銀座の中心にある、まもなく解体されて役目を終えるビルの中で
まもなく解体される銀座4丁目の名古屋商工会館という古ビルで、『THE MIRROR』という展覧会が開催されている。最近、解体前のビルや古い建築を利用したアート展が話題を集めているが、しかしなぜ今回「鏡」というタイトルなのか。本展キュレーションを担当した美術評論家でパブリックアートプロデューサーの清水敏男は、シェイクスピアの言葉を引用し「芸術とはこの世のありようを鏡に映し出すことだ(中略)『THE MIRROR』もまた次の時代の真実を映す鏡」と述べている。地上6階の古ビルに集った30余組のアーティスト、建築家、デザイナーらの作品は、はたして清水の言う「鏡」たりえていただろうか。1階から6階へと伸びる展示を思い返しながら、あらためて同展の読み解きをしてみたいと思う。
ニコラ・ビュフ 展示風景 Photo: Takahiro Fukumori
水面に向かって上昇していく泡の姿を自らに重ね、展示フロアを1つずつ登っていく
エントランス。『THE MIRROR』の入り口である1階には、アーティストグループ「アトリエオモヤ」のメンバーである小松宏誠と、東京大学大学院航空宇宙工学専攻修士課程に在籍中のクリエイター・三好賢聖のコラボレーションによる『プワンツ・バブルリング』がある。これは、長い円筒形の水槽の下から空気の泡が噴き出す様子を作品化したもので、水中には可動式のガラス器が設えられて、泡が触れると上下に動いたりする。その様子は「水中版の獅子おどし」のようだ。注がれる水が一定量溜まると、竹の筒が重みに堪えきれなくなって動く「獅子おどし」は、重力という自然現象を利用した仕掛けだが、『プワンツ・バブルリング』はその逆で、水面に向かおうとする泡によってガラス器が動かされる。ここで示されているのは、この作品からスタートして最上階へと誘導する、本展の向かう先であるのかもしれない。獅子おどしの水が石瓶の奥深くへと沈潜するように、『THE MIRROR』を巡る鑑賞者は、1つの泡となって天空を目指す。
小松宏誠+三好賢聖『プワンツ・バブルリング』
コンピューターグラフィックスで作られた「建築」映像作品が、失われていく古ビルへの想いを喚起する
2階には、建物や空間について考察する作品群が並ぶ。フランシス真悟のビル内の物音を集音し、絵画と共に空間の再造形化を試みる作品や、インテリアデザイナーの内田繁が数人のデザイナーらと共に設えた仮設の茶室はその顕著な例だが、ここで注目したいのは、音楽や科学、数学に基づいた作品を制作するフロリアン・クラールの映像作品『The Wanderer』。終わりも始まりもない回廊型の空間を、前進 / 後進する2つのカメラが捉えたこの作品は、すべてがコンピューターグラフィックスで作られている。橋脚の基底部のような通路、オペラ劇場のようなホール、クリスマスを迎えた一軒家、人工の森などを次々とかけ抜けていく映像によって示されるのは、シェイクスピアの言う「この世は舞台」的な世界認識である。会期終了後には跡形もなくなる名古屋商工会館への自己言及とも言うべき本作を通して、私たちは今いる建物について想いを馳せる。
現実と虚構の世界の狭間を連想させる、さわひらきや藤森照信+ローランド・ハーゲンバーグの作品たち
3階。2階で示された世界の虚実皮膜的な性質は、このフロアでさらに抽象的なかたちを取って示される。光の集積にすぎない映像を、さらに鏡像として反射させてみせる、さわひらきのゴースト的作品『Envelope』や、まるでポルターガイスト現象でも起きたかのような土屋公雄のイスを使ったインスタレーション、その隣に展示されたニコラ・ビュフの作品は、世界の条理が崩壊した後の「狭間の空間(つまり死後の世界)」をほのめかす。また藤森照信+ローランド・ハーゲンバーグのオーストリアでの建築プロジェクトを紹介する『鶴庵(コウノトリアン)』は、模型や図面を通じて、建物の中にある建物の中にある建物……という入れ子状の倒錯を私たちに呼び起こすだろう。ナチスドイツの侵攻を受けた歴史を持つオーストリアと、南アフリカからの「鶴の渡り」の中継地点としてのオーストリアを、二重の意味で衝突させる飛躍的な発想もまた、現実と虚構の間の薄い膜や局所的な陥没を示すようで興味深い。
さわひらき『Envelope』2014年 commissioned by Tokyo Opera City Art Galley ©Hiraki Sawa, Courtesy of Ota Fine Arts Photo: Takahiro Fukumori
科学的思考や論理的思考に抗う、融解したままの世界の姿
