子どもの頃、もっと証拠隠滅をしていたと思う。もっと豪快な嘘をついていたと思う。しかし、オトナになると、あるいは今という時代は、何でも記録に残してしまう。嘘がつけない。ミスを揉み消せない。慎重に進めるべきビジネス案件は口頭ではなくメールで残すように、とか、会議の議事録をシェアしよう、となれば、「小さなウソからコツコツと」を裏のモットーにしてきた身はどうにも生きにくい。
だから、鉛筆への寵愛を記したこの本が「鉛筆は、思考の邪魔をしない唯一の筆記用具である」と宣言し、「子供の頃から長い付き合いを続けてきた『考える仲間』のようだ」と教えてくれるのを浴びて、鉛筆の思想に、今一度体を浸らせたくなった。避暑地でバカンスしても帰れば現実、コンサートで熱狂しても終われば現実、でも、生活に鉛筆をじっくり取り込めば、自分のそばに、常に逃避できる/揉み消せる存在を用意できるような気がする。そんな気にさせてくれる、とっても体に優しい本だ。タニタの食堂の本より、体にいい。
鉛筆は、書いて、消せる。紙にインクを染み込ませる他の筆記具と違って、あくまでも仮の状態だ。公的な書類を誰かにこう書けと指示されるとき、そこには必ず鉛筆の下書きがある。人は、情報として定着させたくないとき、鉛筆を使うのだ。そのことを前向きに捉え直すと、空想とか妄想とか、あとで無かったことにしたくなるかもしれない思惑とか、そもそも届けてしまっていいか分からないけれどとりあえず思いついてしまった案などを残すにふさわしい唯一の文具が鉛筆なのだと気付く。
著者があとがきに、小学校の入学に合わせて親戚から電動鉛筆削り器を贈られる約束になっていたエピソードを書いている。結局、入学直前の親族会議で、「子どものうちに楽をすると、怠けた大人になってしまうから」という、大人には真っ当な、子どもには理不尽な理由でプレゼントが見送られる。著者は「息もできなくなるほど泣いた」という。愛おしいエピソードだ。そう、楽をしてはいけない。鉛筆削りに鉛筆を突っ込んで、手でグルグル回して削る。削りかすが溜まるとゴミ箱に捨てる。あの時の、木の香りを嗅ぎたくなった。
鉛筆が床に落ちると、まるで木琴のようにコロンと響いた。カンペンが床に落ちると、まるで鉄琴のようにカーンと響いた。今、小学校生活ってものを音から思い起こそうとすれば、そのふたつの音が頭にやってくる。貧乏をあちこちで野次られていた同級生の鉛筆はいっつも短かった。残酷な子どもたちは、そのことを盛んに突っ込んだ。彼の鉛筆はいつも銀色の補助軸(という名前だと本書で初めて知った)で無理に長く伸ばされていた。思えば、鉛筆や筆箱には貧富すら投影されていたのかもしれない。だって、市議会議員の息子の筆箱は、いっつもきれいだったもの。鉛筆もいっつも新品だった。キャップもおしゃれだった。
この本は、新しい知識も植え付けてくれる。鉛筆の年間生産量が昭和40年代の13億本から2億本に激減していること、鉛筆の尻軸に丸くてぷっくりとした塗料がついているものとついていないものがあるが、あれを「天冠」と呼ぶこと、芯の硬度(HやBと数字で組み合わされる)がアメリカでは「1〜4」と味気なく記されていること、本人が書くように「何ひとつ役に立たない」鉛筆の知識を並べている。
でも、あらゆるモノやコトが「役立ちます」という顔をしている今に、この態度はとっても大切に思える。メールでもツイートでも、そもそもこんなに必要だろうかと感じていることでしょう。じゃあ、鉛筆を握ればいい。大きな文房具屋に行って、いい鉛筆をいくらか買って帰ってこよう。気持ちいいくらい勝手な嘘をつきたい。思考を寄り道させたい。手の小指の付け根あたりを真っ黒にさせながら。
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- 『考える鉛筆』
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2012年3月26日発売
著者:小日向京
価格:1,575円(税込)
ページ数:200ページ
発行:アスペクト
- プロフィール
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- 小日向京
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68年東京都生まれ。共立女子大学大学院文芸学研究科修了。文字を習う前の幼児時代に新聞書体を鉛筆で書き真似したことから、文字と文具に興味を抱く。オン・オフともに「人生の仕事」ととらえ、その仕事を最大限に生かすことのできる文具選びと、使い方を探究。文具雑誌を中心に手書き文字や文具アイテムの記事を書いている。いうまでもなく、鉛筆をこよなく愛する。
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