『大和(カリフォルニア)』『TOURISM』と作品を出す度に強烈な映像世界を作り上げて、国内外で注目を集めてきた宮崎大祐監督。最新作『VIDEOPOBIA』は大阪を舞台にした異色のスリラーだ。女優志望の愛は、一夜を共にした謎の男に情事の映像をネットにあげられてしまう。モノクロの映像で捉えた大阪のコリアンタウン、鶴橋の不思議な風景。そして、DJ BAKUが初めて挑んだサントラが、観る者を迷宮のような物語に引き込んでいく。そして、そこから浮かび上がる日本社会のリアル。この物語に描かれた恐怖とは一体なんなのか。映画でしか撮れないものを追い求め、リスペクトするミュージシャンの背中を追いかけて映画を撮り続けてきたという宮崎監督に話を訊いた。
僕は「いつか世界に境目がなくなればいいのに」ってまじめに思っています。
―今回の映画は、大阪というロケーションが重要な役割を果たしています。主に鶴橋~桃谷周辺で撮影されたそうですが、その土地のどんなところに惹かれたのでしょうか。
宮崎:もともと大阪にはよく行っていて、鶴橋や桃谷には、東京には絶対ない景色があるのを知っていたんです。今回、やりたかったことのひとつに「表層はどれだけ本質と関係があるのかを考える」ということがあって、鶴橋周辺を舞台にすれば、そのテーマにリンクするんじゃないかと思ったんですよね。あの辺りは古い日本と新しい日本が混在していて、ギャップがすごいというか時代感が全くない。そこが面白いと思ったんです。
―確かに独特の表層=風景を持った土地ですよね。ヒロインの愛の実家も独特な感じで。
宮崎:今回、プロデューサーの友人の方に桃谷の古い家をいろいろ紹介してもらったんです。その方は桃谷の古い家を一括管理されているんですけど、なかなかよい家が見つからなくて。それで最後に「私が住んでいる家も見ます?」って案内してくれたのが、あの家だったんです。すごく不思議な家なんですよ。お風呂場で座ってしかシャワーを浴びられないとか、トイレが透けて見えるからカーテンを閉めないといけないとか、いろんなルールがあって(笑)。
―家の周囲に神社とかでよく見る紙垂(しで)が飾ってあるじゃないですか。あれは演出ですか?
宮崎:もともと飾ってあったんです。家の周りが倉だったり、真裏が神社だったりしたんで宗教的な場所なのかもしれないですね。助監督から(紙垂を)「邪魔だから外しますか?」って訊かれたんですけど、「えっ、なんで?」って。せっかくいい感じのものがぶら下がってるのに。それに外しちゃったら祟りとかあるかもしれないじゃないですか(笑)。
―そう思っちゃいますよね(笑)。監督の作品はマージナル(境界 / 辺境)な場所が舞台になることが多いように思いますが、今回は特にそうですね。古い日本と新しい日本、日本と韓国が入り混じった街で、さらに愛の家は異界と接しているような雰囲気が漂よっている。
宮崎:辺境というか、境目がゴニョゴニョしながら拡張していく感じが好きなんです。境目にいる人たちは境目に近づき過ぎているがゆえに「境目ってないよね」って思っている気がするんです。小学生みたいなセリフですけど、僕は「いつか世界に境目がなくなればいいのに」とかってまじめに思っていたりするので、今回の舞台も境目にしたのかもしれないですね。
―境界というのは中心から見てそう思うわけで、境界に住む人にとってはそこが中心ですもんね。この映画では土地の魅力を引き出しながらモノクロの映像にしたことで、また別の空間に作り変えているような印象を受けました。なぜ、モノクロを選んだのでしょうか。
宮崎:大阪といえば「水の都」じゃないですか。水を撮るのはカラーより白黒のほうが絶対映えるんです。あと、「デジタルで白黒を撮るというのはどういうことなのか?」っていう問題をずっと考えていて。カメラが発達していく初期段階の白黒と、最新のデジタルであえて白黒にするのとでは、白黒を使う意味が違うと思うんです。デジタルの白黒は作られたものであり、ある意味、ニセモノじゃないですか。でも、そこに本物が写ってしまうこともあるのかも知れない。その実験をしたかったんです。
―では、色目は細かく調整して?