4階。3階まではなんとか具体的な形象の条理に踏みとどまっていた作品群は、ここから急激な融解を始める。ほとんど抽象画にしか見えない畠山直哉の『Steingletscher』は、じつはスイスのシュタイン氷河の割れ目を捉えたものだし、本展最年少の出品者である宮田彩加の『WARP』シリーズは、デジタルミシンの誤作動によってドイツのエルンスト・ヘッケルが記した生物画を糸の集積へと解体・再構成していく。特に白眉なのは、堂本右美の暗い小部屋を使った『かがみ』『よるのとばりに、このところ』である。「数分程度で目が慣れてきます」との説明を受けて入った室内には、霧のような黒い何かが描かれたキャンバスが飾られている。普通に考えれば、ここには何らかのモチーフが描かれていて、目が暗闇に慣れるとその姿が詳らかになると思うだろう。だが数分後に見えてくるものは、やはり「霧のような黒い何か」のままだ。近代以降の科学的思考によって馴致された私たちは、目をこらすこと、論理的に思考することによって、たしかな結論や結果を得ることができると思い込んでいる。だが、世界とはそこまで単純に黒と白に二分されてはいないのだ。
宮田彩加『Warp』シリーズ 展示風景 Photo: Takahiro Fukumori
最上階1つ前のフロアでは、松岡正剛+隅研吾、アニッシュ・カプーア、李禹煥、さらには「涅槃」の世界(!)がお出迎え
5階。形象を失った世界はどこへと行き着くのだろう。終着地の1つ手前にあたるこのフロアではその様々な可能性が示されている。1つは書物。映像作家ミシェル・ゴンドリーの近作『ムード・インディゴ』の次第に狭くなっていく部屋を想起させる松岡正剛+隈研吾による書庫兼ブックストアは、もっとも抽象化された形象とは文字であり、その集積である書物であると主張する。そしてもう1つは涅槃の世界。チベット仏教の画僧が描いた『三世仏』は過去、現在、未来の仏を異時同図法で描くことで、時間軸を示すと同時にそれを無効化する。キャンバス上に、光沢のあるグレーの絵具を伸ばすように付着させた李禹煥の『対話』や、流体的な鏡面に可塑的な世界のありようを示すアニッシュ・カプーア『無題』も、たしかにそこに「ある」にも関わらず、同時に「ない」とも言える、禅的な世界認識を示しているとも言えるだろう。本展は本当に幽世(かくりよ)、「あなたの知らない世界」へと辿りついてしまったのかもしれない。
松岡正剛+隈研吾『書庫兼ブックストア』 Photo: Takahiro Fukumori
アニッシュ・カプーア『無題』(手前)、チベットタンカ『三世仏』(奥)展示風景 Photo: Takahiro Fukumori
そして最上階で目にする意外な結末とは……?
そして最上階である6階。ここには西野達とジェニー・ホルツァーの作品が展示されているが、何よりも鮮烈に目に飛び込んでくるのは窓から射し込む外光、そしてその先に見える、向かいのビルの屋上に設えられた何気ない休憩スペースである。ビルの内部を人体にたとえるならば、死と新生を追体験する胎内巡りのような『THE MIRROR』の旅路の果てに現れた、「休憩所」という、とてもささやかな日常の風景。労働を「ハレ」とするなら、その間に差し挟まれた「ケ」としての休息時間は、たしかに日々の暮らしに追われる私たちの人生の真の姿を映す「鏡」であると言えるのではないだろうか。
西野達 展示風景 Photo: Takahiro Fukumori
「青い鳥は、じつは自分たちの一番近くにいた」的な結論は、出来過ぎの感もある。だが、そんなときは5階に展示されていた宮脇晴の『自画像』を思い出してみるのもいいだろう。岸田劉生に感化された早熟の画家が17歳で描いたという自画像は、たしかに画家自身の「鏡」である。同時に、すべてを見透かすような澄んだ瞳を持ったその少年像は、私たち全員にとっても、かつてそうであったかもしれない無垢なる自分を見返す普遍的な「鏡」でもあるだろう。『THE MIRROR』が映し出す「この世のありよう」とは、外界を指すだけでなく、私たちの内面にも広がっているのだ。その意味で、本展を現代の胎内巡りとたとえることは、やはり妥当なのである。
- イベント情報
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- 『THE MIRROR Hold up the mirror to nature』
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2014年10月16日(木)~11月9日(日)
会場:東京都 銀座 名古屋商工会館、ほか(サテライト会場有り)
時間:13:00~21:00
休館日:月曜、11月3日は開館
料金:1,000円~1,500円(1日400枚限定、要事前予約)
※セミナーは別料金、オフィシャルサイト参照
※『博物館明治村開村50周年記念「デザインの黎明」』 は入場無料
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