アンデルセン童話の『裸の王様』で、家臣や民衆たちは、自らの欺瞞や愚かさを指摘されることを恐れて、「愚か者には見えない服」を着ているという王様が、実際は裸でいることに気づかないふりをする。現実の社会でも、空気の読みあいや、誤ったふるまいを視界に入らないふりをすることで、かろうじて成り立っているような場は存在している。
テレビ番組、とくにバラエティ番組は、良くも悪くもそうした空気の読みあいの達人たちの技によって成立している空間に思えるけれど、そんななか、テレビやラジオのなかで見かけるハライチ岩井勇気は、『裸の王様』の作中において見て見ぬふりをする大人たちのなかで、「王様は裸だ!」と指摘した子どものような姿勢を持った人のように見える。
当然のものと見なされているお約束ごとを疑い、馴れ合いを嫌う。まやかしや一貫性のなさを見過ごさず、嫌だった記憶を、「あれはあれでいい思い出だった」と都合よく改竄したりしない。インタビュー中も、いくつかの物事について「それは嫌い」「嫌だ」とはっきりと断言した。エッジの効いた言葉とはうらはらに、その語り口は意外と柔らかい。そうした彼のスタンスや、不思議なバランス感覚は、2作目となるエッセイ集『どうやら僕の日常生活はまちがっている』にも満ちている。
そんな岩井勇気の態度はどのように培われたのだろうか。「トカゲ人間の国」や「冷凍のブヨブヨのうなぎ」といった、独特の例え話を交えながら話してくれた。
「『ご存知、岩井勇気』みたいなスタンスが恥ずかしくてしょうがないんです」
―『どうやら僕の日常生活はまちがっている』というエッセイのタイトルはどこからきているのですか?
岩井:1作目のときに、編集の方から提案されたタイトルのうちの一つに『僕は友達が少ない』っていうラノベみたいな案があったので、そこから着想して『僕の人生には事件が起きない』というタイトルにしたんです。なので、2作目も『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』というラノベの真似をしました。
―ラノベのパロディーだったんですね。
岩井:新潮社という堅いイメージの出版社の文芸誌(『小説新潮』)に、ぼくのような活字を読まないやつがラノベみたいなタイトルの連載をしているのって面白いかなと思って。KADOKAWAとかならまだわかるんですけど(笑)。
―(笑)。岩井さんは活字にあまり触れてこなかったというお話を前作からされていますが、今回は2作目ということで、前作とくらべて、書くことについて変化はありましたか?
岩井:1冊目は練習として素振りみたいな感じで書いていたけど、今回はあんまり肩の力を入れないで書けた印象がありますね。あとは2冊目から手に取る人が、俺のことを知らなくても読めるように書きました。
―芸能のお仕事をされている方が文章を書かれる場合、メディアで知られているキャラクターを読者が共有している前提で書かれる場合もあると思いますが、岩井さんの文章はそうではないですよね。
岩井:「ご存知、岩井勇気」みたいなスタンスが恥ずかしくてしょうがないんです。みんなが自分のことを知っているという前提で書かれているものを読むと、「よくそんな風に思えるな」と(笑)。だから予備知識がなくても読めるように、「芸人の岩井勇気」が書いた文章にはしたくなくて。前書き以外で、俺の仕事が芸人であることは書いていないです。
―岩井さんがその「ご存知感」を取り除きたいのはなぜですか?
