登場人物、全員死人。約2400年の呪いをぶち壊す問題作が、師走の日本を批評する

仁義なき戦いと、嘆き悲しみと、刃傷沙汰で盛り上げまくる昼ドラのあわせ技のような、すさまじい物語『アンティゴネー』

死人に口なし。しかし演劇作品『Antigone Dead People』に登場する死人たちはじつに雄弁である。

カナダ・トロントを拠点とし、ラジオ生放送、市民集会、クリスマスコンサートなど「人が集まること」を活動理念とする自称ほぼ劇団「Small Wooden Shoe」が2012年に初演した同作が、劇団dracom(ドラカン)の筒井潤との共同演出でリビルドされ、12月27、28日に六本木SuperDeluxeで上演される。本稿はその稽古現場に潜入して書かれたテキストだが、まずは作品の元ネタである『アンティゴネー』についておさらいしておこう。

dracom『方々ノ態(in OSAKA, Kitakagaya)』(2013)
dracom『方々ノ態(in OSAKA, Kitakagaya)』(2013)

紀元前5世紀頃。古代ギリシャ三大悲劇詩人の1人、ソポクレスが書いた『アンティゴネー』は、父親を殺して母親と性的関係を持ってしまったことで有名なオイディプス王の物語の続編である。父親であるオイディプスの死後、跡目争いの果てに共倒れになった2人の兄を持つ王女アンティゴネーは、反逆者にされてしまった片方の兄ポリュネイケスを手厚く弔おうとする(王座に就いた叔父クレオンの命に背いて)。だが、クレオンはそれを許さず、アンティゴネーの婚約者である息子ハイモンや、アンティゴネーの妹イスメーネーらの必死の説得も聞き入れず、彼女を地下に幽閉してしまう。やがて自らの過ちに気づき、クレオンは幽閉を解くも、時すでに遅し。そこには首を吊ったアンティゴネーの姿が! それに絶望したハイモンは後追い自殺! さらに息子を失ったクレオンの妻まで自殺! ……という、仁義なき戦い&愁嘆場と刃傷沙汰で盛り上げまくる昼ドラのあわせ技のような、すさまじい物語が『アンティゴネー』である。

どこまでも噛み合わない人間の悲しさがもたらす、滑稽ですらあるような愛憎ドラマ。それゆえだろうか。『アンティゴネー』はギリシャ悲劇の傑作古典として人々から愛され、じつに2000年を超えて星の数ほど上演されてきたのだ。

何千回も死んで、何万回も絶望のどん底に突き落とされるアンティゴネーたちの、あんまりな輪廻転生を終わらせることを試みる『Antigone Dead People』

しかし、アンティゴネーやクレオン本人にしてみれば、それってなかなかヒドい状況である。戯曲として作られた物語であるがゆえに、彼女たちは何千回も死んで、何万回も絶望のどん底に突き落とされるのである。そして『Antigone Dead People』は、そのあんまりな輪廻転生を終わらせることを試みる作品なのだ。

演出家ジェイコブ・ズィマーによる『Antigone Dead People』概念図
演出家ジェイコブ・ズィマーによる『Antigone Dead People』概念図

今回の稽古で重点的に見ることができたのは、作品の結末部分。でもそれを書いてしまっては元も子もないので、本作を120%楽しむための条件をまずは列記しておこう。

1:登場人物、全員死人。
2:死人である証拠に(?)、彼らは自分の口で喋ることができない。役者の演技に、録音された音声をオーバーラップさせて物語は進行する。
3:自分が死んでいることに気づいた登場人物だけが、自分の肉声でセリフを発することができる。

