけですからね。土地の歴史と交わったり、または国家的なプロジェクトに参加してしまうと大衆と交わることになる。大衆の逆鱗に触れれば制作ができないので、芸術家の意志はだんだん薄れていくんです。
―大衆との距離感が徐々に曖昧になっていくんですね。
やなぎ:演劇の歴史は、スペクタクルをはさんで芸術家と政治と大衆が激しくせめぎあった歴史でもあります。美術史よりもそれは顕著ですが、さまざまな時代で芸術家がどうやって「個」と「孤」を守るために戦ったか。その上に私たちがあります。
一方で野外劇をしていると、天災などともできる限り共存していこうという気持ちになるんです。でも、ヨーロッパでは決してそうではなく、「自然とは戦うもの」という意識が強い。私にはそれらを両方やりたい気持ちがあって、『神話機械』で旧東ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーの『ハムレットマシーン』(1977年)を題材にしたのもそうした想いがありました。機械になっても生き延びることを描くこの物語は、とてもヨーロッパ的ですから。
―『神話機械』の展示室の壁には、海洋博物館で女性の船首像を撮影し、それを上下逆さまに展示した「アルゴー船の船首像」という写真シリーズもありました。
やなぎ:あれも去年から始めたシリーズで、今後もどんどん増えていくと思います。船首像というのは大航海時代に多く作られたもので、動物像などもありますが、私は女性像を選んで撮影しています。船の舳先は一番雨や風を受ける場所で、海がシケっていると完全に海のなかに潜ってしまうそうですが、そうした一番きつい場所に女性像があった。このシリーズでは、それらをまとめてアルゴー船の船首像と言っています。
こうした個人制作と野外劇を並行できることは、とても贅沢なことであり、同時に矛盾した活動です。その矛盾については、つねに自覚しておくべきだと思っています。
大正アヴァンギャルドは実際に存在したのか興味があったんです。前衛活動はただの若気の至りだったのでは、と(笑)。
―あらためてお聞きしたいのですが、2010年にやなぎさんが本格的に演劇の世界に挑戦された際、現代美術に対してはどのような思いを抱いていたのでしょうか。
やなぎ:現代美術、とくにそのエリート主義には強い違和感がありましたね。日本はまだまだ芸能と工芸の国なんですよ。私は学生時代に工芸をやっていましたが、これは素材と技法の積み上げで完成度を上げる世界です。一方、芸能は消えモノというか蜃気楼のようなもの。そのなかで現代美術は、既存の伝統に対してつねにパラダイムシフトを仕掛ける世界。そのダイナミズムはいまも好きですが、どうしても自分の血肉にならない感覚があったんです。
それに対して、演劇は一種の芸能ですが、母や祖母が宝塚が好きだったこともあり、こちらは小さい頃からそれなりに親しんだ世界でもありました。一度、そちらもやらないといけないと思って始めたわけですが、ここまで長くやるとは思っていませんでした。
―その際、さきほどの『1924』三部作など、1920年代の前衛美術を題材にしたのはなぜですか? この時代の日本は、関東大震災の発生や治安維持法による国からの締め付けの強化という点で、現代との関連性を感じさせます。
やなぎ:『1924』でとくに多く取り上げたのは、大正の前衛美術家の村山知義ですが、大正アヴァンギャルドは実際に存在したのか興味があったんです。実際、あの時代に活躍した作家は第二次世界対戦の後、アヴァンギャルドには戻らなかった。村山もどんどん政治的な社会主義リアリズムに向かうわけで、前衛活動はただの若気の至りだったのでは、と(笑)。
―なんと(笑)。
やなぎ:もちろん、すごい人だとは思います。でも、本当の前衛美術はこの国では難しいのではないかという絶望的な気持ちがあったのです。
また、この1920年代から1930年代という時代は、作家にとってつねに振り返るべき時代だと思うんです。日本の文化がかつてこれほどインターナショナルだった時代はないのに、1930年代に入ると、瞬く間に世界との関係を断絶してしまう。本当に激しい時代で、いろんな力がせめぎ合っていた。
―実際に1930年代に向かうにつれ、芸術家はどんどんイデオロギーのための表現を行うようになりました。具体的にはプロレタリア芸術が美術の主流になっていく。
やなぎ:私たち現代の芸術家は、「芸術のための芸術」と気軽に口にしますが、当時は命をかけて「純粋芸術」を叫ばなければいけない時代だったと思うんです。ロシア・アヴァンギャルドなんかはいい例ですね。国策が変われば、あっという間に前衛美術家は抹消されていく。そのなかで、作家は本当に強くなければいけなかったと思います。実際、平気で二枚舌を使い、国を騙しつつ制作していた。
結局、アートが社会に及ぼす影響はとても少ないなということは実感します。
―日本のいまの状況を見ると、まさに、よくも悪くも芸術がイデオロギーのためのものになっていく感覚を覚えます。最近は『あいちトリエンナーレ』の問題もありました。
やなぎ:『あいち』は私も一度、渦中のなかでレクチャーに行きましたが、芸術祭としてはとてもいい雰囲気でしたね。若い作家たちが必死に問題を考えていて、そこに希望を感じました。
―やなぎさんとしては、どちらかと言うと「政治のための芸術」には向かわず、できるだけ「芸術のための芸術」に踏み留まりたいという思いをお持ちなんですか?
