※本記事は『花束みたいな恋をした』の内容に関する記述が含まれています。あらかじめご了承下さい。
『最高の離婚』『いつ恋』『カルテット』……視聴者の心に深く刺さる、坂元裕二ドラマの言葉の数々
かねてより大きな注目と期待を集めてきた映画『花束みたいな恋をした』が、いよいよ公開される。注目と期待を集めているのは他でもない。本作が、菅田将暉と有村架純という当代きっての若手俳優によるラブストーリーだからなのはもちろん、それが人気脚本家・坂元裕二による、書き下ろしのオリジナル作品であるからだ。『東京ラブストーリー』(1991)でその名が知られるようになって以降、『Mother』(2010)、『最高の離婚』(2013)、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(以下『いつ恋』、2016)、『カルテット』(2017)、『anone』(2018)など、数々の名作ドラマの脚本を手掛けてきた坂元裕二が、映画でオリジナルのラブストーリーを描くのは今回が初。監督は、『カルテット』のチーフプロデューサーも務めた演出家・土井裕泰(監督作として『映画 ビリギャル』『罪の声』などの映画作品もある)が担当している。これが期待せずにいられようか。
坂元作品の大きな特徴であり魅力と言えば、やはり劇中に登場する数々の名台詞にあるのだろう。「人は、手に入ったものじゃなくて、手に入らなかったものでできてるんだもんね」(『anone』)、「泣きながらご飯食べたことある人は、生きていけます」(『カルテット』)、「私は新しいペンを買ったその日から、それが書けなくなってしまうことを想像してしまう人間です」、「恋人には2種類あるんだよ。好きで付き合ってる人たちと、別れ方がわかんなくて付き合ってる人たち」(『いつ恋』)、「女は好きになると許す。男は好きになると許さなくなる」(『最高の離婚』)など、ある種「箴言」のような響きをもって、視聴者の心の奥底に深々と刺さってくる言葉の数々。けれども、「20代前半」という坂元作品ではかなり若い主人公であること、その2人の関係に焦点を絞った話であることも関係しているのだろう、本作『花束みたいな恋をした』は、彼がこれまで手掛けてきた連続ドラマとは、少々趣きの異なる作品になっているのだった。
連ドラと映画の違い。脚本は、主人公2人の5年分の日記を書き上げてから作られた
「ラブストーリーがやりたいんですよ」という、ふとした機会に菅田が坂元にこぼしたひと言がキャスティングのきっかけになったという本作。しかし坂元は、そもそも映画の脚本を書くことに、これまであまり乗り気ではなかったそうだ。
各話ごとに「答え」ではなく「問題」を出し続ける連続ドラマと違って、「映画は2時間後に必ず結論がやってくるじゃないですか。それが嫌なんです」(本作プレス資料インタビューより)。結論に向かって進んでいく物語は、書いていて楽しくないというのだ。そこで彼が試してみたのが、主人公2人の5年分の日記を書くことだったという。菅田が演じる「山音麦」と有村が演じる「八谷絹」、それぞれの5年分の日記。結果的に、それをもとに脚本を書き始めることになった理由を、彼は同インタビューで次のように語っている。「魅力的な登場人物がいて、時間さえ前に進んでいれば、お話がなくても面白くなるし、あらすじを消化するものにはならないと思ったんです」。何か特別な「過去」があるわけでも、特殊な「能力」があるわけでもない。ごく「普通」の大学生が、偶然出会って、他愛ない話を延々としながら惹かれ合い、交際、同棲し……やがて別々の道を歩むことを決めるまでの5年間。それが本作『花束みたいな恋をした』の物語なのだ。
その母体となる「日記」をよりリアルなものにするため、彼は実在する人物を徹底的に観察したという。「あまりよく知らない人のインスタと、友だちの友だちに関する又聞き、ほぼその2名ですね」。そして、その「観察」をもとに5年間の固有名詞を徹底的に洗い出し、詳細な「年表」を作成して脚本に反映した。結果的に、この映画には、これまでの坂元作品とは打って変わって……否、昨今の日本映画を見渡しても他に例を見ないほど、おびただしい数の固有名詞が、その台詞の中に登場することになるのだった。