岩井:知らない人が入ってこられないじゃないですか。置いてけぼりになったらかわいそうだから、疎外感がないようにしないといけないと思うんです。それはエッセイだけじゃなくラジオも同じで。ラジオはとくに閉鎖的になりやすい場なので、リスナーも内容も狭く濃くなっていくと、滅びゆく一方じゃないですか。
―濃くなっていく渦の中心にいることに気持ちよさを感じる人もいそうですけど、岩井さんはそうじゃない。
岩井:俺はそういうのがすごく嫌なんです。もともとラジオ(TBSラジオ『ハライチのターン!』)を始めるときにも、プロデューサーと「この番組はとにかく誰もハライチを知らないという前提でやろう」という話をしていて。
プロデューサーが引き合いに出したのが、伊集院(光)さんでした。伊集院さんって、ラジオでスタッフの名前を出して話をするときに「ミキサーの岡部さん」とか、絶対に肩書きを言うんです。一見さんに優しいし、ヘビーリスナーにも邪魔にならないですよね。伊集院さんほどの人でもそうしていると聞いてから、自分もそういう意識を持ってやるようになりました。
「俺はテレビは副業だと思ってますから(笑)」
―『ハライチのターン!』の風通しのよさは、伊集院さんのスタイルを参照されていたんですね。
岩井:漫才でも、テレビで出しているキャラを踏襲したネタは全然好きじゃないです。漫才中に説明していないキャラクターを前提にネタを展開するのって、本当に意味がわからないんですよね。
たとえば、テレビへの露出に差がある漫才コンビがいたときに、あんまりテレビに出ていないほうが目立とうとすると「いやいや、お前が目立つなよ」みたいなツッコミをされることがありますけど、俺は「ツッコんでるお前も誰なんだよ」って思うんです(笑)。知らない人からしたら、どっちがテレビによく出ているかなんて関係ないですから。
―岩井さんもテレビのお仕事をされているなかで、テレビのなかの状況を部外者的に俯瞰して見ることができるのはなぜですか?
岩井:俺はテレビは副業だと思ってますから(笑)。
―では、何が本業だと考えていますか?
岩井:ネタですね。ネタを見にライブに来てくれる人が一番大事です。だから俺はネタの邪魔になるようなイメージをテレビでつけたくないと思っているんです。
―岩井さんがつくるネタはリズムの心地よさを感じるものが多いですが、リズムについてはどのように考えられていますか?
岩井:落語とかもリズム感がある人のほうが上手いと思うし、漫才も二人の掛け合いのリズムが合っている方が聞きやすいじゃないですか。
ラジオで話すときもわりとそのことを意識してるかもしれないですね。ひとくだり話題を追って、落ちたらはい次って感じで、一つの話題をこねくり回さない。そのリズムは何においても大事にしています。
―文章にも同様のテンポのよさを感じます。
岩井:文章を書くときは漫才のリズムを意識してます。俺は文章を頭のなかで音読しながら読むので、音読したときに心地いいリズムで書きたいんです。書くときは、むしろそこしか気をつけていないかもしれないですね。自分自身が活字を読むのが苦手で、読んでいて引っかかると読む気をなくしちゃうんで、さらっと読めるようにしています。
「行って怒られるストレスより、行かずに経験しないストレスのほうが大きいです」
―エッセイ集のなかにはラジオでお話しされたことのあるエピソードもありますが、文章にするときに、同じエピソードをもとにしていてもスポットライトを当てている箇所が違いますよね。
岩井:ラジオで話したエピソードは、文章にできないものもいっぱいありますね。澤部のリアクションを見越したトークは大体エッセイにできないです。文章でひたすらボケられても読む人が対処しきれないと思うんで。
エッセイは、共感してもらいたい「あるある」が一つあれば、そこに向かって書けるんですよ。あとは「普通そっちにいかないだろう」という方向に舵を切ったエピソードは、興味を持ってもらえるだろうなと。
―スピーチを頼まれていたのに行くのを忘れていた披露宴に遅刻して参加してみたというエピソードなどはまさにそうですね。
岩井:そうそう。普通自分ではやりたくないことだけど、やってみたらどうなるのかは知りたいじゃないですか。本当は俺だってそんな体験したくないけど、どうなるか知りたい気持ちが先行して、自分で自分にやらせるんですよ(笑)。
―やらされているほうの自分は嫌なんですよね?
岩井:嫌ですよ。でもそれを経験しないほうがしんどいですね。友達の披露宴のスピーチをすっぽかしちゃう経験なんてなかなかないじゃないですか。さらに、わざわざ遅刻して行ってみるなんて、二度と経験できないんですよ。「この状況で行ってみたら、どうなるんだろう」って考え始めちゃったら、行って怒られるストレスより、行かずに経験しないストレスのほうが大きいです。
―それは、ラジオや文章のようなアウトプットがなくてもですか?
岩井:アウトプットすることを意識している部分もありますけど、もともとそういう人間なんだと思います。「うわー、なんかすごいことになっちゃってるな」って状況のときに、面白くなっちゃうんです。喧嘩していても、ぶち切れていればぶち切れているほど、「大人なのに何やってるんだろう、大きい声出して」と思って笑えてくるんです。
―ぶち切れている自分すら面白くなってしまうんですね。
岩井:なんか欠陥があるのかもしれないですね(笑)。
―「すごいことになっちゃってるな」という状況の真っ只中にいるときに、それを客観視することって結構難しくないですか?
