言葉を投げかけ、受け取ることや、同じ空間を共有すること、セックスをすること……そうした行為をいくら重ねても、他人の心をそっくり覗き込むことはできない。けれど、自分自身の心についてなら、どこまでも探究することができる。村上春樹の短編小説『ドライブ・マイ・カー』を読んで受け取った一つの大きなメッセージは、そのようなものだった。
一方で、濱口竜介が実写映画化した『ドライブ・マイ・カー』からは、「人の気持ちを完全に理解することはできない。しかし、わかろうとすることを諦めない」という、ひたむきな姿勢と、強い意志が感じられる。濱口と大江崇允が執筆し、結果的に『カンヌ国際映画祭』で脚本賞を受賞することとなった映画版のストーリーを、村上も文書を通じて快諾したのだそうだ。
突き詰めると自分以外には「他者」しか存在しないこの世界で、人々が共生していくことはできるのだろうか? 映画『ドライブ・マイ・カー』を観ていると、そんな途方もない問いにも少しずつ向き合えるような感覚が、ゆっくりと、しかし確かに、身体のなかに湧きあがる。
監督に撮影時の話を訊くと、この映画自体がどこまでも誠実なコミュニケーションのうえに成り立っているからこそ、そのような実感が観客にまで伝わってきたのだという納得感が溢れた。取材時に教わった、人と関係性を築くうえでの大切な姿勢を、襟元を正して共有いたします。
ベッドシーン撮影における俳優との信頼の築き方
―映画『ドライブ・マイ・カー』は、霧島れいかが演じる音(おと)と西島秀俊の演じる家福(かふく)が裸でベッドにいるシーンから幕を開けます。劇中のベッドシーンはどれも、過剰に身体を映さず、女性が受け身にばかりなっていない点が印象的でした。撮影にあたり、監督が留意された点はありますか?
濱口:役者が少しでも嫌がっていれば、身体に現れるのがどれだけ些細な兆候であってもカメラはそれを捉えます。そして、それを映画から見て取る注意深い観客も必ず出てきます。ですからまずは役者と脚本の相性をキャスティングの段階で考慮しました。霧島さんがこの役を受けてくれたのはとても幸運だったと思います。
カメラの前で肌を見せて、映像として記録に残るということには、基本的にとても高いリスクがあります。ですから脚本には「この程度の演技や表現が必要になる役です」ということを最初から明記して、その条件を前提に役を受けてもらいました。
ベッドシーンをきちんと撮るのはぼくにとっても初めての経験だったので、普段は描かない絵コンテを描いたり、過去の映画のワンシーンを見せたりして、「このように撮ります」とできるだけ具体的にお伝えしました。事前に着衣の状態で、動きをリハーサルもしました。役者さんに明確にイメージを持ってもらうだけでなく、これ以上の演技は必要がないのだと知ってもらい、その点では安心してもらうためです。
―実際の撮影現場ではいかがでしたか?
濱口:「あれもこれも」と追加の要望をしないようにしました。ベッドシーンに限らず、お願いしていた前提を現場で崩さない人だと思ってもらうことは、役者さんとの信頼関係においてすごく大事なことです。
加えて、ベッドシーンは基本的にあまり人に見られたくないものだと想像できるので、撮影は各部署、できうる限り女性スタッフのみで、必要最低限の人数で行ないました。
「もし少しでも嫌だと思えば、言ってくだされば撮影を止めます」ということは、ご本人にお伝えして、全体にも共有しました。ちなみに同様のことは西島さんにもお伝えしました。男性はそういうシーンを恥ずかしがらない、というわけでもないと思ったし、ベッドシーンを演じるのがどれだけ怖いかということは、現場に行ってみないとわからないと想像したので。そういう段取りの結果、役者さんが演技に集中できるようになればと考えていました。
―近年では性別に関わらず、身体を露出するシーンなどで役者をケアする「インティマシーコーディネーター」という職業も注目されています。同作ではそのような選択肢について検討されていたのでしょうか?