以上3点を押さえておけば、かなり複雑で重層的な構造を持つ本作に入り込むことができるだろう。全員が死人、という設定は特異なものだが、演劇の本質をよく考えてみればこれは当然とも言える。たとえば海外の戯曲が日本人キャストで上演される際、いくら舞台俳優がイケメン&美女だったとしても「ケン」や「キャサリン」と呼ばれるのには無理がある。けれども観客の多くがそれに違和感を感じないのは、演劇とは役者が役になりきるものという前提を共有しているからだ。どう見ても日本人でしかありえない役者の身体を無意識に排除して、そのむこうにほの見えるイメージとしての役を幻視することで、演劇の受容は成立する。その意味で、役を演じている間の役者とは、その人自身のアイデンティティーを失った死人(死体)なのであり、役は役者の身体に憑依した幽霊のようなものなのだ。

京都芸術センターでの『Antigone Dead People』リハーサル風景
京都芸術センターでの『Antigone Dead People』リハーサル風景

したがって、最初から死人が演じていることを明言して始まる『Antigone Dead People』は、物語の構造上、死人をもう一度死なせるものとなる。この二重の死を自覚することによって、本作に召還されたアンティゴネーたちは、自らが囚われた演劇の無限地獄から脱出するための模索をすることになる。そうやって訪れる結末は、カタルシスよりもむしろ狂騒として現れる。

ギリシャ悲劇の設定を改変することで、原発や集団的自衛権を巡る議論が応酬する、今の日本を連想させる現代劇に

このテキストを読んで、実際の作品を見ればきっと納得していただけるとは思うのだが、もう1つ指摘したいことがある。メタ演劇的な設定を導入したことで、本作の物語は原典の『アンティゴネー』とは異なる方向へと舵を切っているのだが、それに関わる重要な設定の改変がある。

So Full is the World of Calamity That Every Source of Pleasure 1 ©Sherri Hay / Courtesy of Megumi Ogita Gallery
So Full is the World of Calamity That Every Source of Pleasure 1 ©Sherri Hay / Courtesy of Megumi Ogita Gallery

原作ではアンティゴネーの兄ポリュネイケスとエテオクレスの対立の原因は不明瞭なのだが、『Antigone Dead People』では、はっきりと政治思想に基づく対立であることが明言されている。理想主義的な革命家として描かれるポリュネイケスに対して、エテオクレスは排外的な移民パージ政策を掲げる政治家として描かれている。この「極左VS極右」的図式が示されることで、社会の安定を建前にして政治的決着を図ろうとする中道派のクレオンや、不安定な政治状況を考慮せず個人のエゴだけで行動するアンティゴネーの立ち位置が鮮明になる。

その状況は、原発や集団的自衛権を巡る噛み合わない議論が応酬する、昨今の日本を容易に連想させる。本音、建前、矛盾、不条理。悲しいことだが、それは社会の本質でもあるのだろう。そこで次の課題となるのは、私たちはそれといかに付き合っていけるのか? 立ち向かっていけるのか? ということだ。

Small Wooden Shoe『Sedition, or Kindness Makes Me Cry Like Nothing Else(暴動、あるいは優しさは何よりも私を泣かせる)』(2012)
Small Wooden Shoe『Sedition, or Kindness Makes Me Cry Like Nothing Else(暴動、あるいは優しさは何よりも私を泣かせる)』(2012)


Small Wooden Shoeの演出家ジェイコブ・ズィマーと、脚本を担当し出演もするエヴァン・ウェバーはこう言う。

「あらかじめ決められた運命や時間のルールから逃れる可能性は案外高いかもしれない。演劇ならそれができる(かもね!)。少なくとも、権力によって麻痺させられた状況から逃れるよりは、ずっと簡単なんじゃないかな?」

イベント情報
『Antigone Dead People』

2014年12月27日(土)、12月28日(日)OPEN 19:00 / START 19:30
会場:東京都 六本木 SuperDeluxe
参加アーティスト:Small Wooden Shoe+dracom
料金:前売2,500円 当日3,000円
主催:東京都、東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人東京都歴史文化財団)、PARC – 国際舞台芸術交流センター

(メイン画像:演出家ジェイコブ・ズィマーによる『Antigone Dead People』概念図)



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