やなぎ:そんなことはないですよ。政治のための芸術だって、容認されなければいけません。ただ、芸術は何かの目的のための、ただの道具ではありません。私の性質として矛盾を含んだ重層的な作品が好きで、正直に言えばプロパガンダの表現には好感を持てない。たとえそれが何をテーマにしていようと、表現が一枚岩だからですね。作品の本質を議論する力が弱いと、単なるプロパガンダの応酬という不毛な状況を生むだけでしょうね。
―もう一点、今回の展覧会には、『My Grandmothers』(2000年)などジェンダーの問題を扱ったやなぎさんの過去の代表作も展示されています。女性をめぐる問題は、いまやっと美術界でも大きなイシューになっていますが、20年前からこの問題を扱ってきたやなぎさんは、この間の環境の変化をどう感じていますか?
やなぎ:それは聞かれるとけっこうつらい質問です。近年は、美術館の館長に女性が就任したというニュースもあり、美術の状況も多少はよくなったと思いますが、日本はぜんぜん変わっていません。国会議員の数も含め、一定の地位以上はすべてオジサンばかりというどうしようもない状況がある。結局、アートが社会に及ぼす影響はとても少ないなということは実感します。ジェンダーの問題に関しては、私もつらいですね。
―ただ、会場には、やなぎさんの過去作にじっと見入る女性たちの姿もありました。
やなぎ:若い人たちは、過去の作品群をあまり知らないようなので、それは、あらためて展示ができてよかったと思う部分です。これは古今東西ずっとある、長い問題ですから。前近代から比べればよくなったと思いますが、今後も長い視野で問わないといけませんね。
生きている人間には聞くな。死んだ人間に聞け。
―今回の展示は、過去作から新作も含めてやなぎさんの思考を振り返ることのできるいい機会でした。あらためて、ご本人にとってこの10年はどんな時代でしたか?
やなぎ:とても面白かったですよ。演劇はまるで違う世界だったので、いままでの自分の表現を客観的に見られる機会でしたし、とくに野外劇を始めてからは、美術館がどういう場所なのかもよく分かりました。ひさしぶりに美術館で展示をして、とても膨大なお金を使って作品を管理して、残そうとしている。その意義は、あらためて感じました。
ただ、野外劇もやっていると、同時に美術館には違和感を感じますね。たとえば、日本には近代美術館という大きな建物が多くありますが、日本の土地の気候に合っていないと感じるんですよ。私が関わった美術館にも、湿気が多い館があった。アジアのすごく湿潤な土地に、大きなコンクリートの箱を作って、普通ならば朽ちてなくなるものを無理やり残している。そうした日本の近代のあり方を見た感じがします。
―最近は、台風19号による川崎市市民ミュージアムの浸水被害もありましたね。その意味では、文化の伝承の問題を考えたとき、西洋型の近代美術館という形式が果たして日本の風土に適しているのか、あるいはやなぎさんの野外劇のように、一見流動的でも各地を巡りながら行うかたちがいいのか、あらためて問われていると思います。
やなぎ:いろんなかたちがあっていいと思います。たとえばインドでは、ロンドンの大英博物館から持ってきたアーカイブスが、あっという間に虫とネズミの餌になり、粉状になったそうです。とくに日本においては、美術は近代に接ぎ木されたものですから。いまさら美術館はなくならないだろうし、今後もより強固な箱を作っていくんでしょうね。
私個人としては、これまで同様、演劇と、美術館に展示される作品を往復しながら制作していきたいと思います。実際、その往復によってしか作れない作品がありますから。
―最後に、1920年代や30年代は何度も見直されるべきだというお話がありましたが、今回の『あいち』の件にしても、今後、日本はアーティストにとって風当たりの強い国になるのではないかという予感があります。そうしたなかで、やなぎさんからこれから若いアーティストはどのような姿勢を持つべきか、一言お聞きしたいです。
やなぎ:1920年代や1930年代を振り返るべきだというのは、それが作家にとって厳しい時代だったからです。その時代をつねに胸に刻んでおくことが大事で、さもなくば、あっという間に飲み込まれてしまうと思います。戦争やファシズムというのは、決して心地悪い感じではやってこない。むしろ心地のよい感じでやってくるものだと思います。気持ちよくさせることによっていつの間に飲み込まれる。だから要注意だと思いますね。