濱口:検討しました。ただ、予算や手続きの点で不明な点も多く、実現しませんでした。撮影を始めた2020年3月ごろは、「インティマシーコーディネーター」という職業が日本で紹介されて、本当に間もない頃だったことも大きいと思います。だからこそ、いままで言ったような、考えつく限りの対策は取ったうえで役者さんとコミュニケーションを重ねて、慎重に進めていきました。
言語 / 非言語のコミュニケーション
―『ドライブ・マイ・カー』には海外キャストの方も多数出演されており、劇中では9か国の言語が話されています。日本語が通じない方々とのコミュニケーションで苦戦された部分はありませんでしたか?
濱口:現場では、まずはシンプルに通訳さんを頼りました。同じ言語で話すよりも時間はかかるけれど、その行程さえ事前に想定できていれば、日本語で話すのとそこまで変わらないように思います。
細かいディテールは、通訳の方がいないとうまく伝えられなかったと思いますが、本読みの時間が役者さんたちとのコミュニケーションの時間にもなったので、根本的な信頼関係については、言葉が通じないという部分でのマイナスはあまりない気がしました。
まったく日本語が理解できないキャストの方もいましたが、特に演技の面においては言葉が完全にわからないことで、その回路が塞がれるぶん、別の感覚が研ぎ澄まされるというか。かえってシンプルにコミュニケーションできる部分があったと思います。
―映画のなかでも、「言葉がなくても伝わること」や「言葉があっても伝えられないこと」について考えさせられる場面が多くありました。
濱口:言葉は言葉で、とても大事なコミュニケーションツールとして存在していますが、一方で言葉では伝えられないことがあるということを、誰しもが感じていますよね。
―純粋にどうやって言葉で表現したらいいのかわからない感情もありますし、わかっていても口に出すのが憚られる話題もあります。
濱口:言葉によって伝えられないことを、どうやったら尊重しあえるかというのはどこまでも悩ましいですが、違和感があるときに、たとえ具体的にならないとしても、できるだけそれを伝え合うということに尽きるのかなと思いました。「違和感がある」ということ自体を言葉にしたり、言葉以外の合図を出したりして。それは自分やこの現場にとっては、むしろウェルカムなことなんだということを共有することが大事だと思います。
映画撮影の現場でも、どこかに違和感があるときには、でき得る限り、先に進まないようにする。そのようにしていかないと、撮影しても結局その違和感がどこかに映り込むことになります。それはフレーミングや編集では排除しきれないものです。だから、できる限り現場の全員が違和感を表明できる現場が望ましいと思っています。ただ、これは現場が大きくなれば当然難しい。本当にこの「NOと言える」感覚が現場の隅々まで行き渡るには、もっと時間的な余裕が必要だと感じています。
「コントロールできないものと付き合うことは、すごく大事なこと」
―劇中には犬もキャストとして登場し、素晴らしい演技を見せていました。共通の言語を持たない犬とのコミュニケーションは、どのように図られたのでしょうか?
濱口:ぼくは子どもの頃以外に動物を飼ったことがないので、動物についてはよくわからないというのが正直なところなのですが、『寝ても覚めても』(2018年)を撮ったことで「猫に演じてもらうのはめちゃめちゃ大変」ということがわかって(笑)。
濱口:そういうこともあり、今回は犬なんですけど(笑)。じゃあ犬が言うことを聞いてくれるかというとそうではなくて……。
犬が車に乗って登場する重要な場面では、安全確保のために道路使用許可を取った上で、制作スタッフから周囲の車に止まってもらえるようお願いして撮影をおこなったのですが、犬が思い通りの方向を向いてくれないという「犬NG」が起こる。
その結果、10回ぐらいやり直したんですが、毎回スタッフのみなさんが1分くらい車の通行を止めてくれて。ときにはやっぱりイライラするドライバーさんもいて、スタッフが怒鳴られたりもするので、10テイクもするとみんなものすごく疲弊していました。それがトランシーバー越しの声でわかる。
結果的に責任を感じたペットタレント事務所の担当の方が牽引車に乗り込んで、前方から犬と、みさき演じる三浦透子さんが乗った車に向かって、ものすごく大きな声で呼びかけてくれました。あの犬はジョイという犬の名前なんですけど「ジョイこっち向いてー! ジョイこっち向いてー!」って(笑)。
―いい名前ですね。
