ステージの前面には半透明のスクリーンが張られている。そこには楽曲の世界観と濃密にリンクした映像が投射され、その向こう側で、帽子をかぶった秋田ひろむ(Vo,Gt)ら5人のメンバーが演奏する。その様子は照明に照らされているが、表情や顔つきまでは分からない。
amazarashiは、姿を現さない。
昨年6月に渋谷WWWにて行われた初ライブから3回目。僕は過去2回の公演にも足を運んだが、それは掛け値なしに「現実認識を揺るがされる」ような体験だった。目の前のスクリーンには、映像や歌詞のカットアップが、強烈な存在感を持って映し出される。その後ろで実際の演奏風景が繰り広げられ、その2つが溶け合い、重なりあって視覚に伝わってくる。耳に聴こえるのは、生々しい熱量を持ったバンドサウンドと、エモーショナルな歌声。それは単なるライブの発想を超えた、メディアアートとしてのステージだ。
この日も、そのスタイルは貫かれていた。というよりもむしろ、渋谷公会堂の広い空間で、その演出はさらなる進化を見せていた。
秋田による詩の朗読から、1stアルバム『千年幸福論』のオープニングナンバー“デスゲーム”でスタートしたこの日のライブ。まず目を見張ったのは“美しき思い出”の演出だ。前面の透過スクリーンに揺らめくシャボン玉が映し出され、そしてステージ後方に設けられたもうひとつのスクリーンに「吉祥寺の街中」「中野の駅前」「目白通りで見た朝焼け」などの歌詞の言葉とシンクロする数々の風景写真が映し出される。そうして立体的に表現される映像空間の中に、バンドの姿が浮かび上がる。“冬が来る前に”でも、まるでステージ全体に雪が降っているかのような奥行きある表現を見せていた。つまり、曲の世界観の「後ろ」ではなく「中」で5人が演奏しているということが、強い説得力を持って伝わってくるのだ。ステージ中空に巨大なグランドピアノを吊るした“ピアノ泥棒”や、赤く燃えさかる松明の炎と共にプレイした“カルマ”など、舞台美術を巧みに使った演出にも目を見張った。
amazarashiのライブはいわば「拡張現実」のようなものだと、僕は思っている。
彼らの音楽を大きく特徴付けているのが、秋田ひろむによる言葉の力であることは間違いない。1人1人の内面に普段は仕舞い込まれているような「虚無」を鋭くえぐり出し、誰もがなんとなく折り合いをつけたり、目を逸らせたり、忘れていたりするような感情を目の前に蘇らせる歌。時にストーリーテリング的な手法で、そして時に一人称の言葉で、「正しさ」や「悪」が相対的なものでしかないことを告げる歌。そこに強い説得力が宿っているからこそ、amazarashiの音楽は、これだけ渇望にも似た支持を集めてきたのだろう。しかし、彼らの音楽は「お伽話」ではない。最初のミニアルバムから一貫して、その楽曲はどこか別の場所の話ではなく、毎年3万人の人が自ら命を絶つ日本という国の現実と重ね合わせて描かれている。彼らのライブを見ると、いつもそのことを強く思わされる。
MCは1回のみ。「誰にも期待されていなかった人間が、なんとか踏ん張って、しがみついて、渋公のステージに立てた」と、秋田ひろむは訥々と語った。そのことがみんな励みになるのではないか、と。そして最後に“未来づくり”“千年幸福論”の2曲を披露した。綺麗事として与えられる希望のイメージを丁寧に打ち砕いた上で、彼自身の言葉で未来を肯定し幸福のイメージを再定義するようなラストには、とても感動的なカタルシスがあった。
この日のチケットが即日完売したことを受け、3月16日のSHIBUYA-AX、23日のumeda AKASOでの追加公演も決定している。おそらくその次に行われるライブはより大きなキャパシティの会場になるだろう。そして、彼ら自身もさらに先のモードを見せてくれるはずだ。期待している。
- イベント情報
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- amazarashi LIVE『千年幸福論 追加公演』
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2012年3月16日(金)OPEN 18:00 / START 19:00
会場:東京都 SHIBUYA-AX
料金:前売4,000円2012年3月23日(金)OPEN 18:00 / START 19:00
会場:大阪府 umeda AKASO
料金:前売4,000円 - amazarashi
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青森県むつ市在住の秋田ひろむを中心としたバンド。
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