美しい写真の裏に隠された白人とネイティブアメリカンの黒歴史

19世紀後半から20世紀前半にかけて活動した写真家、エドワード・S・カーティス。彼がその人生の大半をかけて追い求めた被写体は、ネイティブアメリカンと呼ばれるアメリカ先住民たちだ。ナヴァホ族、ズニ族など、アメリカ中西部からアラスカまでの80以上の部族を訪ねて回り、失われつつあったネイティブアメリカン社会の様子と、そこで生きる先住民たちの姿をカーティスは写真にとらえた。東京ミッドタウンにあるFUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館で開催中の『エドワード・S・カーティス作品展 アメリカ先住民の肖像』では、そんなカーティス自身が制作した貴重なヴィンテージプリントの数々を目にすることができる。

カーティスが撮影を始めた1900年前後は、白人に対する根深い不信、強い怒りを先住民たちがはっきりと共有していた時代だ。そのような状況下で、白人であるカーティスが彼らの社会に触れることの困難は想像に難くない。しかし、写真の中の先住民たちは、私たちの魂の奥底まで見通すような曇りない瞳をカメラに向け、悠然と佇んでいる。そんな先住民たちの表情を、なぜカーティスは引き出すことができたのだろうか。本展監修を務めた山地裕子さん(清里フォトアートミュージアム主任学芸員)に話を伺いながら、カーティスの実像に迫った。

[メイン画像]エドワード・S・カーティス『バッドランズのオアシス』

矛盾に満ちた白人社会とネイティブアメリカンを取り巻く状況の中で受容されたカーティスの写真

エドワード・S・カーティスは1868年にアメリカ中西部のウィスコンシン州に生まれた。シアトルで写真技術を学び、風景写真や富裕層のポートレートをスタジオ撮影する営業写真館を経営して、大きな成功を収めていたという。しかし、彼は勝ち組経営者としてのキャリアをあっさり捨てる。というのも、中西部からシアトルに移住する際に目にしたネイティブアメリカン居住区の衝撃を忘れることができなかったからだ。

『タブリタのダンスを踊る女性 サン・イルデフォンソ族』
『タブリタのダンスを踊る女性 サン・イルデフォンソ族』

15世紀末、コロンブスの新大陸発見以来、ヨーロッパから移住してきた白人とアメリカ先住民は大小の衝突を繰り返してきたが、1830年に「インディアン移住法」が可決されてからの約100年間は、先住民たちにとって真に苦難の時代だった。大陸南部を中心とした故郷の大地を奪われ、西部への強制移住を余儀なくされた。その道程で各部族は分裂し、多くの血が流れた。

『アコマ族の古い泉にて』
『アコマ族の古い泉にて』

カーティスがはじめてネイティブアメリカン居住区を目にしたのは、先住民による激しい抵抗運動は収束していた頃だが、豊かな自然とともに生きる先住民の文化は、近代化の影響を受けて徐々に失われつつあった。19世紀を通じて多くのアメリカ先住民を迫害・殺戮した白人社会は、20世紀前半において今度は彼らの文化や伝統を消失させようとしていたのである。

展示風景
展示風景

カーティスが受けた衝撃とは、自然の恩恵を忘却することで拡大していく近代社会への怒りや憤りだったかもしれない。だが、アメリカ先住民たちの文化を写真に残さなければならないという使命感を覚えると同時に、写真家の性(さが)として、失われゆくものだけが持つ特別な美に惹かれたというのも、偽らざる真実だろう。それは、約100年を経ても色褪せることのないカーティスの作品群を見れば、即座に感じ取ることができるはずだ。カーティス、そして当時の白人社会の矛盾に充ちた状況について、今展覧会を監修した山地さんはこのように語ってくれた。

