ノンフィクションの巨匠が迫った現代の怪物

スマホをいじくりまわしているヒマがあるなら、この本を読むべきだ……孫正義を内外から抉ってゆくこの評伝に通底する磁力を前に、いわゆる最新機器から程遠い生活をしている自分は、そんな好都合な雑念を泳がせながら読みふけてしまった。「あとがき」で佐野が「人間を描く場合、その人物が絶対に見ることが出来ない背中や内臓から描く。それが私の人物論の基本的流儀である。」と書くように、この本からは孫正義の知らない孫正義があちこちから立ち上がってくる。証拠に、時折挟み込まれる佐野と孫の対話において、孫正義とは何者なのかが、あくまでも等距離で語り合われるのである。

ビジネス書売り場に行けば分かるが、そこにある経営者の本は、本人によるものであっても他の書き手によるものでも、美辞麗句を並べたものばかりが溢れている。本人のドヤ顔を保障する名刺がわりに自伝や評伝が存在しているのだからつまらない。何度か重ねたソフトバンク本社での孫への取材が一通り終った後、偶然にもトイレの前で再び遭遇した孫は佐野に「しかし、佐野先生の取材力はすごいですね」と微笑む。佐賀県鳥栖、食肉と密造酒で生計を立てる朝鮮部落に生を受け、糞尿の臭いが充満するなか、去勢した子豚の金玉をご馳走として食らった幼少期を追い、巨乳だった彼の祖母が「もう余って余ってしょうがない」とブタの子に自分のおっぱいを飲ませていたという、ひっくり返るような証言を引っ張り出してきた佐野に、孫は微笑んでみせたのだ。

3・11の後、孫は個人資産から100億円を寄付した。たちまち、「震災すらビジネスに利用するのか」と批判が聞こえてきた。例えば、「ガイジン」を根っから嫌う石原慎太郎は「孫なにがしが百億円寄付したって言うけど、あの男は本当に寄付したのかね? そんなことで人気取りした男にエネルギー政策をまかせられるのか」とぼやいたが、震災後すぐに「津波は天罰」と言い放ち、復興のしるしにはやっぱりオリンピック誘致だとご自分の趣味に再び前のめりになっている老兵こと石原なにがしよりも、孫のほうが具体的で能動的なのはわざわざ記すまでもない。「ガイジン」であった孫が日本国籍を取得する際、孫は韓国姓の「孫」にこだわった。しかし、帰化申請するたびに「日本に<孫>という姓はない」と法務省の許可が下りない。ならばと、孫の妻・大野は姓を「孫」に改姓する。そして、孫は「日本人に<孫>という姓が一例だけありませんか」と法務省に問い、「1人いました。あなたの奥さんです」という回答を得て、孫正義という日本名を掴み取る。出自が外様であるというだけで国を考える資格を剥奪しようとする、声だけがデカい連中がいるけれど、よほど日本を考え、問うているのはどちらなのか。

孫正義を、出生から丁寧に解きほぐし、歴史の縦軸で突き刺す作業を終えた後、佐野は孫に感じる「うさん臭さ」を開けっ広げに書く。孫は便利や革新を希求しすぎるあまり、コンテンツの元本や情報の成り立ちへの敬意をハナから見誤っていると苦言を呈す。『だれが「本」を殺すのか?』と著作名を持ち出すまでもなく、常々、本の存在感を呼号する佐野は、孫の「30年後には紙の雑誌も書籍もほぼ100パーセントなくなる」という軽薄な推測に怒る。本文内で何度も引きずり出しながらその都度憤っていく。佐野の意見に激しく同意する。佐野は『あんぽん』刊行後に出た時評集『劇薬時評』で、「出版とは読者に知的ストレスを与える仕事である」と書く。この「知的ストレス」という言葉を孫の足跡にぶつけてみるならば、孫の仕事は「知的ストレスフリー」状態の実現であり「知的外付けハードディスク」の開発であったと言えるだろう。あらゆる知的エッセンスをストレスのかからない状態に持っていくのが彼の仕事の主旨だ。では、問う。ならば、その知的情報は、どこでどう培われてきたものなのか、情報をこねくりまわし利便化するだけでは新たな知的な出生は見込めないというのが佐野の反意の骨子だ。

この本が勇ましいのは、佐野の孫正義への洞察自体そのものが、佐野自身の反意の裏付けとして直結しているところだ。つまり、孫正義という人物の誰も知らない一面を手繰り寄せる為には、「本」という形態でしかありえなかった。探究の究極系として「本」を活き活きとさせている。その証左を、伝達手段を統率し発想法や思考法に至るまで踏み入ろうとする孫正義から引っ張り出した愉快さが、この本の裏テーマとして敷かれている。書籍タイトルの『あんぽん』は、孫の帰化前の名前・安本(やすもと)から来ている。「あんぽん」と音読みされ、「あんぽんたん」とつなげて嘲笑われることを酷く嫌ったのだ。いくら時を経ようが、本人にとっては未だに極めて不快な呼び名であるに違いない。そのあだ名をタイトルに掲げながら、孫に確かな賞賛と譲れない批判を掛け合わせていく。ビジネス雑誌で孫が礼讃される、逆に、週刊誌で孫が批判に晒される。どちらも正しいが、どちらも確実に、事前に頭の中に用意した持論に意識的に手繰り寄せている。つまり、どこかでウソをついている。この『あんぽん』は、孫正義という現代の怪物に、初めてニュートラルに挑み暴れてみせた稀有な1冊だ。だから、ここでもまた、冒頭の言葉を繰り返したくなる。スマホをいじくりまわしているヒマがあるなら、この本を読むべきだ……紙に印刷された単なる文字の羅列は、人差し指で次々と流せるほど、まだまだ軽くはない。

書籍情報
『あんぽん 孫正義伝』

2012年1月10日発売
著者:佐野眞一
価格:1,680円(税込)
発行:小学館

佐野眞一

1947年、東京生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。97年『旅する巨人宮本常一と渋沢敬三』で第28回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。09年『甘粕正彦 乱心の曠野』で第31回講談社ノンフィクション賞を受賞。



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