「芸術祭」が前提となっている「ポスト芸術祭」の時代のアートとは?
いま現代アートのシーンでは、若手アーティストによる刺激的な実践が多く見られる。だがそれらは往々にして美術館や芸術祭といった既存のアートシーンより見えづらい。また多くは、美術誌や批評誌は言うに及ばず、カルチャーマガジンや新聞、テレビといったメディアに取り上げられることは稀である。もちろん「若手だから」という事実もあるが、発表の場がオルタナティブスペースやアートコレクティブだったり、告知がSNS上のコミュニケーションをベースにしていたりと、全体像が拡散しているのも理由だ。
この記事では、それぞれが点として偏在している若手アーティストによる刺激的な実践を横断的に眺めていくことで、ひとつの鳥瞰図を描くことを試みる。それはシーンの一端に過ぎないかもしれないが、容易に全貌を見渡せないプレイヤーの分厚さこそがこのジャンルの豊かさでもあるはずだ。
特に筆者が本稿で示したいのは「ポスト芸術祭」の時代のアートだ。ここで言う「ポスト芸術祭」とは、ビエンナーレやトリエンナーレはもちろん、単発のアートフェスから町おこし的なアートイベントまで、日本全国に「芸術祭」が乱立している現在に、「芸術祭」を意識することがアーティストと鑑賞者にとって自明の前提となっている状況のことを指す。つまり、展示する地域の風土や歴史に則ったサイトスペシフィックなアートの作り方や見方が、広く一般化しているのではないかということだ。
その上で、若いアーティストたちは各々勝手に土地と交わっている。たとえばシェアハウスに住んだり、共同でアトリエやスタジオを作ったり、ギャラリーを運営したりしながら、コミュニティーの背景にそれぞれ固有の土地性(トポス)を色濃く刻んでいるのである。
現代版「アルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)」とも捉えられる、この新しいアートシーンのありようは、日本のリアルな現状を映し出す鏡となるかもしれない。凝り固まって疲弊した既存の美術業界やメディアに対し新陳代謝を促す意味でも、ここ最近の開かれた展示や動向を紹介していこう。新たな状況の切断面に触れることができるはずである。
①『恋せよ乙女! パープルーム大学と梅津庸一の構想画』
渋谷区神宮前にあるワタリウム美術館は、私設美術館ゆえ、ナム・ジュン・パイクや坂本龍一といったメジャーなアーティストの個展から、若手アーティストを起用したかなり実験的な展示まで幅広く開催している。そのワタリウム美術館でこの6月に開催されたのが、画家・梅津庸一の主催するコミュニティー「パープルーム」による大規模な展示だ。
美術の共同体「パープルーム」は、神奈川県は相模原にあるアトリエと居住空間が渾然一体となった私塾「パープルーム予備校」を活動拠点としている。ひとことで説明するのが難しいが、SNSを媒介として梅津のもとに集った若者たちの集住と活動――これは2000年代後半から起こったシェアハウスブームの延長線上に位置している。若手作家が集まって住み「スタジオ」を構え、なんならそこで「展覧会」まで開いてしまうという完全にオルタナティブな動向は、昨今の既成の美術シーンとアンダーグラウンドの美術シーン間の乖離を象徴しているようだ。
今回の展示はワタリウム美術館を「パープルーム大学」と読み替え、出展作家たちが実際に会場で生活しながら(!)、無数のトークやレクチャー、イベントを催すというものだ。展示形態の軸となるテーマは「構想画」である。「構想画」とは明治の洋画家・黒田清輝による思想的な構想を備えた絵画を指すが、梅津らパームルームはその近代日本美術史を再帰的に生き直し、現代の「構想画」を描きだそうとする。
とはいえ、展示自体は文化祭のような祝祭性を持っている。玉石混淆と言おうか、ゲストも交えた20名以上の作家による混沌とした空間が面白い。ごちゃごちゃと混濁した場に展示されている多くの絵は、繊細な線や色彩を有しており、滅茶苦茶なのに統一感のある彼らのコミュニティーの隠喩のように見えてくる。そしてこの「構想」はまた、日本という「悪い場所」(美術評論家・椹木野衣が著書『日本・現代・美術』のなかで歴史がない戦後日本を言い表した言葉)において芸術や絵画が捻れた形でしか表現できない問題を表しているようにも見える。
②カオス*ラウンジ主催『ISETAN ニューアーティスト・ディスプレイ』
