世界が大きく変わろうとする20世紀初頭、日本人の詩人・野口米次郎とアメリカ人の母とのあいだに生まれたイサム・ノグチは、自身の出生やアメリカと日本の政治にも翻弄されながら、多面的で複雑な人生を生きた。そういった個人的背景からノグチの作品を理解しようとすれば、そこには自分がいるべき場所=アイデンティティーへの希求と、それを得ることの困難さを読み取ることもできる。だが不思議なことに、彼が残した彫刻やドローイング、野外作品に接して感じるのは、個人的な願いや苦悩よりももっと大きくて普遍的な「何か」だ。
2018年7月14日より、初台の東京オペラシティアートギャラリーではノグチの仕事を総合的に紹介する展覧会『イサム・ノグチ ―彫刻から身体・庭へ―』が開催されているが、同展はそんなノグチに接するためのよき機会だ。
そんな場と時間を求めて、やって来た人物がいる。独自の視点から生活や文化の「豊かさ」を問うてきた、文筆家の松浦弥太郎だ。20代のとき、ひょんなことからノグチ作品を知った松浦は、それ以来、ノグチとの不思議な縁を感じてきたという。彫刻からデザイン、庭園、ランドスケープまで、多様な活動を行った芸術家の歩みを松浦と共に辿った。
ノグチの作品って、アートという感覚を僕に与えないんです。「アートであることを強制しない」と言えるかもしれない。
まれに見る猛暑日が続く夏の東京。本展の取材日も同様で、日が沈んでも暑気は去らない。けれども、アートギャラリーの入り口に現れた松浦は、夏用のスーツ上下にネクタイという礼装姿。折り目正しく暮らすことの必要をしばしば語ってきた人らしい清廉としたたたずまいだが、どことなく緊張したその面持ちに、理由はそれだけではないようにも感じられる。
同館シニアキュレーターの福士理や取材陣と短く挨拶を交わし、松浦はさっそく展示室へと歩を進めた。
日本では12年ぶりの回顧展となる本展は、4つの章で構成されている。ノグチが20代半ばに中国で描いた『北京ドローイング』や、1930年代以降に舞踏家・マーサ・グラハムのために制作した舞台美術など身体表現とかかわる初期の活動を紹介する第1章「身体との対話」。
彫刻家として世界的に知られるようになった40代中盤に来日したノグチの日本での仕事を紹介する第2章「日本との再会」。北大路魯山人や谷口吉郎、丹下健三らとの交流の中で制作した作品ほか、日本人に親しまれるプロダクトである、提灯型の照明器具『あかり』が並ぶ。
イサム・ノグチ『北京ドローイング(横たわる男)』1930年 インク、紙 イサム・ノグチ庭園美術館(ニューヨーク)蔵 ©The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum, New York / Artist Rights Society [ARS] - JASPAR. Photo by Kevin Noble.
イサム・ノグチ『あかり』デザイン1953年~ 紙、竹、金属 香川県立ミュージアム蔵
続いて、第3章「空間の彫刻ー庭へ」では、彫刻を大地と結び付け、より広い環境としてとらえたノグチの姿勢を、実現しなかったプレイグラウンド(遊び場)や、実現した庭園、ランドスケープの模型、資料、動画から伝えている。
そして最終章の「自然との交感ー石の彫刻」では、多様な素材を作品に用いたノグチが、特に関心を寄せた自然石の作品にフォーカスしている。日本の石庭をはじめ、古今東西の石の文化に学びながら今日的な石と庭への思考を深めた芸術家の到達点を、1960年代から彼が亡くなる1988年までの作品から辿る構成だ。
イサム・ノグチ『チェイス・マンハッタン銀行プラザのための沈床園』1961-64 ニューヨーク©The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum, New York / Artist Rights Society [ARS] - JASPAR. Photo by Arthur Levine.
イサム・ノグチ『無題』1987年 インド産花崗岩 イサム・ノグチ庭園美術館(ニューヨーク)(公益財団法人イサム・ノグチ日本財団に永久貸与)©The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum, New York / Artist Rights Society [ARS] - JASPAR.Photo by Akira Takahashi.