山地:アメリカ先住民に対してアンビバレントな感情を持っていたのは、カーティスだけではなかったと思います。当時のセオドア・ルーズベルト大統領はカーティスの作品を見て深く感動し、銀行家のJ・P・モルガンを彼に紹介しています。アメリカ上流階級に属する彼らは、自身らの繁栄が先住民の土地を奪った歴史によって始まっていることを知っており、アメリカ先住民排斥に対する罪の意識を持っていたはずです。カーティスの写真がとらえたネイティブアメリカン文化の美しさに魅了されると同時に、彼の制作活動を経済的に支援することで、自分たちの贖罪を願っていたのかもしれません。


ネイティブアメリカンとの深い信頼関係、協同作業によって制作された作品の数々

アメリカ上流階級からの知遇を得たカーティスは、1900年から本格的にネイティブアメリカンを撮影する作品の制作をスタートする。南西部を皮切りに、平原、北西海岸の部族を次々と写真に収めていった。

山地:カーティスは、写真技術だけでなく交渉術にも長けていました。例えば各部族の酋長に撮影を依頼する際も、自分がリサーチしてきた他の部族の知識を語ることで信頼を得ていたようです。時にはあえて間違った知識を語り、相手にそのミスを指摘させることで、会話の糸口を掴んだりしていたといいます。とても話し上手な人だったようですね。

『ズニ族のキアキマッシ、ワイフシワ』
『ズニ族のキアキマッシ、ワイフシワ』

そのようにしてネイティブアメリカン社会に溶け込んでいったカーティスは、他の写真家では撮影することのできない貴重な被写体やシーンを次々とものにしていった。森の川沿いに半裸でたたずむ先住民の少女をとらえた『夢見る乙女』では、絵画のように見事な構図だけでなく、肌をさらすことを許した少女や部族のカーティスに対する信頼の厚さに驚かされる。

『夢見る乙女』
『夢見る乙女』

『バッドランズのオアシス』も、先住民とカーティスの間に育まれた信頼を証明づける1枚だろう。同作は、広大な草原の中で華麗な羽飾りを纏った男性が白馬にまたがる姿を撮影している。男性は馬上から遥か彼方の風景へと目をやり、白馬は頭を下げて水を呑んでいる。神話のワンシーンのような決定的瞬間。完成された美しい構図に、カーティスの写真家としての希有な資質を感じる。しかしこれはそんな奇跡の一瞬をカーティスがとらえたものではありえないと山地さんはいう。

『バッドランズのオアシス』
『バッドランズのオアシス』

というのは、1900年代初頭には、その後一眼レフやレンジファインダーと呼ばれるようになる小型の銀塩カメラはまだ発明されていなかった。世界最初の小型カメラ、ライカが発売されたのは1925年である。当時の写真家たちは巨大な木製の大判カメラ、それを支える重い三脚、現在のフィルムに相当する何十枚ものガラス乾板の一式を装備し、何人ものスタッフを率いて撮影旅行に赴いていたのだ。1カット撮影するたびにガラス乾板を交換するのも大仕事、露光時間に数十秒から数分かかることもざらだった。

山地:スナップショットのように「偶然の一瞬」をとらえることが不可能な時代ですから、カーティスはあらかじめ場所と構図を選んでカメラを据えたはずです。『バッドランズのオアシス』では渇きを潤すために馬が水を呑んでいる姿が印象的ですが、そのシーンを撮影するためにカーティスは、馬が自然に水を欲するよう、あらかじめ近くを走らせていたのではないでしょうか。伝統衣装を着た男性の姿も含め、カーティスの美意識が行き渡った1枚と言えるでしょう。このような複雑な手順を踏んだ撮影には、先住民たちの協力と理解が不可欠でした。自らの文化の記録を後世に残したいという思いが先住民たち側にもあったとはいえ、ここまでカーティスに心を開いていたことに驚かされます。

山地裕子(清里フォトアートミュージアム主任学芸員)
山地裕子(清里フォトアートミュージアム主任学芸員)

資金調達に奔走していた白人社会におけるカーティスの姿

当時のカーティスは1年間の3分の2を撮影旅行に充てていたという。では、残りの時間をどのように過ごしたのだろうか。

山地:次の撮影のための資金調達です。政府からの援助があったとはいえ、多くのスタッフを連れての長期間撮影には、機材代を含めて莫大な費用が必要でした。ニューヨークの高級ホテルで開催される販売会に出展し、富裕層に対してプリントを販売していたのです。そこで得た資金を元手にして次の撮影の計画を立てる。アメリカ先住民の撮影に取り組んだ約30年の間、カーティスは先住民の居住地と大都市を行き来する生活を続けました。

