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※本記事は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の本編に関する記述を含みます。あらかじめご了承下さい。
足掛け四半世紀。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は、『新世紀エヴァンゲリオン』の堂々たる完結編だった。
3月8日。公開初日早朝からの上映回で『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下『シン・エヴァ』)を観た。堂々たる完結だったと思う。新劇場版シリーズが始まってからの約14年も十分に長いが、本作は1995年にテレビ放送された『新世紀エヴァンゲリオン』の真の意味での完結編でもあって、それはじつに約26年に及ぶ。水曜18時30分からのオンエアに夢中になっていた当時の筆者は、碇シンジたちよりも一つ年上の15歳だったが、いまでは41歳のあまり立派とは言えないおじさんだ。四半世紀という長い時間を、一つの作品の変遷と共に併走する経験などもはや起こりえないだろう。その意味でも『シン・エヴァ』は紛れもなく特別な映画だ。
今回、ネットや口伝てで盛んに推測・考察されてきた謎の大半が明らかになる。それらは断片的ではあるが、これまでのシリーズを見ていた者ならば想像力で空白を埋められるはずだ。人類補完計画とは何か。ニアサー(ニア・サードインパクト)による大災厄以降の世界で人々はどのように生きているのか。『Q』で突然いなくなった加持リョウジはどこへ消えたのか。そして何よりも、テレビ版→旧劇場版の世界と、新劇場版の世界は本当にループ構造でつながっているのかという最大の謎。これらは過不足なく明らかになり、そして総監督・庵野秀明にとっての「くり返し」がいかなる意味を持つかもわかるだろう。
「くり返し」の物語。庵野監督自身をも呪縛してきた『エヴァ』
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007年)の公開時、これから再構築されるシリーズについて庵野は「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」なるステートメントを発表した。
「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。
同じ物語からまた違うカタチへ変化していく4つの作品を、楽しんでいただければ幸いです。
『シン・エヴァ』を観終えた後では、彼がこんなにもはっきりと「くり返し=反復」を強調していた理由がよく分かる。
ひとつの例として、シンジが初号機に乗るくだりを挙げよう。父・碇ゲンドウから届いたぶっきらぼうな手紙で第3新東京市に呼び寄せられ、初対面の葛城ミサトら大人たちからも「(初号機に)乗りなさい」と詰め寄られるシンジの扱いの昭和のスパルタ的ひどさに面食らってしまうが、その印象は放送当時もじつは同じだった。放送終了直後の庵野本人のインタビューなど読みどころ満載の『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』(太田出版、1997年)所収の「庵野秀明“欠席裁判”座談会(後編)」で、メインスタッフや同書の編者らはこのように語っている。
竹熊(健太郎):逃げちゃダメだとか、なぜロボットに乗るかという動機づけは、まだ成功しきってないと思うんですね。(略)そこをちょっとアクロバティックにやっちゃったなという感じはありますね。実際には乗るわけないんだから。リアルに考えれば。
貞本(義行):文字づらでは、これは乗らないでしょうと、僕は思いましたけれどもね。
摩砂雪:ダメでしたよね。シナリオ見て、全然ダメだと思って。なんとかなるのかって。
こてんぱんである。これに続いて、富野由悠季の代表作『機動戦士ガンダム』(1979年)の第1話を参照して、主人公のアムロ・レイがガンダムに乗るまでの完璧な流れを「絶対超えられない!」と、庵野が悩み苦しんでいたエピソードが紹介される。このとき正しい答えが見つからないまま、大人たちによる恫喝によってシンジを初号機に無理矢理乗せてしまったことへのリベンジがかたちを変えてくり返され、おおむね失敗してきたのが、エヴァの26年の歴史の大半であったとすら言ってもよいだろう。
その変奏としてのゲンドウとシンジの壊れた父子関係もまた、1997年公開の旧劇場版『まごころを、君に』(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』)では修復の意思を放棄して終わってしまった。そういった物語上の欠落がファンの関心を沸き立たせ、エヴァの商業的成功をますます強固にした面があるのも皮肉だが、いずれにせよファン同様に庵野自身もエヴァの呪いに呪縛され続けてきたのだ。
庵野秀明とシンジは、過去のすべてにケリをつけることができたか?