宮崎:かなりやりました。ペドロ・コスタの映画で色調整をしているゴンサロ・フェレイラっていうカラーリストに依頼したんですけど、まず、ロケ地で撮った白黒写真をポルトガルのゴンサロのスタジオに送ったんです。こんな感じになるって。ゴンサロは原一男(日本の映画監督、作品に『ゆきゆきて、神軍』など)と森山大道(日本の写真家)が好きで、「そういう色でいい?」って言われたので、それでお願いしました。だから、これはゴンサロが思い描く日本の白黒なんですよね。でも、ポルトガル産なので微妙にヨーロッパっぽい質感もあって。
―そのせいか、いろんなモノクロ映画の記憶が浮かんできますね。
宮崎:そうですね。たぶん、自分の映画史的な記憶の層を行き来していて。日本の白黒映画とかヨーロッパの白黒映画とか、「白黒映画と言えば」という映像をパロディ的に取り入れつつ、そこに大阪という街が持つ歴史を掛け合わせることで独特の世界観が生まれたんじゃないかと思います。
作品を撮るとき、そこにどんな音楽が流れているか考えるのが好きなんです。
―その独特の世界観にDJ BAKUさんの音楽が奥行きを与えています。どういう経緯で依頼されたのでしょうか。
宮崎:僕は『Back To Chill』っていう、渋谷でやっていたダブステップのイベントによく行ってたんです。GOTH-TRADのセットとかハンパなくて、そこで鳴っていた音が、この映画にあうと思ったんです。映画の準備をはじめた頃、BAKUさんに知り合ったんですけど、BAKUさんは僕のレジェンドの一人で、THA BLUE HERBと(BAKUが参加していた)MSCが僕の20代を形成したといってもいいくらい大好きなんですよ。出会った頃、BAKUさんはダブステップよりの音をやっていたんで、サントラをお願いすることにしたんです。
―レジェンドとのコラボレーションですね。
宮崎:イメージは『Back To Chill』とかダブステップとかジャングル系なんですけど、そういうのを2019年版にアップデートした感じでって、お願いしました。エンディングテーマに関しては、あそこまで狂乱の曲ができるとは思ってなかったんで、最初聴いたときに「なんてリアクションしたらいいんだろう?」って思って。「これ、ジャンルはなんですか?」ってBAKUさんに訊いたら「流行りのトラップっぽくしました」って言われて、「全然違うでしょう!」みたいな(笑)。
BAKU, Jin Dogg, Nunchaku, Tatsuro Mukai, Kuni, Tomy Wealth“VIDEOPHOBIA”を聴く(Apple Musicはこちら)
―千葉のハードコアパンクバンドのヌンチャク、地元鶴橋のラッパーJin Dogg、トラックメイカーのTomy Wealth、そして、BAKUという濃厚なコラボレーションで生まれた強烈な曲ですね。ダブステップが映画に合うと思ったのは直感ですか?
宮崎:イギリスにBurialっていうミュージシャンがいて。彼の曲は解釈をズラしたダブステップみたいな感じで、暗い水の中でなにかが蠢いているような音なんです。それがこの映画の白黒の映像とか、水のイメージとか、物語の背後でなにかが蠢いている感じとマッチしていたんで、Burialを聴きながら脚本を書いたり、大阪をロケしたりしてたんです。
Burial『Street Halo / Kindred』を聴く(Apple Musicはこちら)
―なるほど。水の中でなにか蠢いている感じってダブっぽいですね。監督の場合、映画のイメージを膨らませていくうえで音楽の役割は大きいですか?
宮崎:大きいです。新しい作品を撮るとき、そこにどんな音楽が流れているか考えるのが好きなんです。その音楽が見つかると作業もはかどる。新作に取り掛かるとき、プロデューサーとの打ち合わせで「今回はこういう曲でいきたいんです」って言うと、「脚本もできてないのに曲は決まってるの?」って呆れられたりします(笑)。
―音楽が物語の世界観になっているんですね。
宮崎:人生で1番好きなのは音楽なんですよ。2番がサッカー。映画は3番目かな。僕はロックから音楽に入ったんですけど、普段付き合いのある方で尊敬する人は監督よりミュージシャンのほうが多いですね。
―音楽の道は考えなかった?