ここでカーティスの写真技法について説明しておきたい。彼が手がけた技法は多岐にわたるが、特に注視すべきなのが「オロトーン技法」と呼ばれるものだろう。オロトーンとは、ポジフィルムの代用品としてガラス板を用いる技法で、ガラス面に塗布したブロンズ粉に被写体の像を定着させ、その裏からバナナ油で彩色を施すもの。美しい金色の質感と高いシャープネスが特徴だが、とても壊れやすいため、作品保護のために特注された額と一体化して販売されることが多く、非常に手間のかかる技法とされていた。しかし、カーティスが独自に改良を施したオロトーン技法は透明性と安定性に優れ、「カート・トーン」と呼ばれ人気を博していたという。

アクリルケースと額装で保護されたオロトーン作品
アクリルケースと額装で保護されたオロトーン作品

金色で被写体をプリントするという点で、19世紀末に日本で発明され、アメリカの見本市でも紹介された「蒔絵写真」の影響を受けているのではないかという説もあるが、真偽は定かではない。凝った額ぶちも含め、きわめて高い工芸性を誇ったオロトーンは、アメリカ国内の富裕層に愛好されていた。また同時期に流行したデザイン運動「アーツ・アンド・クラフツ」運動もオロトーンの受容を後押ししたといわれている。

アメリカ人の精神的ルーツとして利用された、ネイティブアメリカンたち

アーツ・アンド・クラフツは、イギリスの思想家であるウィリアム・モリスが19世紀末に主導したデザイン運動で、産業革命以降の大量生産社会に対し、あらためて手仕事に注目すべきだと主張するものだった。日本で柳宗悦(やなぎ むねよし)らが展開した「民藝」にも影響を与えた同運動は、植物などのモチーフを装飾に多用し、当時の白人富裕層に広がりつつあった自然回帰的な思想にうまく適合した。アメリカ先住民たちの自然的で素朴な生活をとらえたカーティスのオロトーン作品も、そのような背景の中でアメリカの白人たちに迎えられたのだ。

『ブラック・イーグル アシニボイン族』
『ブラック・イーグル アシニボイン族』

アメリカの白人たちのルーツはもちろんヨーロッパにあったが、イギリスの植民地という立場からいかにして独立するのかはアメリカにとって大きな課題だった。18世後半のアメリカ独立戦争で実際的な独立は獲得できたものの、「アメリカ人」としての精神的な独立を勝ち取るためには、ヨーロッパとは異なるルーツが必要だった。そのために利用されたのが、アメリカ先住民の文化だったのだ。

山地:自然に近い存在としての先住民を、アメリカのルーツとしてとらえる。アーツ・アンド・クラフツでは自然のモチーフを用いて文明と自然の共生が謳われたわけですが、オロトーンなどの写真作品では、ネイティブアメリカン自体が自然を示す存在として援用されたのです。

『朝のおしゃべり アコマ族』
『朝のおしゃべり アコマ族』

一筋縄ではいかないカーティスの人物像と秘められた情熱

これまで見てきた1900年前後のアメリカの社会状況と照応させていくと、カーティスを巡る状況は複雑な様相を呈してくる。白人富裕層のニーズに応じて、巧みなセットアップを施してアメリカ先住民たちを撮影した写真家とも読み取ることができるからだ。事実、カーティス作品の搾取的な性質はこれまでにも批判されており、生前には、富裕層にうまく取り入る「宮廷写真家」と揶揄されることも多かったそうだ。はたしてカーティスの真意はどこにあったのだろうか。