伊勢丹新宿本店にある9つの「アートフレーム」内に15組の若手アーティストたちが作品を展開した『ISETAN ニューアーティスト・ディスプレイ』は、カオス*ラウンジが主催する。カオス*ラウンジは、ネットの集団性を用いてキャリアをスタートさせたグループだが、五反田のゲンロンカフェでの『新芸術校』やアトリエでの展覧会を企画・運営し、オルタナティブなシーンの一翼を担っている。今回の出展者たちは、その『新芸術校』の卒業生が中心となっていた。
中央本線画廊『PostTown Bricolage』 photo by Yuta Akiyama
そのなかでも特に注意を引いたのが、西荻窪の展示スペースを根城とする「中央本線画廊」が手掛けたフレーム『PostTown Bricolage』だ。新宿という都市を、ルーツである江戸時代の宿場町(ポストタウン)へと一度還元した上で、地質学的な地図作品から、都市の力学的な形態を描いた絵画、廃材からなるオブジェ、都市イメージの表層を過剰化したコラージュ、アニメキャラクターの描かれたコンクリートモルタルまでがブリコラージュされている。新宿を歴史的に掘り下げることによって、伊勢丹デパートという空間を異化していた。
アートが場に規定されるサイトスペシフィックなものであるという制度に自覚的に介入し、新たな場の風景を描き出そうする試みは、まさに「ポスト芸術祭」と言えるものだろう。震災以降決定的になったように、たとえば「福島」や、そこから逆照射される「東京」、あるいは政治的緊張を有する「沖縄」といった場とどう向き合うかという問題設定は、いまのシーンの底流を作っているといっても過言ではない。
『PostTown Bricolage』が面白いのは、『ISETAN ニューアーティスト・ディスプレイ』の第二部として、西荻窪の「中央本線画廊」に作品がスピンアウトして展示された点である。想像的にも物理的にもフレームからはみ出し、観客を別の場へと連れ出す営みは、オルタナティブなシーンのDIY精神に則っている。
③小林健太個展『自動車昆虫論 / 美とはなにか』
恵比寿NADiff a/p/a/r/tにあるG/P Galleryは純然たるコマーシャルギャラリーだが、小林健太が若手アートシーンを代表する写真家のひとりであることに相違はない。『自動車昆虫論 / 美とはなにか』は彼の最新の個展である。
小林健太『自動車昆虫論 / 美とはなにか』(G/P Gallery) photo by Kenta Cobayashi
小林は初個展『#photo』(2016年 G/P Gallery)に見られたように、日常の風景や友人を撮影した画像に筆跡に似た画像加工を施した上で、写真や映像に落とし込んできた。その表現は基本的にメディアアートのイメージを伴うものであったが、本展ではそれが徐々に変容しつつある。キーとなるのは展示タイトルにもある『自動車昆虫』だ。
『自動車昆虫』とは要するに、生命体のようにわがもの顔で人間の生きる地上を跋扈する昆虫じみた自動車のことである。複雑な彼のメッセージを敢えて要約すれば、『自動車昆虫』によって街路から締め出されてしまった人間の、本来の自然な生への希求だ。人が土を踏みしめて堂々と道路の真ん中を歩くことを取り戻そうとしている、と言ってもいい。
素朴なプリミティビズムのようにも捉えられるが、睨みをきかすように壁面に居並ぶ『自動車昆虫』の写真群や、ギャラリー中央に土を焼いてタイル状に敷かれたインスタレーションは、充分な説得力を備えている。
小林健太『自動車昆虫論 / 美とはなにか』(G/P Gallery) photo by Kenta Cobayashi
小林健太『自動車昆虫論 / 美とはなにか』(G/P Gallery) photo by Kenta Cobayashi
もちろん従来の作風の写真や映像のシリーズも精度を増している。なによりダ・ヴィンチの人体図やラスコー壁画などが幾何学的に散りばめられ、宇宙的なスケールを持ったグラフィックが良い。小林健太の「いま・ここ」の場を作り替える意思は他のプレイヤーたちと繋がっている。
④批評誌『アーギュメンツ』第2号
『アーギュメンツ』は展覧会ではなく批評誌である。渋谷のシェアハウス・渋家(シブハウス)の創設者でもある齋藤恵汰が創刊したこの同人誌は、第2号を映像批評家の黒嵜想が編み上げた。美術論からビジュアル系バンド分析まで、幅広く若い書き手たちに批評の場を与える本誌の最大の特徴は、そのコンセプチュアルな販売方法だ。書店やウェブ上での販売は一切行わず、「手売り」でしか売らないのである。
