全ての「いないけれどもいる」ものたち。「幽霊」は何千何万と積み重なって存在している
死者は幽霊であるが、死者の魂だけが幽霊ではない。場所に介在した誰かの記憶、その土地を通り過ぎていった人々のざわめき、本来そこに存在するべきであったけれどもそうならなかった誰かの影、それら全ての「いないけれどもいる」ものたちを含めて、幽霊である。幽霊はすでに常に、われらのそばにひしめき合っている。
私にとっては初めて乗るバスの座席でも、誰かにとっては30年間通勤の際に腰掛け続けた定位置であり、誰かにとっては人生で初めてバス酔いして嘔吐したとき座っていた椅子かもしれず、また別の誰かにとっては「ねえ今日佐々木さん調子悪そうだったね」と会話した地点であるかもしれない。すなわち私が座るこの椅子には何千何万の幽霊が積み重なっていて、今この席に腰掛ける唯一の存在であるかのように見えている私は、何千何万の幽霊のうちの一存在に過ぎないのである。私に見えているものはこの世界のほんの表層で、私の知らないところに莫大な文脈と意味が介在している。それはとても不安で、心細いことだ。真夜中、未知の街にひとりぼっちで放り出されたような心許なさだ。しかしながら暗闇の中でぽつねんと立つとき、自分のかたわらに立つ幽霊と手を繋ぐことができるなら、その不安は暖かく思われるだろう。
死者が遺した幽霊たちの声に耳を傾ける、『眠る虫』
「ねえ 幽霊ってどっから声出してんだろ」
最初のセリフに象徴されるように、『眠る虫』は幽霊の映画である。主人公・佳那子(松浦りょう)は町のあちこちで勝手にボイスレコーダーを回し、誰かの話し声を録音する、いわば「盗聴」を趣味としているバンドマンだ。環境音に埋もれるように聞こえてくる、何の話をしているのかもよくわからない声の断片を、佳那子は好き勝手に集めて手元に置いていた。
ある日、佳那子はバンド練習へ向かうバスの中で不思議な歌を耳にする。歌っているのはどうやら優先席に腰掛けているおばあさんのようだ。鼻歌のような不安定なメロディだが、確かに歌である。この歌をレコーダーに収めたい。そう思った佳那子はおばあさん――塚本しずえというらしい――の後を追った。
佳那子はバスに乗る。長く乗る。さまざまな人の声がざわめくバスの中で、じっと最後まで塚本しずえ(水木薫)に同道していく。やがてたどり着いた真っ暗闇の終点で、佳那子は塚本しずえを見失い、代わりに座席に残されていた小さな箱を、一軒の家へ届けに行くこととなる……。
佳那子が運ぶ箱は、それ自体が幽霊である。だってその箱は、塚本しずえが置いていった箱だから。箱の中に入ったカセットテープ、石、何枚かのスケッチは、塚本しずえが大事にしていた記憶そのものだ。塚本しずえが拾ったことで生きた石。塚本しずえが描いたことで生きた風景。そして塚本しずえが吹き込んだことで生きた歌。それらはどんなにささやかであっても、塚本しずえの魂の断片であり、ばらばらの幽霊だった。塚本しずえが逝ってしまうとき、箱とその中身は眠りにつくだろうが、それは眠りであって死ではない。その人がいなくなってしまっても、その人が遺した幽霊たちは、そこかしこに在り続ける。幽霊に気付ける人、幽霊を知っている人が、その声をそっと聞く。このありさまそのものが、『眠る虫』なのだ。
他者の声を背負うことの重みを、主人公はあっさりと引き受ける
佳那子は身軽に幽霊を掬い上げ、追跡し、手を繋ぎ、背負う。佳那子がしずえに同道し、しずえの遺した箱をあるべき場所まで送っていく役目をあっさりと引き受けるところに、『眠る虫』の醍醐味がある。
だってそうだろう、幽霊が怖いのは、自分が耳にした幽霊の声が、他人にも聞こえるとは限らないからだ。死者には口がない。口のない他者の声が聞こえたならば、そこには耳にした声を誰かに伝え届ける責任が生じる。これは軽くない責任である。絶対に無視すべきでない責任である。幽霊を包摂しない社会は明確に悪い。声の大きな者の声しか聞かない態度は、最も忌むべき権力の横暴である。私はこのような考えに基づいているから、やっぱり幽霊を恐れてしまう。自分に他者の声を背負えるのだろうか。この葛藤は私が幽霊になるまで続くだろう。