そして、『序』、『破』(2009年)、『Q』(2012年)と続いてきた新劇場版シリーズにおいても、シンジが初号機に「乗る / 乗らない」を決める意思決定、あるいは他者から強いられる「乗れ / 乗るな」の反駁によって物語を展開させてきたのは同様であった。だからこそ、『シン・エヴァ』のクライマックスでシンジ自身が「乗る」ことを心穏やかに選び、大人たちがその決定を優しく後押しする関係性を描きえたのは、ようやく得られた作品の成熟 、庵野秀明自身の成熟、そして私たち観客自身の成熟と言えるのかもしれない。
もちろん成熟できた箇所もあれば、成熟しきれていない箇所も『シン・エヴァ』にはある。作品後半で明らかになる人類補完計画の遂行と妻・ユイにゲンドウが固執してきた理由。その赤裸々な告白を経ての父子の和解。このプロセスには違和感が残る。
『まごころを、君に』後半の鬼気迫るテンションで描かれたシンジによる自己反省の多くを、ゲンドウに代弁させるかたちで物語という名の電車から下車させる方法が最適解ではないように思うし、一連の補完シーンで頻出する女性の身体をモチーフとする造形は、旧劇場版とのリンクに欠かせない要素とはいえ、CGの意識的な稚拙さと相まってグロテスクに思える。ゴジラの幽霊性(=現実に突如現れた異物の違和感)を表現するための『シン・ゴジラ』でのCGの活用を引き継いだ演出だと筆者は理解したが、『まごころを、君に』の巨大綾波の、観客の神経に直接触れてくるようなヤバさ、美しさには遠く及ばない。
あるいは、この違和感をもってエヴァファンの重度の呪いをデトックスしようとする意思が込められているのかもしれないが、オタクたちを悶絶させ続ける新宿ミラノ座で撮影された実写パートが懐かしい。カメラに向かって客席からイキっていたファンたちも、筆者と同じくもう40代のはずだ。私たちは現実に帰れただろうか?(映像作家のどなたか、当時あの場所にいたファンを探し出すドキュメンタリーを作ってください……)
また、アスカやマリに象徴される戦闘少女たちが戦い何度も痛めつけられるいっぽうで、内省的すぎる男たちは母や恋人の寛容さによって慰撫されるという、何度もくり返されてきた基本構造は『シン・エヴァ』でも大きくは変わらない。過剰に女性は描かれるが、男性の身体は得体の知れない「怪物=使徒」と化したゲンドウのように空虚なまま、十全には描かれず終わってしまった印象である。
意地悪な言い方をしてしまうけれど、「解決しようのない事柄に固執するのをやめにしよう。曖昧にできることは曖昧に、肩代わりできる悩みはみんなで分け合おう」そんなちょっとだけずるい生き方を肯定したのが『シン・エヴァ』の大人な成熟だったのかもしれない。
これまで描かれなかった物語も。過酷な世界で暮らす人々の姿と震災後の私たちがリンクする
いっぽう、これまでの新劇場版シリーズ、とくに『Q』で描かれることのなかった外の世界は『シン・エヴァ』を豊かに彩っている。Aパートで驚くほど丹念に描かれるニアサー以降の世界で暮らす人々の生活がそれで、筆者はこれらのシーンが本作でいちばん好きだ。
災厄をかろうじて生き延びた人々は、第3村と呼ばれるコミューンで農業を主業とした質素ながらも穏やかな日々を送っている。しかし村の外に目を向ければ、狂った物理法則によって壊れた家々や乗り物が宙に浮かび、この日常が破滅の可能性と地続きにあるのだと伝える。モグリの医者として村民の尊敬を集める鈴原トウジは「家族を守るためには、お天道様に顔向けできないようなこともやってきた」と述懐し、『Q』でシンジが唐突に突きつけられた世界の過酷さをすべての人々が等しく経験してきた事実を語る。けれども、洞木(鈴原)ヒカリのこんなセリフもある。
「生きることはつらいことと楽しいことの繰り返し。毎日が今日と同じでいいの」
ここでは人も動物も誰もがたくましく、そして優しい。大きな悲劇を経験してもなお人は日常を取り戻すことができ、しかもそれは人類に対して敵対的な変化すらも包摂して、ゆっくりと反復する世界の循環を快復していけるのだ。第3村での生活はニアサーに続いてフォースインパクトを起こしかけ、失意に沈んだシンジを癒すばかりでなく、『Q』の始まりと共に経験のゼロ地点に立ち戻ってしまったアヤナミレイの人格にも決定的な変化を与える。いかにも漫画的な性急な変化や展開に頼らず、淡々とした時間を積み重ねて、ひたすら「待つ」ことで傷ついた者を見守り、肯定しようとする優しさが嬉しい。これもまた、大人だからできる成熟のかたちだろう。
第3村の描写は、2011年に起きた東日本大震災を経て庵野が見聞きしてきた世界のありようであろうし、もう少し視野を広げれば、コロナ禍のなかで人間同士の移動や接触の機会を絶たれた現在の、さらにその後の世界を予兆するものとして我々の目に映り込んでくる。偶然の一致となったが、『シン・エヴァ』が震災から10年後を迎える3月11日の直前に封切られたのは符号的だ。
反復しつつ前へ。「(NOT)」が副題から消え、見据えられた未来