福士による展示解説を交えながら、約1時間をかけて全4章をめぐるあいだ、松浦はほとんど言葉を発することがなかった。作品の前で足を止めじっと見つめているかと思えば、足取り軽く、ぐんぐん先に進んで行ったりもする。まるで、ノグチ作品が立ち並ぶ庭を散策でもするようだ。
福士理(東京オペラシティ アートギャラリー シニアキュレーター)
一通り会場を巡り終えた松浦と一同は、別室でお茶をしながら展示を振り返ることになった。「ひょっとして、松浦さんノグチにそんなに興味がなかったのかしら……」と一同が緊張していると、松浦は呼吸を整えるようにとつとつと語りはじめた。
松浦:20歳くらいからイサム・ノグチという芸術家については知っていましたけど、熱狂的に作品を追いかけているといった感じではないんです。作品は日本やアメリカなどいろんな場所に残っていますから、自分が旅したり、普段の生活を送ったりする中でぽつぽつと途切れることなく、たびたび出会うような関係。もちろん気にはなりますから、ニューヨークの庭園美術館(イサム・ノグチ庭園美術館。作家が使っていた倉庫を改装してオープンした)を訪ねたこともあるんですけれど。
松浦:これは言い方が難しいのですが、ノグチの作品って、アートという感覚を僕に与えないんです。「アートであることを強制しない」と言えるかもしれない。アートには特定のジャンルってものがあり、時代の先端を行くものというイメージがありますよね。そして美術館にコレクションされて、大事にされながら同時に「閉ざされたもの」という印象を抱かせる。でもノグチは、そのどれとも違って……不思議な親しみがあるんです。
作られたものって感覚があまりないんですよ。表現として意図されて作られたものではなく「もうすでにある」というか。
日本で身近にノグチを感じられる場所として、札幌近郊の『モエレ沼公園』がある。ノグチが亡くなる直前に遺したマスタープランをもとに2005年に完成した同公園は、約180ヘクタールという広大な敷地に幾何学型を多用した山や構造物、遊具などを備えている。大地そのものが巨大な作品であり、家族連れや子どもたちのための憩いの場としても機能する開かれたあり方は、ノグチが生涯にわたって構想し続けたプレイグラウンド(遊び場、庭)としての芸術の、ひとつの理想型だ。
この「開くこと」の実践は、ノグチが築いたアトリエや蔵、古い日本家屋を移築した住まい「イサム家(イサムや)」、そして彫刻庭園を作家生前のままに保存、公開している香川県高松市牟礼町のイサム・ノグチ庭園美術館にも通じるものだ。本展覧会のカタログに掲載された対談での、和泉正敏(1960年代後半からノグチの作品制作を助けた石彫家で現在は公益財団法人イサム・ノグチ日本財団理事長)の証言によれば、ノグチは牟礼の彫刻庭園を「この庭がきれいにできたのは、発注者がいない、予算がない、納期がなかったから」と語っていたという。そして「自然の風景の中に、私の彫刻に秩序を与えるものがある」と言い、禅寺の庭のようにホウキできれいにして水を打つことを日課にしていたそうだ。
松浦:作られたものって感覚があまりないんですよ。表現として意図されて作られたのではなく「もうすでにある」というか。まるで、すべてが呼吸して生きているようです。作品や素材によって、重たい、硬い、冷たいとかいろいろあるけれど、そのどれもが共通して生き続けている。そういう存在なんです。
よく、アートを観たあとに「どれが好きですか?」と質問されたりします。でもノグチの場合、どれが好きで嫌いかという感覚はどこにも湧いてこない。何かしらの交流・交感を、それぞれの作品としている感じがある。そういう意味では、言い方はクサいけれど「昔から知っている何か」なのだと思います。非常にプリミティブで、僕ら人間の、人間としての原点みたいな懐かしいもの。そしてそれは、同時にすごく未来的でもある。僕らが見ていない、体験していない未来の「何か」も感じさせる。
これって……何なんでしょう(笑)。「そうですよね。それがいちばんですよね」っていう、不思議な同意を作品と交わすことはできる気がするんですが。
写真ではない実物と初対面して強く感激する自分がいる一方で、旧友と再会した懐かしさを覚えている自分も同じくらいいるんです。
アートという感じがしない、という松浦の言葉は、ノグチ作品への最高の賛辞だろう。なぜならノグチの作品は、作家の意図や思惑、そんな見え透いたものをみじんも感じさせず、見る者を挑発したり、どう解釈するか迫ってくるような性急さとも無縁だからだ。ノグチはいわゆるアート、芸術という枠をこえて、人間の生活や「生きること」を根っこから問おうとした。だからこそそれは、懐かしくもあり、未来的でもある。
1952年、北大路魯山人から提供された北鎌倉の日本家屋に構えたアトリエで、ノグチは接する裏山の斜面を掘り進み、簡素なかまどを設えたそうだ。雨が降れば地面に窪みを掘って水抜きするといった、まるで古代人にも似た創作のスタイルにも、過去と未来の両方を見通すようなノグチの姿がかいま見える。
イサム・ノグチ『柱壺』1952年 陶(信楽)、織部釉 イサム・ノグチ庭園美術館(ニューヨーク)蔵 ©The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum, New York / Artist Rights Society [ARS] – JASPAR. Photo by Kevin Noble.