こういう暗い重みを、『眠る虫』は愛おしく裏切る。佳那子の軽やかさが本当にまばゆいのである。佳那子は見知らぬ人にいきなり「歌ってください」とボイスレコーダーを向ける。他人の家に置かれた亀の水槽に手をつっこみ、つっこんだ手を勝手に取ったティッシュで拭く。初対面の他人の家に泊めてもらい、他人に作ってもらった朝ごはんをぺろりといただく。他人の葬式にまで出る。佳那子は自分の関心に任せ、すんなりと幽霊に満ちた他者の領域へ入っていくのである。他者を恐れずに手を伸ばす佳那子の振る舞いは、一面には「図々しい」とも評価できるかもしれない。しかし幽霊と生者を繋ぐ仲介役として、佳那子はこれ以上ないほど適任であった。
あいまいのままの境界を軽やかに越え、両者を繋ぐ金子由里奈の映像世界
幽霊の存在を強固な前提としながら、それでいて身軽。これは佳那子だけではなく、監督である金子由里奈の映像世界、そして私が出会った金子由里奈に通底する態度である。
思い出すだけでも少し面白いのだが、私と金子由里奈が初めてきちんと話したのは、二人ともほとんど知らない街の「魚民」だった。二人で映画を見てから電車に乗り、どこで降りるか決めないままドアにもたれて話し合っていたら、ふとその駅でドアが開いて、なぜかそのまま降りてしまったのである。私は降りるかどうかを相手にうかがうつもりで金子さんの顔を見た。なんとなくうなずいたような、肯定的な表情をしているような気がしたので、そのまま下車した。そこで初めて「ここで降りるので合ってました?」と聞いたら、「え、わかんないです」と返ってきたのであった。
もちろん私が見た金子由里奈は、金子由里奈のごく一部であるが、少し話しているうちに感じ取れたのは、存在の偶然性に対する戸惑いであったと思う。なぜ自分が生きていて、相手が生きていないのか、それが心底わからないと思っているように見えた。ともすれば決定的な境界線が引かれる「いる/いない」が、この人の前ではろう石で書いた○みたいに越境可能なのだ。なんで私は知らない街の魚民にいて、なんでネットで知り合った怪しい友人同士で食事をしているのか。それも含めてよくわからないことで、当事者であるはずの私もよくわからないのだけれど、『眠る虫』を見たあとでは、この偶発性がなんとも愛おしい。
「ねえ 幽霊ってどっから声出してんだろ」
映画の最後、佳那子は問いの答えにたどり着く。幽霊の言葉を伝えるのは生者であるという真理を、佳那子は佳那子の言葉で説明して見せる。思いついたような口ぶりと、ちょっと笑ってしまうような響きを持ったその言葉は、ぜひ劇場で確認してほしい。
『眠る虫』は幽霊の映画だ。そして生者の映画でもある。どうして一方が幽霊で、どうして一方が生身であるのか、その境界があいまいなまま、物語に暖かい光が満ちていく。映画を包むまろい明かりは、幽霊の体温である。今ここにいない、かつてここにあった者たちと手を繋いで生きていくために、切実にこの映画を推薦する。
- 作品情報
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- 『眠る虫』
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2020年9月5日(土)からポレポレ東中野で公開
監督・脚本:金子由里奈
音楽:Tokiyo(And Summer Club)
出演:
松浦りょう
五頭岳夫
水木薫
佐藤結良
松㟢翔平
高橋佳子
渡辺紘文
上映時間:62分
配給:yurinakaneko
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