濱口:現場は悲壮な雰囲気になってきていたんですけど、三浦さんは、担当の方が懸命に犬に呼びかけている様子を見て、すごく幸せな気持ちになったそうです。その表情が実際にカメラにも映っているんですけど、まさに「喜び」を感じさせるような表情になっている。
「ああ、これで映画が終われる、すごくいい表情だな」と思いました。実際に、約1年にわたった撮影の最終日ということもあったと思います。
そういう表情は、指示して生まれるものじゃないですよね。この件に象徴されるように、コントロールできないものと付き合うことが、すごく大事だと思います。本当に良い瞬間というのは偶然にしか起こらないし、待っているのはそういうものです。映画づくりにおいてはその偶然を一緒に、同じことを繰り返しながら待つパートナーとして、役者という存在がいるんだ、という確信は年々強まっています。
ただ、その繰り返しをカメラの目やスタッフの目の前でやることの負担や不安は、計り知れないものです。その負担を少しでも和らげないと、役者は安心できず、集中もできず、結果として望んでいるような偶然が招き寄せられることもないとも思っています。
他人とは思えない登場人物たちが、カメラに映るまで
―『ドライブ・マイ・カー』を観ているあいだ、私はまるで登場人物たちと同じ空間にいるような気持ちになりました。演劇であれば役者と観客は同じ空間にいることが前提ですが、映画はそうではありません。なぜ濱口監督はあのような素晴らしい演技を撮影することができたのでしょうか?
濱口:「演技」を撮影するというのは、どんな劇映画でも行なわれていることですが、それが大きな困難を伴うものであることは、撮影現場で無視されがちだと思います。役者は言えば何でもやってくれる存在として、スタッフ側から認識されがちです。これは単純に間違っている。
そもそもカメラに撮られ続けるというのは、人にとって不自然な状態なんです。例えばドキュメンタリー的な映画づくりをしていると、自由に動く人は自然とカメラの前からいなくなってしまいますよね。カメラという機械を操っていると、いつも遅れを取ることになる。だから、映画をつくるためには、カメラのほうを向いてくれる人や、カメラの前にいてもらえるような人、関係性が必要になってくるんです。劇映画でそれをしてくれる人たちが役者です。
ただ、大前提として自分が細密に記録されてしまうという点で、カメラの前に立つというのは危険なことです。インターネットを通してあらゆる映像が瞬時に広がってしまう時代においてはさらにです。
先に言ったベッドシーンなんかはわかりやすい例ですが、それ以外の失言とか、わずかな表情の動きさえも、その人の本心や本性を露呈させてしまうことがあります。ですから映画撮影の現場で、役者の演技が自然と「自分自身を隠す」方向に向かっていくのは、まず当然のことだと思います。
でも、少なくとも僕が撮りたいのはそういう演技ではない。自分としては「どうすれば役者に、カメラに映ることを受け入れてもらえるか」を考えるわけです。そして結論としては二つのことに辿りつきます。
濱口:一つは俳優に「この役を演じることは自分にとって大事なことだ」と感じてもらうこと。その人にとって、ある役との出会いがかけがえのないものであることが望ましい。それは狙ってやりきれるものではないですが、できるかぎりそういうキャスティングを心がけて、役者さんの過去作をできるだけ見たり、よくよく話したうえで依頼します。そのうえで、役柄をその役者さんが力を尽くすのに値するようなものにする努力をします。
濱口:もう一つ大事なことは、自分が現場で役者を「励ます」存在である、ということを忘れないことです。役者さんが自分自身を隠したいと思うとしたら「自分のこの部分は欠点で、それを見せたくない」という思いこみもある気がします。ただ、こちらは「その欠点や欠陥は悪いものではなく、むしろあなたの魅力なのだ」ということを伝える。
監督や演出家というのは、観客の代表みたいなところがあります。だからこそ「あなたのことをものすごくいいと思っている。あなたを撮って、観客まで届かせたい」と言葉や態度で伝えることで、役者たちの自分の魅力を発揮できるように助ける責任があるんだとも思います。
重要なのは、「自分にとって大事な役だ」と思ってもらうことも、「素晴らしいと思っている」と伝えることも、体のいい詐術ではいけない、ということです。そこに嘘があってはいけない。
聖人君子じゃないので、それはものすごく難しいですが、こちらが表面上だけで褒めても結局バレるし、そうした関係すらカメラに映ってしまうと考えています。こういう態度は、僕がずっと付き合ってきた、カメラに対する恐怖心から導き出されたものです。
