「生きた伝説」という言い方はクリシェだけれど、灰野敬二というミュージシャンほど、この言葉にふさわしい存在はいない。今年、還暦を迎えたこの音楽家は、間違いなく、世界中を見回してみても比肩する者のない、稀有にして偉大な、そして謎に満ちたアーティストである。この映画は、そんな「生きた伝説」の意外(?)な素顔に迫った、ユニークなドキュメンタリーだ。
伝説というからには、そこにはおのずから、神秘的な色彩が生じてしまう。実際、灰野敬二には、その風貌や言動も含めて、強烈な神秘性が否応なしに纏い付いている。そのライブは、一種、儀式めいた張り詰めた空気が支配しており、ソロや不失者、静寂といったバンドを従えて、唯一無二の音を奏でるその姿は、さながら司祭のようである。だから灰野敬二のドキュメンタリー映画と聞いた時、僕がすぐさま想像したのも、やはり極度に神秘的な雰囲気だった。それは無理からぬことだったろう。たとえば、演奏の断片の合間に、漆黒の闇の奥に佇む「生きた伝説」が、スフィンクスのごときミステリアスな言葉を、呟くように発する。ストイックで厳かなムード。そんな光景が淡々と続く、それ自体神秘的な映画を、勝手に思い描いてしまっていたのだった。だが、予想はまったく外れていた。
『ドキュメント灰野敬二』©2012『ドキュメント灰野敬二』製作委員会
一言でいうと、この作品には、そんなイメージとしての神秘性など、かけらもない。灰野敬二は、明るい光の部屋で、リラックスした物腰で、じつに率直に、ほとんど快活とさえ言ってよいほどの滑らかさで、自らの過去を、歴史を、音楽観を、現在の心境を、語りに語っている。普段の灰野氏を、その存外にフランクな人となりのことを、まったく知らないわけではなかったにしても、これには虚を突かれた。或る意味では、灰野敬二という存在を、いつのまにか覆ってしまっていた分厚いオーラを、いったん綺麗さっぱりと剥ぎ取って、その上で、ほんとうの彼の姿を映し出そうとしている、とも言える。喋りまくる灰野敬二、思えばこれほどスリリングな被写体はない。監督の白尾一博は、このアプローチによって、従来の灰野像を塗り替えることに成功したとさえ言ってよいだろう。
灰野ファン垂涎のシーンは山程あるのだが、中でも際立って貴重と言えるのは、不失者でのスタジオ練習風景を捉えた一連の場面だろう。ベースのナスノミツル、ドラムスの高橋幾郎、現在はメンバーチェンジしてしまったので既に歴史の一部となったこの編成によるバンドが、どのようにしてひとつの曲を編み上げてゆくのか、灰野氏が発する一言一言に、他のふたりがどのように応じていくのか、そこには本当に、神秘はない。ただ、謎はある。どこまでも飾り気のない、あっけらかんとした口ぶりで、だが揺るぎない確信のもとに語られる指示、注文、意向の数々は、きわめて明晰でありながら、音楽の謎に満ちている。それは音楽という営み、音楽という試みに潜む、真に不可解な、解き得ぬ謎だ。神秘を欠いた謎。それこそが、この映画があらためて露わにする、灰野敬二という存在の核心である。そして遂にライブ本番で披露されている楽曲を目の当たりにして、観客は秘密の一端に触れたような錯覚を抱くことになる。もうひとつ、この映画では灰野氏のノートの頁が映し出される。その独自の作曲法には、心の底から吃驚してしまった。彼は古今東西の音楽に知悉した上で、音楽の成り立ちの根本から全てをやり直し、未だ掘り尽くされていないポテンシャルを、埋蔵されたままの可能性を、あくまでも具体的な音として見つけ出そうとしている。言うまでもなく、灰野敬二が奏でる音楽は、圧倒的に独創的なものである。だが、それは彼が天才であるから、だけではない。それは日々のたゆまない思考と鍛錬の結果なのだ。だからこそ、彼は還暦を越した現在もなお、神秘の玉座に安住してしまうどころか、新たなる謎へと刻々と進化し続けている。
『ドキュメント灰野敬二』©2012『ドキュメント灰野敬二』製作委員会
幼い頃のエピソード、両親や友達の想い出を語る灰野氏の表情には、つい昨日のことを話しているかのような実感が込められている。過ぎて来た時間、通り抜けてきた体験の数々が、彼の演奏には充填されている。映画の後半、パーカッションソロのビデオ撮影の模様を捉えたシーンでは、カメラワークから照明のスイッチングにまで細かく口を出す、その徹底した完璧主義者ぶりと、それとまったく矛盾しないチャーミングさが、鮮やかに記録されている。灰野氏のあまりのこだわりぶりに、スタッフの女の子たちが思わず顔を見合わせて微笑んでしまうショットなど、この映画でしか見られない名場面といえるだろう。
この映画は、灰野敬二ファンのみならず、まだ彼の音楽に一度も触れたことのない方、灰野敬二という「生きた伝説」のことをまったく知らない方にも、出来れば観て欲しいと思う。ここには、ひとりの生身の音楽家がいる。彼の音楽は誰とも似ていない。彼はまったくもって孤高の存在である。そして、孤高であることの孤独と、それにけっして負けまいと必死で生き抜いてきたひとりの人間の人生を、この映画は非常に深いところで掴まえている。ラストで灰野氏が発する一言には、思わず笑いながら涙してしまいそうになった。
- 映画情報
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- 『ドキュメント灰野敬二』
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2012年7月7日(土)よりシアターN渋谷でモーニングショーおよびレイトショー
監督:白尾一博
音楽:灰野敬二
出演:
灰野敬二
不失者
高橋幾郎
ナスノミツル
工藤冬里
亀川千代
Ryosuke Kiyasu
配給:太秦
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