岩井:芸人になってからそういう面白さに気づいたのかもしれないです。芸人っていじられるものだけど、芸人になってもいじられるのはやっぱり嫌なんです。
でもいじられたくないとは言っていられないから、客観的に、その空間で自分がいじられてることが面白いかどうかを考えるクセがつきました。だから、いじられることよりも、その状況を面白く思えないことのほうがストレスかもしれないです。
「正直、この小説がエッセイと何が違うのかわからないです」
―エッセイでは日常の出来事を書かれていますが、今回は執筆期間がコロナ禍に重なっていて、前提となる日常に、前作を書かれたときとは大きな変化があったと思います。そうした状況下で日常生活について書くうえで、どのようなことを考えていましたか。
岩井:時事ネタを扱うのがそんなに好きじゃないというのもありますし、むしろそういうことをあんまり考えないで読めるように書いたほうがいいかなと思ったんです。
部屋に出しっぱなしにしてて「これ大丈夫かな」っていう牛乳をいったん冷蔵庫に入れてみて、「冷えてれば大丈夫な気がする」と思って飲むことって、あるじゃないですか。
―はい。
岩井:コロナ禍でも、そういうことはあるんだよ、ということは思いますね。コロナ禍にも日常はあるんです。……例えば、トカゲ人間の国があるとするじゃないですか。
―トカゲ人間。
岩井:そこでは、トカゲ人間が洗剤を買い忘れることもあるだろうし、トカゲ人間同士で「疲れて肩凝っちゃってさ~」とか話してると思うんです。トカゲ人間が、人間を食べるとして、人間を半分食べかけのまま置き忘れちゃって「まだ食べれるかなこれ?」って思うこともあるでしょうし。どんな世界でも絶対に日常はあるわけですよね。
―岩井さんはエッセイやラジオのトークでも、日常の出来事を語っていたかと思いきや、空想の世界へ逸脱していくことがありますよね。
岩井:日常からファンタジーに行くか、ファンタジーのなかで日常を描いて、ファンタジーを台無しにするか、どっちかが好きなんです。今回書いた小説に出てくる「裏の世界」でも、裏の世界にいる裏の人間が別に悪い人なわけじゃないんですよね。裏の世界で悪いことをしたら、裏の世界の人間に嫌われちゃいますから。
―その世界にはその世界なりの秩序もあるだろうし。今回の本では、エッセイだけでなく小説も書かれていますが、ご自身ではいかがでしたか?
岩井:これ……小説ですかね?
―というと……?
岩井:自分で言うことじゃないですけど、正直、この小説がエッセイと何が違うのかわからないです。エッセイみたいな小説でもあるし、逆にエッセイのほうも小説みたいなエッセイだと言えるような気がする。
じゃあエッセイストと小説家の違いって、なんなんだろうと思うんですよね。俺のなかではそんなに差がないんですよ。それなのに、なんとなく小説家のほうが地位が高い感じがするじゃないですか(笑)。
―「先生」みたいなイメージは小説家のほうが強いのかもしれないですね。
岩井:それが意味わからないなと思って。俺にとっては、労力は変わらなかったので。
岩井が持ち続ける、固定観念を疑う姿勢。「それって本当にお前の価値観か?」
―今作に収められているエッセイ「日本人のプチョヘンザについて考えてみたら」「天使の扱いが雑になっている件」、そして、いまの小説とエッセイの違いの話もそうですが、岩井さんは固定観念を疑う姿勢が一貫されていますよね。
岩井:あんまり先入観を持ってものを見ないようにしてるんです。例えば、俺はうなぎが好きなんですけど、うなぎだったらなんでもいいんですよ。だからブヨブヨしてる冷凍のうなぎも美味しいと思う。
さっきこの本の編集の方と話していたら、「いい店のうなぎはうまい」って言うから何がうまいのか聞いたら、「カリッとしててなかがふわふわで、口当たりが全然違う」って言うんです。でも、なんでそれを「美味しい」と思ってるのかが、疑問なんですよね。
もしもブヨブヨしてるうなぎのほうが美味しいと定義されている世界だったら「なんで網でじっくり焼いてるんだよ! もったいないな、冷凍しろ!」ってことになるじゃないですか。その世界で生まれていたら、舌は同じでもブヨブヨの冷凍のほうが美味しく感じてるんじゃない? というようなことをいつも考えるんです。美味しさって主観でしかなくないですか?