きのこ帝国、今村夏子、『ゴールデンカムイ』など作中に登場する大量の固有名詞が果たす役割。2人の「距離」を物語る
固有名詞が登場するのは台詞の中だけではない。まだ出会ってなかった頃の2人が、それぞれ別の理由で行きそびれた天竺鼠のライブにはじまり、たまたま入った深夜カフェで遭遇した押井守(本人)、2人が偶然お揃いで履いていたコンバースのジャックパーセル、2人が初めて出会った日にカラオケで歌うきのこ帝国の“クロノスタシス”、2人でイヤホンを分け合って聴いたAwesome City Clubの“Lesson”、2人が最後にカラオケで歌うフレンズの“NIGHT TOWN”、さらには今村夏子の『ピクニック』、市川春子の『宝石の国』、野田サトルの『ゴールデンカムイ』、滝口悠生の『茄子の輝き』などの小説や漫画、あるいはアキ・カウリスマキ監督の映画『希望のかなた』など、台詞に登場するだけではなく、さまざまな「カルチャー」が、その背景として、映画の至るところに登場するのだ。というか、それら「知る人ぞ知る」カルチャーを愛する者同士として、「麦」と「絹」は意気投合し、その「偶然」をそれぞれの「必然」へと変えながら……やがて恋に落ちるのだ。
その理由について、坂元はこんなふうに語っている。「人って日常会話では大体固有名詞についての話をしていて、抽象的な話とかドラマ的な議論はしないですよね」(前述インタビューより)。なるほど。それは多くの人にとって(とりわけCINRA.NETの読者にとって)、どこか身に覚えのあるような光景なのかもしれない。映画なり音楽なり小説なり漫画なりを通じて、互いの距離を縮めていくこと。カルチャーを選び取る「センス」は、その人の「感性」であり、果ては「人格」そのものなのだ。少なくとも、若い頃はそう思っていた。「じゃあ、あれは見た / 聴いた / 読んだ?」――映画や小説のタイトルを次々と挙げながら、その感想を時間が過ぎるのも忘れて、いつまでも語り合うこと。それは、見ているこちらが少し気恥ずかしくなるほど「リアル」であり……それと同時に、たまらなく「愛しい」時間でもあるのだ。
しかし、この映画はそれだけに終わらない。この映画は、いわゆる「ボーイ・ミーツ・ガール」の話であると同時に、大学生である2人の男女が、やがて社会へと出ていく話でもあるのだ。多摩川沿いの見晴らしの良い部屋で同棲を始めた「麦」と「絹」は、大学を卒業したあと、気ままなフリーター生活を選び取る(麦には、イラストレーターになるという夢があった)。しかし、そんな2人の生活は安定せず、彼らは遅まきながら就職活動を始め、それぞれの場所で働き始めることになる。日々の仕事に忙殺されながら、少しずつすれ違っていく2人。そう、2人を結び付けた「カルチャー」が、今度は逆に2人の「距離」を、残酷なまでに物語っていくのだ。
かつて、あれほど2人で熱く語り合った漫画や小説に、「麦」は以前ほどには盛り上がれない。2人で買ったニンテンドースイッチの『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』もプレイするのはもっぱら「絹」ばかり。毎日の仕事に疲れ果てた「麦」は、スマホをいじりながら「『パズドラ』やるのが精いっぱいだよ」という台詞まで吐く。それもまた、非常に「リアル」なのかもしれない。同じものを見て、同じように感じ合っていた2人は、もうそこにはいないのだ。それどころか、それぞれが見ている「現在」、さらには「未来」までもが、どこか違ってきているのかもしれない。しかし、だからと言って、あのキラキラとした「過去」は、変わるものなのだろうか。
現実世界と地続きの場所に生きていたかもしれない麦と絹。奇しくもパンデミック前の日常の「記録」のような作品に