まさに震災の翌年に公開された『Q』は、長い眠りから目覚めたシンジがわけもわからぬまま過酷な状況に巻き込まれ、そのプレッシャーから逃れるように廃墟となったネルフ本部へと駆け込み、そこで渚カヲルやアヤナミとの限られた関係性にいっときの安らぎを得るがそれも自ら壊してしまうという、かつてのテレビシリーズや旧劇場版を思わせる内に閉じた物語だった。物語を再起動させた『序』、明るく快活だった『破』を経たにもかかわらず、再び庵野がその場所に戻るのを選んだことに筆者は危うさを覚えたものだが、いま思い返してみるとそこには震災の影、震災を経てこれ以上見たくない風景……命の喪失、コミュニケーションの喪失、循環するエコシステムの喪失を見せられることへの私たちの忌避感があったように思う。そういった観客からの反応と自問自答を経ての庵野の回答が、ポスト震災映画と大衆に向けての娯楽映画たらんとすることを強く意識した『シン・ゴジラ』であったのかもしれないと思ったが、それは今後の思考の糧にしておきたい。
いずれにせよ、『Q』と『シン・エヴァ』はどちらも反復を基調としているが、その扱い方は大きく違う。悲しみや喪失の痛みと共に石棺に閉じ込もって反復に耽溺するのが『Q』であったなら、それを受け入れ、なお外に向けて解放しようとする反復が『シン・エヴァ』だ。その意味的転回を支える意思は、例えば第3村のなかで生まれた新しい命、あるいは人類補完計画の意味を変えるために鋳造される新たな槍に含意されているだろう。
反復しつつ前へ。あるいは反復の先の新しい未来へと進むこと。『序』の「YOU ARE (NOT) ALONE」、『破』の「YOU CAN (NOT) ADVANCE」、『Q』の「YOU CAN (NOT) REDO」と、弁証法的な肯定と否定に引き裂かれた副題を冠してきた新劇場版が、『シン・エヴァ』でようやく「THRICE UPON A TIME」として、英題から「(NOT)」を取り除いたことも象徴的だ。
庵野作品の伝統である「最終回タイトルは古典SFから引用」のルールどおり、今回はジェイムズ・P・ホーガンの『未来からのホットライン(原題:THRICE UPON A TIME)』を借用している。同SF小説が扱うのは、パラレルワールドではなく動的に変化する単一の宇宙、過去や未来に起きたことを否定するのではない方法を探る意思によって物語を描くことだった。
クリエイションにも人の営みにも必要な「反復」。庵野秀明が紡いだ『エヴァ』という巨大な反復の終着地
長くなった。個人的な思い入れが深い分、エヴァについて明晰に語るのは難しい。
しかし幸運にも、今後CINRAでは旧劇場版以降の庵野作品を一つずつ論じていく連載のチャンスを与えてもらっている。まずは初の実写作品であった『ラブ&ポップ』(1998年)の撮影技術や、実写制作に挑んだ庵野の心理を論じるところから始めるつもりだが、当時最新鋭であったハンディカムを使ったトリッキーな構図や機動性の高い撮影手法は、その後のさまざまな作品に応用され、とくに『シン・ゴジラ』、そして最新作『シン・エヴァ』へと昇華していくことになる。ここにも、庵野の作家性を支える「反復」が垣間見える。
庵野が総監督を務め、長年の盟友である前田真宏、右腕とも言える鶴巻和哉、そして最初のテレビシリーズから関わってきた中山勝一が監督として脇を固めて盤石の布陣を敷いた『シン・エヴァ』だが、同時に本作は中堅から新人のスタッフを積極的に起用することで、アニメーション制作のための主力を継承・移譲する作品でもあるだろう。映像制作が生業(WORK)である限り、組織と個人に継続のための力を与える反復が希求されるが、そのサイクルは平面的な円環ではなく、立体的な螺旋を描いて上昇するサークルである必要がある。あるいはその円形を少しずつ大きくしながら反復の軌道をずらしていくことが、クリエイションにも人の営みにも必要だ。
3月22日にNHKで放送された密着ドキュメンタリー(「プロフェッショナル 仕事の流儀 スペシャル」)で、シンジ役の声優・緒方恵美からの問いかけに庵野はこう答えている。
さみしいけど卒業。卒業は必ずくるから。
僕のエヴァはこれで終わり。
『シン・エヴァ』はエヴァンゲリオンの、少なくとも庵野秀明が創造してきたエヴァンゲリオンの巨大な反復の終着地だ。しかし、この反復は、新しい意思、新しいかたちを得て、もっと遠くの外に向けて広がり続けていくはずだ。
- 作品情報
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- 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』
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2021年3月8日(月)から全国公開中
総監督:庵野秀明
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