濱口:役者たちは本当に心が震えるような演技、というかその人自身を見せてくれることがあります。それを見ると、自分はこんなものを見る資格があるんだろうか、とさえ思う。だから撮影現場でだけは、役者が見せてくれる素晴らしいものに見合うように、できる限りの誠実さを持とうとします。
現場では、良いと思ったものを良いと率直に伝えるということに意識を注いでいます。一方で、良いと思わないことを単に率直に伝えるのは、役者さんが負っているリスクに配慮しないことです。相手を否定するときには、その土台にある肯定も、常に伝える必要があると思います。
「自分にとってこの役を演じることが大事だ」と思ってもらえるように努める。そして「自分には映る価値がある」ことを理解してもらうこと。それが、ぼくが役者たちの演技をカメラに映すために心がけていることです。
時間が物事を決める基準になってはいけない
―ここまでお話を聞いて、濱口監督がすごく丁寧に現場でのコミュニケーションを重ねてこられたのだとわかり、感銘を受けています。一方で自分の日常生活を振り返ると「すぐにメールの返事を返さなければ」などと、思うように時間をかけてコミュニケーションができないような場面も多々あったなと反省していて。映画をつくる過程でも、スケジュール面での厳しい制約はあると思いますが、そうした条件のなかでも信頼関係を築くために、心がけていらっしゃることはありますか?
濱口:うーん……。いろいろと難しいことはあるのだと思いますが、時間が物事を決める最優先の基準になってしまうと、まあダメですよね(笑)。「そうは言っても決まりがあるんです」というのが世の中だとは思うんですけれど。
単純な事実として「質は良くないけれど時間がないからOK」ということが、撮影現場でも往々にして起こるわけですよ。じゃあそうしてOKを出したものが結果的にどうなるかというと、編集段階で「やはりこれではダメだ」と気づくわけです。「なぜこれで良しとしたんだろうか」ということに結局行きついてしまう。だからものすごくシンプルに言えば「OKじゃないものはOKじゃない」ということですよね。
―はい……!
濱口:その場合、間違っているのは無理なスケジュールのほうです。納期や締め切りが優先されればハラスメントが起こる素地にもなります。「OKが出せるように、必要な時間を取らなければいけない」というのが大前提です。そこで自分にできる努力としては、「こういうことはできない」「こういうことだったらできる」と、事前にわかる範囲で伝えたうえで関係性をつくっていくことだと思います。
それでもギリギリになって「ああ、ダメだ」とわかる場合はあります。そのときは正直に、一緒に仕事をしている人に相談するしかないと思います。それでスケジュールを編み直してもらうしかない。
これはスケジュールをつくる側の人にとっては地獄のような状況だし、そのことに配慮する必要はもちろんあります。納期に間に合わせるように力を尽くすのは当然だし、自分たちの準備の結果を受け入れることが必要な場合もあります。それでも、仕事の質のために譲ることができないという一線に至ったら、それを言うしかない。
スケジュールの変更が必要になる局面は『ドライブ・マイ・カー』の撮影にも大なり小なりありましたが、そのときは相談して、スケジュールを変えてもらいました。スケジュールを立てていた監督補の方が最大限演出のための時間に配慮してくれたことも大きいですが、結局はプロデューサーたちの肝が据わっていて、作品のためにコストの掛かる変更を受け入れてくれたということです。これはとてもありがたいことだったと思います。
濱口:スケジュールというものが社会生活のなかには絶対に存在していて、他者と生きるにはそのなかで活動をしなければならない、ということには間違いがないんだけれど、「できる」ことを積み重ねるような現実的なスケジュールづくりをしていかないと、いつまでもOKじゃないものをOKとしてものをつくり続けることになってしまいます。そうやって完成したものは観客の信頼を損なうことになるし、つまりは映像産業に従事する人の生活基盤を切り崩すことになります。
現実的でないスケジュールに対して「そういう決まりだ」と言うのは簡単ですが、一方で「このような構造や方法のなかでは自分は作業できません」と言うこともできるはずです。明らかに間違っているものに、自分の力を与えてはいけません。究極的には自分が仕事をする条件を明確にして「それでも私と仕事をしますか?」と問うて、合意形成したうえで仕事をしていくしかないという気がしています。
