ナタリーって池上彰だったのか
池上彰についての考察記事を書き終えた後に、カルチャーニュースサイト「ナタリー」創業者・大山卓也の著書『ナタリーってこうなってたのか』(双葉社)を読み進めたら、あれ、ナタリーって池上彰なのではないか、と気付いた。一方で、批評性の発奮を記すことに神経を尖らせてきた既存の音楽雑誌は、池上と真逆のスタイルと言われる田原総一朗と言えるだろうか。
月に2,000本以上の記事を配信、月間PVが3,000万(記事本数、PV共に音楽、お笑い、コミックナタリーを合わせた数字)を超えるカルチャーニュースサイト「ナタリー」、たったの8年で急成長を遂げ、先日にはKDDIの連結子会社化されることが発表されたばかり。大山自身は「成長の理由はさっぱりわからない」と書くが、同時に「『こういうものを作ろう』という設計図は、自分の中に確かにあった」とも書いている。思いつきの連鎖で事業が広がっていったようにも読めるし、策士が階段を一段ずつ上がってきたようにも読める。そのどちらなのかを分析したがる読者から逃げるように、タイトルに掲げた通り、ふ~ん、こうなってたのかと大山自身が鳥瞰する姿勢を崩さない。
「批評」と「本当に聞きたいこと」は違う
巻末の津田大介との対談でコミックナタリー編集長・唐木元は「絶妙な『不謹慎さ』とか『ゆるさ』みたいなことになるのかな。そうした彼のパーソナリティーが、確実に、でも気付かれない程度にナタリーに反映されている」と言う。「レベルの低い文章が“批評”を名乗って世にあふれている状況がイヤだった。いつも『お前のトラウマなんか知るかよ!』と苛つきながら音楽雑誌を読んでいた」という大山のパーソナリティーが、「記事を作るにあたって『書き手の思いはどうでもいい』」というナタリーの一貫したスタンスを生んだ。
池上彰という人は、積極的に自分の意見を発しようとはしない。情報を整理して適確に説明する能力に長けた人だ。かといって、批判力が皆無というわけではない。紋切り型の問いに「遺憾です」「厳粛に対応します」と冷たく返す政治家とのつまらぬ問答をとにかく嫌う。政界のプリンス・小泉進次郎に「小泉進次郎を演じるのって辛いですよね?」と問うように、別角度から突っ込むことを心がける。ナタリーのインタビュー方針は、本当に聞きたいことを聞く、というもの。「新作のレコーディングはいつから始めたんですか?」といった紋切り型ではない。大山が一例として挙げた質問は、いきものがかりに対しての「老若男女に広く支持されている反面、コアな音楽ファンといわれる層からはほぼ無視されているように思います。そのあたりご本人はどう感じているんでしょうか?」というもの。ほら、やっぱり池上彰的だ。
2つの文章を読み比べる
ナタリーのニュース記事は、池上彰がスタジオで解説をする時のように、私情を挟み込まずに客観性を持ち、淡々とした解説に努める。かといって、(女性ファッション誌のカルチャー欄のような)プレスリリースの語尾だけを変えたような紹介文は許さないし、どこかで既に流れた情報のコピペはもちろん法度だ。オリジナルで仕入れた情報をも、平淡で冷静な文章に落とし込む。それでいてミュージシャンの事務所から「1位になったのでニュースにしてください」と頼まれても「毎週誰かは1位になっているのだから」と載せないというバランスがとにかくクール。
唐突だが、下記の2つの文章を読み比べて欲しい。
「もはや言うまでもないが、日本が誇る2大洋楽フェスのフジロックとサマーソニックこそ、この国にとっての“洋楽ロックの生命線”である。その内容がいかに日本全国の洋楽ファンの“価値観”を左右しているかは、この10数年間でしっかりと実証されているだろう。(中略)ここ日本で長年ファウンデーションを築き上げてきたアクトがその人気の健在ぶりを証明し、クイーン、ロバート・プラント、クラフトワークなどレジェンド級アクトが貫禄のパフォーマンスを披露した。そしてなによりも嬉しかったのは、今後に繋がる“種”がいくつも蒔かれていたこと」(『rockin'on』 2014年10月号)
「7月25日から27日にかけて、新潟・苗場スキー場で恒例の夏フェス『FUJI ROCK FESTIVAL '14』が行われた。通算18回目、苗場に会場を移してからは16回目となる今回のフジロック。3日間の来場者数は延べ9万2000人(1日目2万7000人、2日目3万5000人、3日目3万人)、前夜祭を含めると10万2000人もの動員を記録した。昨年は3日とも夕方以降雨に見舞われたが、今年は25、26日が終日快晴、27日のみ小雨が降り続くという、前年よりは比較的過ごしやすい天候となった。今回のレポートでは国内アーティストを中心に、今年のフジロックの様子を伝えていく」(快晴続いた18回目のフジロックに10万人熱狂 - 音楽ナタリー)