宮崎:1番好きなものを仕事にしちゃうとヤバいっていうことに20代前半で気づいたんです。多分、生活全部それだけになっちゃって、その状態で続けていくのは厳しいと思うんですよね。
外見と内面はイコールだって言う人がいるけど、自分はそこに引っかかるんです。
―映画に話を戻すと、街の表情も印象的ですが、登場人物の顔も印象的です。とにかく特徴のある顔の役者さんがたくさん出てくる。その代表と言えるのが青山愛を演じた廣田朋菜さん。見る者を惹きつける個性的な顔立ちです。
宮崎:廣田さんに似た顔の人って今まで会ったことがないんですよ。楳図かずおの漫画に出てくるギョッとした顔ってあるじゃないですか。ずっとその状態みたいな。
―ただ、他の映像作品を見ると、そこまで楳図顔じゃなくて可愛く撮られている。楳図的ポテンシャルは監督が引き出したんじゃないかと思うのですが。
宮崎:そこはカメラマンとすごく研究しました。どのアングル、どんなライティングがギョッとする顔を引き立たせるか、撮影前に2人で打ち合わせを重ねました。この映画は彼女の顔がつまらないと持たないと思ったんです。
―表情も独特ですね。感情が読み取りにくいというか。
宮崎:なにを考えているのかわからないけど周りの注目を惹く。「なにを考えてるんだろう、この人?」って思わせるようなキャラクターにする努力をしました。でも、そういう顔って作ろうとすると難しくて。廣田さんはもともとそういう表情なんですよ。何度か「いまなにを考えてたんですか?」って訊いたんですけど、「なにも考えてないです」って(笑)。
―イメージしていたキャラクターの特徴をもともと持たれていたんですね。
宮崎:なかなか、そういう女優さんはいないですから。廣田さんは子役からやられているので、大人にこういう顔をしなさいと言われたときにやる顔がいろいろあったみたいですが、そういう顔は全部剥がしました。
―愛は普段でも謎めいた表情がないのに、着ぐるみを着てバイトをしていたり、顔にパックをつけて登場したりして、まるで仮面をどんどん変えていくようです。先ほど「表層はどれだけ本質に関係あるか」というテーマの話が出ましたが、顔という表層と内面の関係があやふやなまま物語が進んでいきます。
宮崎:最近、外見と内面はイコールだって言う人が増えてきて、それを哲学的に証明した人もいるんですけど、僕はなんか引っかかるんですよね。外見を変えたら内面も変わるんだろうかって。そういう問いかけも、この映画でしたかったんです。人間は周りから自分を定義してもらって安心しているところがあって。占いで「あなたの今日の運命はこうです」って言われて納得したり、そういうのって絶対正しくない気がするんです。
自由に生きることを幸せだと思ってきたはずなのに、今や監視されていることが安全だと思うようになっているんですよね。
―愛は演劇のワークショップで「自分じゃない自分を演じろ」という課題を出されて戸惑います。その後、被害者の会に出たときも彼女はそこに馴染めない。社会の中で生きていく個人の孤立感やプレッシャーも、この物語から伝わってきますね。
宮崎:「自分らしくあれ」とか「何歳までに結婚したほうがいい」とか、そんな情報が日常に溢れているじゃないですか。それをネタとして楽しめた時代はもう過ぎてしまって、今はそういう決めつけが人々を追い込んでいると思うんです。そういうことを、わかりやすく描きたいという気持ちもありましたね。
―周りからキャラクターを決められ、同調圧力を感じながら感情を表に出さずに生きていく。愛が置かれている状況は今の日本の社会を表しているようですね。
宮崎:その苦しさは僕自身が感じていることなんですよね。多分、みんなキツイと思ってるはずですけど、大きな流れに呑み込まれていってるんじゃないかって。僕だけが感じていることだったら、世の中、終わってると思います。
―そういう風に社会にがんじがらめになる恐怖に加えて、自分のプライベートを他人に見られる恐怖も映画では描かれます。インターネットにプライベートな映像が拡散される。これは耐えられない苦痛ですね。
宮崎:インターネットにアップされたら永久に消せないって言われてますからね。映像で記録される恐ろしさっていうのは、ここ数年でどんどん大きくなっていると思います。最近、車に記録用のカメラを載せるようになってきたじゃないですか。あれって事故が起きたときに倫理的な対応ができる人を育むのではなく、記録映像で相手を攻撃するだけの短絡的な人間を育ててしまうんじゃないかと思うんです。今や映像が脅しの道具になっている。本来、映像ってそういうものじゃなかったはずなのに。
―街を歩いていた愛がはっと気がつくと、防犯カメラに見つめられているというシーンも不気味でした。
宮崎:電車の中に防犯用のカメラを付けることになった、というニュースに、9割くらいの人が「これで安心だ」と思ったらしくて。監視から逃れて自由に生きることを人間は幸せだと思ってきたはずなのに、今や監視されていることが安全だと思うようになっているんですよね。監視のもとで生まれるクリーンな社会では、どんどん人間味がなくなっていく。黒か白しかない社会。グレーがない社会になってしまうんです。そのことに対して、もっとみんな考えるべきなのに、違うところに関心がいってしまっていて、その間に事態は急速なスピードで進んでいる。それが僕には怖いんですよね。
―そういう社会に対する違和感を映画に記録したいという想いは、常に監督のなかにあるのでしょうか。
宮崎:あります。自分の描きたい世界だけを描くのなら、CGアニメをやってると思うんです。自分が作った箱庭で完結していればいい。CGで映画ができてしまう時代、しかもコロナで人が集まるのが難しいときに、それでもなぜ実写で映画を撮るのか? って考えると、時代の空気や、自分がそのとき考えていたこと、その瞬間しか起こり得ないことを記録するのが映画だと思うんです。そういうことは意識しないでも映り込んでしまうものではあるんですけど、僕は意識的に入れておきたいんですよね。
―それは映画を撮り始めたときから考えていたこと?