これはキャリアや能力とは関係ありません。どんな人でもその人が持っている力があって、それを誰かに提供するかしないかは選ぶことができます。間違っていると感じたり、価値を見いだせないと判断したらその時点で距離を取る、というのはそれ自体で立派な現状への異議申し立てになると思います。
もちろん、構造を変えないとどうしようもないのは確かです。日本映画だと、そういうことを言われるのは大体プロデューサーなので、本当に大変だと思うのですが、構造やシステムに携わる人たちが、スケジュール感覚をはじめとした固定観念を捨てて、「なぜそれをつくるのか」に軸足を置き直さなければ、結果的にものづくりの質は落ちてしまうと思います。
濱口:いまコロナ禍で、おそらくこれまでの製作のスケールや慣習を保持していては、完成までのリスクが非常に高くなる状況なのではないかと思います。感染者が出れば、チーム全体が止まってしまうような状況です。このリスクや不測の事態から生じるコストは、大きなチームであるほど高い。
僕個人が提案したいのは、予算を下げることなく、製作のスケールを十分に、できれば半分以下にダウンさせることです。より小さいチームが、より長く、つまりは時間的余裕のある環境のなかで製作をするということ。このことはコロナ禍の社会における不測の事態に対する対応力も上げてくれるはずです。
もちろんチームを小さくすれば、製作上の制限も出てきます。ただ、僕が感じているのはチームを小さくすることは必ずしも「面白さ」や「つまらなさ」に決定的な影響を与えないということです。つまりはアプローチ次第で、「面白さ」を小さなチームでつくり出すことは可能だし、一方で時間の余裕があって、失敗をリカバーできる体制をつくることは確実に各部署の仕事の質を上げてくれます。
チームが時間的余裕を持つことで、選択について熟議したり、試行錯誤することが可能になります。やり直せることが前提なので、そこでは失敗は致命的なものではなく、挑戦が許容されるし、ハラスメントも起こりづらくなるでしょう。こういうことを提案するのは、これがいまの状況下ならば絵空事ではなくより低リスクで、合理的だからです。いわば、これから先絶対にうまくいかないのが目に見えている製作システムを、ついにやめる機会をコロナ禍が与えてくれているわけなので、抜本的な見直しをするのがよいと思います。
構造を変えなくてはいけませんが、構造というのは外部に存在するものではなくて、自分達一人ひとりがそのなかにいてつくりだしているものだし、一人ひとりの振る舞いを変えることが、構造を変えることにつながっている。そのことは自分もその一員として、強く感じています。もちろん、こうしたすべては机上の空論かもしれない。だから自分でも実際に試行錯誤してみようと思っています。
- 作品情報
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- 『ドライブ・マイ・カー』
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2021年8月20日(金)からTOHOシネマズ日比谷ほか全国で公開
監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介、大江崇允
音楽:石橋英子
原作:村上春樹『ドライブ・マイ・カー』(文春文庫『女のいない男たち』所収)
出演:
西島秀俊
三浦透子
霧島れいか
パク・ユリム
ジン・デヨン
ソニア・ユアン
ペリー・ディゾン
アン・フィテ
安部聡子
岡田将生
上映時間:179分
配給:ビターズ・エンド
- プロフィール
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- 濱口竜介 (はまぐち りゅうすけ)
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1978年⽣まれ。2008年、東京藝術⼤学⼤学院修了制作の『PASSION』が国内外の映画祭に選出され、監督としてのキャリアを本格スタートさせる。2015年に317分の⻑編映画『ハッピーアワー』が数多くの映画祭で主要賞を受賞。2018年、商業映画デビュー作『寝ても覚めても』で『カンヌ国際映画祭』コンペティションに選出され、世界30か国で劇場公開された。2019年からはニューヨーク、パリ、ソウル、トロント等、世界中の都市で特集上映も開催されている。
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