もちろん、これは単純な時代の流れの逆行とは異なる。興味深いのは、日々ところどころに偏在する編者や書き手たちが、SNSを徹底的に活用することによって居場所を発信し、タイムラインを頼りに訪れた購入希望者と「リアル」に面会するという、その逆説にある。インターネットと現実空間を行き来することによって、書き手から読み手まで、批評のコミュニティーの再設定と拡張を企てているのだ。
表現と批評はコインの裏表だ。アートは当然のように批評を必要としている。しかし、際限なく拡大する激情的な言葉に埋もれ、大文字の批評の存在感は低下しつつある。そんな中、ウェブとリアルを横断する批評同人でムーブメントを起こした『アーギュメンツ』は要注目だ。
⑤関優花+ノロアキヒト+田中亜梨紗展覧会『知恵ヲcray』
最後に紹介するのは、高円寺の雑居ビルの一室「ナオナカムラ」で開かれた『知恵ヲcray』展だ。もともとアーティストグループChim↑Pomのリーダー・卯城竜太のもとから生まれた『天才ハイスクール』と共に立ち上がり、2011年から定期的に企画展を開催する「ナオナカムラ」は、最も活きのいい若手の個展やグループショーを中心に展開してきた。2010年代を代表するオルタナティブスペースのひとつだろう。
美学校の講座『外道ノスゝメ』の修了生の3名による本展は、タイトルからも自明なように、アウトサイダーアートを想起させる。事実、身体障害者の動きを模した田中亜梨紗のコンテンポラリーダンスじみた映像や、鬱病とそれによる薬漬けだというノロアキヒトが新宿歌舞伎町の路上で眠り続ける記録映像は、共にバッドテイストなエッジが効いていた。
特に印象的だったのは二十歳の女性アーティスト・関優花の『≒』だろう。ギャラリー中央に置かれたふたつの体重計の、片方には彼女自身、もう片方には円筒状に積み上げられた100kgのチョコレートの塊を乗せ、5日間の会期中、自身の体重とチョコ塊の重量が同じになるまで「舐め削ぎ続ける」というパフォーマンス(!)だ。
展示室内に入ると充満した甘い刺激臭が鼻をつく。そしてスポーツシャツ姿で体重計に乗った関が、さながら接吻するかのようにチョコの塊と格闘し続けているのだ。ここには一見メチャクチャで馬鹿馬鹿しい実践が、むしろ美しくすら見えるような、ある種の聖性を帯びて立ち昇ってくる、現代アートの醍醐味が宿っていた。このような痛快さこそ、若手アートシーンの象徴だろう。
これらの実践からどういった未来のビジョンを描けるのか?
ここ1、2か月をざっと概観するだけでも、上記5つの最新動向には、集住とコミュニティー、都市と地方、交通と街路、ネット空間と現実空間、オルタナティブスペースと身体的介入といった、種々の土地性が刻印されていた。これらを「ポスト芸術祭」として一括りにすることは乱暴過ぎるかもしれないが、オルタナティブなアートシーンの傾向に対するひとつの視座にはなるだろう。
サイトスペシフィックな土地性に反発し、あるいは関係なく、普遍性を志しているアーティストもまた多数いることは言うまでもない。問題は、これらの実践からどういった未来のビジョンを描けるのかということだろう。
とはいえ、若いアーティストたちが各地で規則に縛られずに場を使い、コンテクストを組み替えていることは非常に興味深い。国家や資本によって場が占有されつつあるなかで、美術館の内部だけではなく、自由な空間が多様に拡張していけば、現代の息苦しさも多少なりとも解消されよう。
もちろん、これは現代オルタナティブアートシーンの一部に過ぎない。ウェブメディアやSNS、あるいは雑誌やDMを手掛かりに様々な会場へ足を運んでみれば、あなたを未体験の時空へと連れ出してくれるだろう。
- イベント情報
-
- 『恋せよ乙女! パープルーム大学と梅津庸一の構想画』
-
2017年6月1日(木)~6月18日(日)
会場:東京都 神宮前 ワタリウム美術館
- 『ISETAN ニューアーティスト・ディスプレイ』
-
2017年5月31日(水)~6月6日(火)
会場:東京都 新宿 伊勢丹新宿店本館 5階
- 小林健太『自動車昆虫論 / 美とはなにか』
-
2017年6月3日(土)~8月12日(土)
会場:東京都 恵比寿 G/P gallery
- 関優花+ノロアキヒト+田中亜梨紗『知恵ヲcray』
-
2017年6月17日(土)~6月21日(水)
会場:東京都 高円寺 ナオナカムラ
- 書籍情報
-
- 批評誌『アーギュメンツ#2』
- フィードバック 2
-
新たな発見や感動を得ることはできましたか?
-