『rockin'on』と「ナタリー」
いずれも、今年の夏フェスの模様を伝えるライブレポートのイントロだ。前者が『rockin'on』、後者が「ナタリー」。大山が再三再四書くように「書き手の思い」は後者からはすっかり消えているし、前者は逆に書き手の思いが起点となって文章が生み出されている。個人的には、(今でも毎号チェックしているし)前者の文体を好む。後者に対しては、回数と人数と天候を真っ先に伝えられてもねぇ、と性根が悪くわざわざひねくれてしまう。普段、『rockin'on』よりも更に年配向けのロック雑誌に寄稿しているからか、『rockin'on』が書く批評は、どこかでずっと、ここにスタンダードありという意識で読んできた。とはいえ、音楽を批評する態度自体が、薄まってきたなという読後感はやっぱりある。そんな中にあって、ナタリーの「批評はしない」「全部やる」というスタンス、正確な題材をとにかく大量に提供するという行為が、「批評をする(読む)」「その一部を」という書き手 / 受け手にとっての必要不可欠なアクセスポイントになってきたのは事実である。
大山卓也と渋谷陽一
大山がナタリー創設前に書いた手書きの企画書、トップページの見出しとして殴り書きされているサンプルには「浜崎あゆみが―――」と「ピロウズの―――」とある。この殴り書きの人選は、ナタリーの方向性というか包容力を見通している。2001年、『ROCKIN'ON JAPAN』が浜崎あゆみを表紙にした時、雑誌のコアなファンから異論が相次いだ。それは「批評する」雑誌がその批評対象として「浜崎を加える」と判断したことに憤ったわけで、「批評はしない」媒体がその対象を選ばず「全部やる」のとはベクトルが違う。ここには大きな差があって、この差は10年間の音楽メディアの推移そのものとも言える。でもここで、こんな2つの文を比べてみたらどうだろう。
「ナタリーを作ったのは、もともと既存のメディアに物足りなさを感じていた自分の欲求がきっかけだった。自分が作りたいメディアを作っただけ」
「僕のメディア作りの基礎となっているのは既存のマスコミに対する不信と怨念である。あるいは組織に対する反発といってもいいかもしれない。一人の物書きとしてのわずかな体験によって、とにかく自分自身の手でメディアを作らねば何もできないという思い込みができあがってしまった」
前者は大山、後者は『rockin'on』を創刊した渋谷陽一だ(『音楽が終った後に』 / 1982年刊より)。とってもよく似ている。ライブレポートと同様に文体は異なっているけれど、目的はすっかり一緒だ、あまりにも似ている。ならば、ナタリーの「批評はしない」「全部やる」と、「批評をする(読む)」「その一部を」という音楽雑誌に、共存の道があるのではないか。……と終えようとしてようやく気付く。共存できるか否かを試されているのは、それを受け取る側。メディアをイチから作り上げる人は、いつの時代も、何かを、ではなくて、全部を包み込んで、こちらを誘惑してくるものなのだ。ならばこちらは全部受け取ることから始めるべき。受け取る側が発信する側を細い道に誘い込んではいけない。どこまでもニッチになってしまうし、それを喜ぶ体つきになってしまう。
- 書籍情報
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- 『YOUR BOOKS 02 ナタリーってこうなってたのか』
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2014年8月21日(木)発売
著者:大山卓也
価格:1,080円(税込)
発行:双葉社
- プロフィール
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- 武田砂鉄 (たけだ さてつ)
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1982年生。ライター/編集。2014年9月、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」で「コンプレックス文化論」、「cakes」で芸能人評「ワダアキ考 ~テレビの中のわだかまり~」、「日経ビジネス」で「ほんとはテレビ見てるくせに」を連載。雑誌「beatleg」「TRASH-UP!!」でも連載を持ち、「STRANGE DAYS」など音楽雑誌にも寄稿。「Yahoo!個人」「ハフィントン・ポスト」では時事コラムを執筆中。インタヴュー、書籍構成なども手がける。
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