「記録」と「記憶」、そこから溢れ出る「エモーション」――というのは、優れたドキュメンタリー映画が描き出す、最良のものである。「泣ける」とか「笑える」といった「エモーション」が先行するのではなく、「記録」と「記憶」を積み上げていくことによって、そこにいる人々の「エモーション」を、見る者の心に静かに感じ取らせること。それは、同じ経験を持つ者としての「共感」というよりも、むしろ「共振」と呼ぶべきものなのだろう。「シンパシー」ではなく「エンパシー」。それをもたらせるドキュメンタリー映画は、間違いなく傑作と言える。
不思議なことに、それと同じような感覚を、ドキュメンタリーではなく、あくまでもフィクション(なんと言っても、主演は菅田将暉と有村架純なのだ)であるはずの『花束みたいな恋をした』に、自分は感じてしまったのだ。「時代」と呼ぶにはあまりにも近い、2015年から2020年までのあいだに存在した(そして、その多くはいまも存在し続けている)さまざまな「カルチャー」が、その背景に刻み込まれているからだろうか。否、それだけではないだろう。菅田将暉と有村架純は「特殊」な世界に生きる存在だけれども、2人が演じた「麦」と「絹」は、あくまでも「普通」――私たちが生きてきたこの「世界」と地続きの場所に生きていたかもしれない、とても近しい平凡な存在なのだ。そこに激しく「共振」してしまうのは、きっと自分だけはないだろう。ドラマ『カルテット』の中で高橋一生演じる「家森」が力説した「からあげとレモン」の話ではないけれど、「時間」は、誰にとっても「不可逆」なものである。けれども、そこに「記録」と「記憶」がある限り、「エモーション」は、いつだってとめどなく溢れ出すものなのだ。
さらに、もうひとつ言うならば、この映画の物語は、2020年の春先で幕を閉じる。それは、恐らく作り手や出演者の側も、当初まったく予想していなかったことだろう。本作の撮影後、坂元は「あのパン屋のご夫婦、トイレットペーパー買えたかな」という「絹」のモノローグを、新たに書き加えたという。実際、トイレットペーパーが品薄になるという不可解な騒動が起こったのは、最初の緊急事態宣言が出る前の3月頃の話だったか。そう、この物語は、別の「世界線」の話などではなく、私たちが生きる「いま / ここ」へと、まっすぐに繋がっている物語なのだ。奇しくもパンデミックによって激変する、まさにその直前の5年間の日々の物語。当たり前のように流れてゆく、そんな日常こそが、今となっては何よりも愛しく、そして切なく思える。そして、そのとき2人の存在は、私たちが実際に知っている「あの人」と同じような強度で、心の中に立ち現れてくるのだった。「麦」と「絹」は、いまごろどこで何をしているのだろう。あの恋を思い出して、きっと泣いてしまうのだろうか。それとも笑うのだろうか。これまでの連続ドラマとは手触りが異なるけれど、冒頭にいくつか抜き書きした台詞のように、これまで彼が書いてきたさまざまな言葉が、やがて通奏低音のように響いてくるような……坂元裕二の新たなる傑作の誕生だ。
- 作品情報
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- 『花束みたいな恋をした』
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2021年1月29日(金)からTOHOシネマズ日比谷ほか全国で公開
監督:土井裕泰
脚本:坂元裕二
音楽:大友良英
出演:
菅田将暉
有村架純
清原果耶
細田佳央太
韓英恵
中崎敏
小久保寿人
瀧内公美
森優作
古川琴音
篠原悠伸
八木アリサ
押井守
Awesome City Club PORIN
佐藤寛太
岡部たかし
オダギリジョー
戸田恵子
岩松了
小林薫
配給:東京テアトル、リトルモア
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