松浦:「イサム・ノグチ」という名前の響きにも、惹きつけられます。僕がはじめてノグチを知ったのは、青山にあるオン・サンデーズというアートブックのお店です。今もワタリウム美術館の地下にありますね。
若くてお金がなかった僕の楽しみは、好きな絵や写真のポストカードを買うことでした。店先に並んだたくさんのカードのうち、特に気になった3枚。それがノグチの庭や、螺旋状の滑り台(『スライド・マントラ』。『第42回ヴェネチア・ビエンナーレ』に出品)の写真でした。当時はアートに関する知識はぜんぜんありませんでしたから、ローマ字で書かれた「Isamu Noguchi」という名前に「変な名前だなあ。日本人らしいけれど、本当に日本の作家なのかなあ」と想像を膨らませていました。
イサム・ノグチ『スライド・マントラの模型』1966-88年 石膏
イサム・ノグチ庭園美術館(ニューヨーク)蔵(公益財団法人イサム・ノグチ日本財団に永久貸与)
©The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum, New York / Artist Rights Society [ARS] – JASPAR.
松浦:そうやってノグチのことを知るようになると、若いですから自分が得た知識を友だちにちょっと自慢したくなったりします。それで仲のよい男友だちに話をしていたら、彼のガールフレンドがISSEY MIYAKEで働いていて「三宅さんとノグチは一緒に仕事をしているんだよ」と逆に教えてもらったんです。そのとき、ノグチと僕の距離がふっと近くなったような気持ちになりました。
それから、マンションを借りてはじめて一人暮らしをするぞってときには、ソール・スタインバーグというイラストレーターが描いた9thアベニューのポスターと一緒に『あかり』を買いました。そういう風に、ちょっとずつ自分の暮らしとノグチが近づいていったのだと思っています。
松浦は生前のノグチと直接会うことはなかったし、彼の没後、聖地巡礼をするように作品を訪ねてまわることもしなかったという。でも、それは関心がなくなったということではない。むしろ、そのようなつかず離れずの付き合い方の中でこそ、松浦はノグチ作品からの語りかけに耳をすましてきたのだ。そのたたずまいはさりげなく、ときに素っ気ないほどだが、向き合えばいつでも受け容れてくれる優しい力に満ちている。松浦が、展示室で何も語らず、静かに作品と向き合っていたのは、そんなノグチ作品との「再会」をしっかりと確かめるためだったのだ。
松浦:今日、テーブル状の作品(『ミラージュ』)の現物をはじめて観ました。写真ではない実物と初対面して強く感激する自分がいる一方で、旧友と再会した懐かしさを覚えている自分も同じくらいいるんです。
そこには言葉にはならないノグチとの「対話」がある気がします。「豊かさって何? 美しさって何だろう? 生きるって何だろう? 僕ら人間って何だと思う?」。そんなことを彼の彫刻や庭は語りかけている。それに対して僕らは「そうですね、ちょっと考えさせてください」と答える。そしてまたいつか出会ったときに、作品から「どう? 何かわかったかい?」と問われる。近よったり離れたりしながら、長いおしゃべりを交わしている。そんな気がします。
松浦にとってノグチとは旧友のような存在と言えるのかもしれない。それは、飲み屋でわいわい騒ぐ気のおけない荒っぽい男友だちというより、ある緊張感を持って再会したいと思える、特別な存在なのではないだろうか。この夜、松浦が礼服姿でやって来た理由が、少しわかったような気がした。
イサム・ノグチ『ミラージュ』1968年頃 スウェーデン産花崗岩 イサム・ノグチ庭園美術館(ニューヨーク)蔵 ©The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum, New York / Artist Rights Society [ARS] – JASPAR.Photo by Kevin Noble.