宮崎:僕が映画を始めた1990年台後半って、ミニシアターブームで映画を見ることが格好よかったんです。パンフレットにはいろんな文化人が原稿を寄せていて、アートとか知恵の蓄積を垣間見る喜びがあった。そこに自分も参加したいと思って映画を撮り始めたんですけど、だんだん様子が変わってきたんです。最近では(映画制作は)「なぜこの時代に実写を撮るのか?」っていう問いを考えるための時間になっていますね。いま僕がこうして撮り続けられているのは奇跡みたいなもの。僕は映画学校で映画を学んだんですけど、当時100人くらい生徒がいましたが、その中で今も映画を続けているのは3人くらいだと思います。
―そうした苦しい状況の中でも、映画を撮り続けようとするエネルギーはどこからくるのでしょうか。
宮崎:僕は若い頃からTHA BLUE HERBが好きで、ILL-BOSSTINOっていうラッパーがいるんですけど、彼は北海道出身で、東京で全然相手にされなかった初期の頃にレコードを背負って宇田川町まで売りに行ったり、50歳過ぎた今でもレコ屋に自分でポスターを貼りにいく。そういう人の背中を見てきたのは、自分にはデカいかもしれないですね。THA BLUE HERBの生き様を映画制作という立場でやるとしたらどうなるんだろう。理解者がいなくても、誰も観てくれなくても映画を作り続けて、決して歩みを止めないっていうことができるんだろうかって考えてきた。THA BLUE HERBが走っている限り、自分も止まれないなって思います。
『This Is THA BLUE HERB』プレイリストを聴く(Spotifyを開く)
―今も彼らを追いかけ続けている?
宮崎:最近は年齢的なこともあって、もうBOSSの背中を追えないかもっていう弱音も出ているんですけど(笑)、あの人たちは相変わらずなんですよね。年齢を重ねていくらか丸くなって、言葉は優しくなってるけど相変わらずスゴい。もう、生き様というか人格がそのまま作品になっちゃってますから。いつか自分が大きい映画、商業映画を撮ることがあっても、あの人たちから学んだメンタリティーは忘れたくないし、今でも映画なんてやめたいと思ったときに、THA BLUE HERBの曲を聴くと「くそっ、こんなんじゃダメだ」って奮い立たされるんです。
- 作品情報
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- 『VIDEOPHOBIA』
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2020年10月24日(土)からK's cinema、11月7日(土)から池袋シネマ・ロサ、第七藝術劇場で公開
監督・脚本:宮崎大祐
音楽:BAKU(KAIKOO)
製作:DEEP END PICTURES、十三・シアター・セブン
出演:
廣田朋菜
忍成修吾
芦那すみれ
梅田誠弘
サヘル・ローズ
辰寿広美
森田亜紀
上映時間:88分
配給・宣伝:boid、VOICE OF GHOST
- プロフィール
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- 宮崎大祐 (みやざき だいすけ)
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1980年、神奈川県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、映画美学校を経て、黒沢清監督作品など商業映画の現場にフリーの助監督として参加しはじめる。長編第二作『大和(カリフォルニア)』はいくつもの国際映画祭で上映された。2019年にシンガポール国際映画祭とシンガポール・アートサイエンスミュージアムの共同製作である『TOURISM』を全国公開。最新作は大阪を舞台にしたデジタル・スリラー『VIDEOPHOBIA』。
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