野外劇をやるとよくわかりますが、たしかに日本の管理は厳しいです。白か黒かで言えば、野外劇なんてグレーに決まっている。でも、グレーゾーンなんかないと言われたら自由領域がなくなってしまう。すべて白にしろと言われてもできないし、その意味でどんどんやりにくくはなっています。でも、そこは上手いことやるんですよ。
―さきほどの、地元の人に可愛がってもらうというのもひとつの手ですね。
やなぎ:そうそう。所詮、我々芸術家は「河原乞食」なんです。職能で知恵が必要です。日本には根付いていない大文字のファインアートについては、ヨーロッパの過去のアーティストに学べばいいと思います。
私が若い人によく言うのは、「生きている人間には聞くな。死んだ人間に聞きなさい」ということです。死んだ人間はなかなかすぐには答えてくれませんが、自力で肉薄すれば必ず答えてくれる。自分が今後、どんな風に生き残ればいいかは、その人たちに聞けばいいと思います。
そして、危機の時代の方がいい作品が生まれる。名作が安泰な時代に生まれた試しはほとんどありません。その意味では、楽しみな時代でもあると思いますよ。
- イベント情報
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- 『やなぎみわ展 神話機械』
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2019年10月20日(日)~12月1日(日)
会場:神奈川県 横浜 神奈川県民ホールギャラリー
時間:10:00~18:00
11/29(金)、30(土)はライブパフォーマンス開催のため17:00に閉場。(入場は16:30まで)
休館日:毎週木曜日
料金:一般1,000円 学生・65歳以上750円 高校生以下無料
- 『やなぎみわアーティスト・トーク』
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2019年11月16日(土)
会場:神奈川県 横浜 神奈川県民ホールギャラリー 6階大会議室
時間:14:30~15:45
料金:無料
- 『MM』
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2019年11月29日(金)、11月30日(土)
会場:神奈川県 横浜 神奈川県民ホールギャラリー
時間:各日19:00受付開始、19:30開演
料金:ベンチ席2,000円、立見1,500円
- プロフィール
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- やなぎみわ
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1967年神戸市生まれ。1991年京都市立芸術大学大学院(工芸専攻)修了。1990年代半ばより、若い女性をモチーフに、CGや特殊メークを駆使した写真作品を発表。制服を身につけた案内嬢たちが商業施設空間に佇む『エレベーター・ガール』シリーズ、2000年より女性が空想する半世紀後の自分を写真で再現した『マイ・グランドマザーズ』シリーズ、少女と老婆が登場する物語を題材にした『フェアリー・テール』シリーズ等により国内外で個展多数。2009年第53回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館代表。2010年には福島県立美術館で開催された『胸さわぎの夏休み』展に出品。2011年より本格的に演劇プロジェクトを始動。大正期の日本を舞台に、新興芸術運動の揺籃を描いた『1924』三部作を美術館と劇場双方で上演し話題を集めた。あいちトリエンナーレ2013にて上演した『ゼロ・アワー 東京ローズ 最後のテープ』は2015年アメリカ数か所を巡回した。横浜トリエンナーレ2014を皮切りにステージトレーラー・プロジェクトが立ち上がり、2016~19年には野外劇『日輪の翼』となって横浜・新宮・高松・大阪・京都・神戸への移動公演を行った。また2018年高雄市美術館(台湾)の国際企画展に招待され、新作写真シリーズ『女神と男神が桃の木の下で別れる』等を発表した。
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