山地:難しいところですが、個人的には「本当の写真を撮りたい」という情熱に突き動かされた人だったと感じています。成功収めていた営業写真館の仕事を断ち切って、先住民の撮影に専念するようになってからのカーティスの人生は本当に質素でストイックなものです。複数のスタッフを従えて砂漠や荒野を転々とする撮影旅行は本当に過酷でしたし、そんな状況の中で離婚した妻には、それまで撮影した写真を持ち逃げされているんです。それでも彼はあきらめなかった。カーティスは、生前に『北米インディアン(The North American Indian)』という全20冊の大著を残しました。先住民を記録した約1,500点の写真とテキストはすべて彼の手によるもので、その多くが全米の美術館・博物館に収められています。お金儲けが理由なのだとしたら、もっと展覧会を開催して、オロトーンやプラチナプリントを積極的に販売すればよかった。しかし、カーティスは個人的な成功よりも、アメリカ先住民たちの文化を歴史に残すことを選んだのです。

『シワワチワ ズニ族』
『シワワチワ ズニ族』

1人の人間が約30年という長い時間を費やして、1つだけの仕事に取り組む情熱はいかばかりのものだろうか。あまり知られていないことだが、カーティスは写真だけでなく、音の記録も残している。エジソンが発明した蝋管再生機(フォノグラフ)で再生することのできる蝋管(ワックスシリンダー)に、先住民たちの肉声や歌を記録していたのだ。そのすべてが現存しているわけではないが、当時残された蝋管の数は1万本を超えていたという。

山地:カーティスが文化人類学を勉強したという記録は残っていませんから、これらは研究を目的としていたわけでもないでしょう。つまり、ただネイティブアメリカンへの純粋な好奇心と情熱に突き動かされて、その社会に、そして一人ひとりと向き合っていたのではないでしょうか。だからこそ、彼の写真は1世紀を過ぎた今でも輝きを失わないのだと思います。

『サンタ・クララ族の男』
『サンタ・クララ族の男』

現在、カーティスが残した写真は約100年前のネイティブアメリカン社会を知るための貴重なアーカイブ資料として広く認知され、関連する書籍の表紙を飾る機会も多い。ある意味で、ネイティブアメリカンのパブリックイメージは、カーティスの写真によってかたち作られてきたともいえるだろう。一方でカーティスの作品を、その背景にある近現代アメリカの複雑な社会事情やさまざまな思惑を抜きにして受容することには躊躇がともなうかもしれない。しかし、一見矛盾を含んだようなカーティスの人物像や作品背景は、今の日本に生きる私たち自身の複雑な状況とも実はそれほど変わらないともいえないだろうか。そして、今私たちがビンテージプリントを通してネイティブアメリカン文化の一端に触れることができるのは、いかなる手を尽くしてでも彼らの姿を後世に残そうと奮闘したカーティスの情熱があってこそだったのだ。


イベント情報
エドワード・S・カーティス作品展
『アメリカ先住民の肖像』

2013年3月1日(金)〜5月31日(金)
会場:東京都 六本木 東京ミッドタウン内 FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館
時間:10:00〜19:00(入館は18:50まで)
休館日:なし
料金:無料

ギャラリートーク
2013年4月21日(日)13:00〜、15:00〜(各回30分程度)
会場:東京都 六本木 東京ミッドタウン内 FUJIFILM SQUARE 写真歴史博物館
料金:無料(予約不要)

プロフィール
エドワード・S・カーティス

1868年アメリカ・ウィスコンシン州生まれ。1899年、ニューヨークの大富豪エドワード・H・ハリマンのアラスカ探検隊に同行したことが大きな転機となり、以前から興味を持っていたネイティブアメリカンの撮影に専念することを決意。自らを「消えゆく文化の目撃者」ととらえ、1900年の南西部での撮影を皮切りに、南西部、平原、北西海岸の部族を次々と撮影。大富豪のJ・P・モルガン氏やセオドア・ルーズベルト大統領の経済的支援を得て、ミシシッピー河西部からアラスカにかけて全域を踏破し、80以上の部族を調査・撮影。1907年から1930年の間に、約1,500点の写真とテキストによる全20巻の『北米インディアン(The North American Indian)』を発行するという偉業を成し遂げた。1952年没。



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