―例えば関東と関西でうどんの出汁が違うように、環境によって美味しいとされる前提が違うことはたしかにありますね。
岩井:まあ、俺は関西のうどんのほうが好きですけどね(笑)。あっさりしてて。(※岩井さんは埼玉県出身)
―あ、そうなんですね(笑)。
岩井:よく「新しい価値観」とか「古い価値観」とか、言うじゃないですか。でも「その価値観古いよ」とか言ってる人の考える「新しい価値観」って、大体の場合、世間の人たちの価値観を総合した大多数の意見のことなんですよ。「それって本当にお前の価値観か?」と思うんです。
―自分の視点でものを見ないで、いま世の中で新しいとされていそうな価値観の尻馬に乗って、そうじゃない人を「古い」とみなしているということでしょうか?
岩井:そう。お前はこのうなぎを本当に美味しいと思ってるのか? ってことですよ。
「出役でいる以上は、覚悟してものを言っています。それが嫌だったら黙るしかない」
―自分で考えずに、「なんとなくいまはこちらが正しそう」ということを判断基準にしてしまうのって、「正しそうじゃない側」を選択したときに、否定される可能性が高いし、それによって傷つくことを恐れるからだと思うんです。一方で岩井さんはつねに恐れずに自分の意見を言っている印象があります。
岩井:SNSとかで、俺が何かに対してNOの意見を言ったときに、「これをYESだと思ってる人もいるんです」って言われることがあるんです。でも、逆に俺がYESだと言ったら、NOの意見を持っている人は否定されるじゃないですか。
肯定は、否定の否定です。どんなにいい意見でも多かれ少なかれ傷つく人はいるんですよね。何かを背負っているつもりはないけど、出役でいる以上は、そういう覚悟でものを言っています。それが嫌だったら黙るしかないですから。
―配慮を重ねることで無闇に人を傷つける可能性は減らすことはできるかもしれないけれど、何か意見を言うときには、必ず加害性が含まれますよね。
岩井:それを自覚しないで、自分は誰も傷つけない善人だと思っているやつは信用できないんです(笑)。誰も傷つけないためには、極論、そいつがいなくなるしかないんですから。
―岩井さんのそうした率直さはどのように培われたのですか?
岩井:親がヤンキーだったんで、子どもの頃から「自分が正しいと思ったら、謝ってやるからいくらでも喧嘩してこい」って言われてたんですよ。でも喧嘩したら喧嘩したで、親からボコボコにされてましたけど(笑)。それに、俺は孤立してもあんまり気にしないんです。
―孤立することは怖くないですか?
岩井:これは誰しも共感できるとは限らないですけど、「一人勝ちできるじゃんラッキー!」って思っちゃう。
―へえ!
岩井:もしもAかBにお金をベットする場合、Aにかける人が多くていかにAが正しそうに見えても、Aにかけたら1.1倍にしかならないとします。一方で、自分にBの確信があって、Bにかけたら100倍になるんだったら、俺はBにかけます。そういう感覚があるかもしれないですね。
―それをうなぎに置き換えると……。
岩井:ブヨブヨしたうなぎが好きだったら、「やったー! 安くていっぱい食べられる!」ってことです。
―そう考えるとめちゃくちゃハッピーですね。
岩井:俺はポジティブなんです。
- 書籍情報
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- 『どうやら僕の日常生活はまちがっている』
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2021年9月28日(火)発売
著者:岩井勇気
価格:1,375円(税込)
発行:新潮社
- イベント情報
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- ハライチライブ『!』
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2021年10月24日(日)開場15:00 / 開演16:00
会場:東京都 LINE CUBE SHIBUYA
価格:会場チケット 5,000円 / 配信チケット 3,000円(税込)
- プロフィール
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- 岩井勇気 (いわい ゆうき)
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1986年埼玉県生まれ。幼稚園からの幼馴染だった澤部佑と「ハライチ」を結成、2006年にデビュー。すぐに注目を浴びる。ボケ担当でネタも作っている。アニメと猫が大好き。特技はピアノ。
(プロフィール画像:©新潮社)
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