ノグチには「清潔」を感じています。それは単に潔癖な清潔さではなくて、透明感と言うべきものです。
本展にある『2mのあかり』は、1996年に『ヴェネチア・ビエンナーレ』に出品されたことで知られているが、同作に関連して、ノグチはこんな言葉を残している。
AKARIはその人の権威(ステータス)の象徴ではなく、貧富にかかわらず感性の証であり、暮らしの質(クオリティ)を与え、いかなる世界も光で満たすものです。(イサム・ノグチ「あかりの意味」、『イサム・ノグチ あかりと石の空間』、リブロポート、1985年、p.94)
照明以外にも、インテリアや家具、食器といったプロダクトデザインを数多く手がけたノグチの、「生活と環境の一体化」というテーマに強く結び付いた発言だが、同時に、暮らしの豊かさを根本から問う松浦のこれまでの活動と響きあう部分も感じさせる。
1990年代前半に古書販売の仕事をスタートし、知と文化の結び付きを移動書店や伝説の書店「COW BOOKS」で試行してきた松浦は、後年『暮しの手帖』編集長に抜擢され、生活や暮らしという誰にとっても身近な、しかしだからこそ奥深い人間の営みに、哲学的な思索と実践を重ねてきた人だ。
松浦:これはあくまでも僕の主観で人とは違うかもしれませんが、ノグチには「清潔」を感じています。それは単に潔癖な清潔さではなくて、透明感と言うべきものです。
もちろん、ノグチはさまざまな苦難を経験して、制作を断念せざるをえなかった作品も数多く持っている人。そこにはきっときれいごとでは済まされない、いろんなことや感情もあったはずです。でもそれを含めてなお、ノグチは「清潔」で居続けることができた。それを体現したような作品に接することで、僕たちは、僕たち自身がどこかで記憶してる原点みたいなもの、また、いつかやって来る未来を思い浮かべることができるんだと思います。
そこには懐かしさが伴っているけれど、けっして感傷ではなく、もっと暖かなものとして僕らを包み込むようでもある。誤解を恐れずに言うならば……それは、ノグチの作品の一部に自分がなるということなのではないでしょうか。
今回の展覧会を見て驚かされるのはノグチの交友の広さだ。師匠と慕ったブランクーシ、無二の親友と認めあったバックミンスター・フラー(アメリカの思想家、建築家)、舞踊の世界に彼を導いたマーサ・グラハム、日本では建築家の谷口吉郎、丹下健三、磯崎新、デザイナーの剣持勇、画家の長谷川三郎、猪熊弦一郎、岡本太郎らと深く交流した。気難しいことで知られた北大路魯山人すらも、ノグチとその妻・山口淑子に住まいを提供し、作陶のために使う貴重な土を惜しむことなく与えた。
ノグチの才能、そして人を惹きつける人間性を伝えるエピソードは数多い。同時に、けっして人と群れたり、一時的な成功に留まることをよしとせず、孤独を好んだ彼の性癖も、様々に語られてきた。生前、ノグチは日本とアメリカに引き裂かれた自分のアイデンティティーについて複雑な思いを巡らしている。
自分は何者なのか? 自分の居場所はどこにあるのか? そんな人間としての存在の問いに、ノグチは悩み、苦しんだ。しかし、ノグチの作品世界に、ノグチ個人の姿は、もはや無い。そこあるのは、ちっぽけな個を越えて、自然や大地、宇宙とひとつになる、もっと豊かで大らかな、清々しい世界だ。松浦がノグチ作品に見てとる「清潔」さとは、そのことと関わっているのではないか。
本展で紹介されている『火星から見るための彫刻』案は、残されたアーカイブフォトからのみ知られる作品だが、その最初のタイトルが「人類のためのモニュメント」であったという挿話は、なにか示唆的である。
イサム・ノグチ『「火星から見るための彫刻」案』1947年 ©The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum, New York / Artist Rights Society [ARS] – JASPAR. Photo by Soich Sunami
いつか私たちが科学や文化のリミットを乗り越えて、宇宙に生活の場を伸ばしたとき、はじめて観ることのできるノグチの「彫刻」。その構想は実現しなかったが、そこにノグチの果てしない、そしてずっと遠い時代と場所まで届くメッセージを感じることができる。そんな気がするのだ。
- イベント情報
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- 東京オペラシティ アートギャラリー
『イサム・ノグチ ―彫刻から身体・庭へ―』 -
2018年7月14日(土)~9月24日(月)
会場:東京都 初台 東京オペラシティ アートギャラリー
- 東京オペラシティ アートギャラリー
- プロフィール
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- 松浦弥太郎 (まつうら やたろう)
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2005年から「暮しの手帖」編集長を9年間務め、2015年7月にウェブメディア「くらしのきほん」を立ち上げる。2017年、(株)おいしい健康・共同CEOに就任。「正直、親切、笑顔、今日もていねいに」を信条とし、暮らしや仕事における、たのしさや豊かさ、学びについての執筆や活動を続ける。著書多数。雑誌連載、ラジオ出演、講演会を行う。中目黒のセレクトブックストア「COW BOOKS」代表でもある。
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