3.11を経て、舞台芸術は何を語ることができるのか? Vol.1 宮沢章夫(劇作家)と青山真治(映画監督)が語る3.11以降の演劇

『フェスティバル/トーキョー11』の数多くのプログラムから、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』(1945)にちなんだ野外劇『無防備映画都市』を、劇作家・演出家・作家の宮沢章夫さん、映画監督の青山真治さんにご覧いただき、作品をきっかけに舞台や映画について幅広く語り合ってもらった。原発問題に対する2人の姿勢を反映するかたちで、宮沢さんの新作『トータル・リビング 1986-2011』についても話が及んだ本対談。舞台と映画、ふたつの異なるジャンルが交差する地点で、身体のあり方とは何か、そして3.11以降の表現とはなど、深い考察が繰り広げられた。

PROFILE

宮沢章夫
1956年静岡県生まれ。劇作家・演出家・作家。90年、作品ごとに俳優を集めて上演するスタイルの「遊園地再生事業団」の活動を開始、『ヒネミ』(92年)で岸田國士戯曲賞受賞。10年間で10数本の舞台作品を発表後、2000年に3年間の休止期間に入る。03年、戯曲+映像+パフォーマンスのコラボレート作品『トーキョー・ボディ』、05年『トーキョー/不在/ハムレット』をそれぞれ発表し、第二期ともいうべき活動を開始。また、99年芥川賞候補にもなった『サーチエンジン・システムクラッシュ』(文藝春秋)などの小説、エッセイ、評論などの執筆活動や早稲田大学文化構想学部教授など、活動は多岐にわたる。
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青山真治
1964年福岡県生まれ。映画監督、小説家。96年、地元・福岡県の門司を舞台にした『Helpless』で長編映画デビュー、高く評価される。2000年、『EUREKA ユリイカ』が第53回カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞とエキュメニック賞をダブル受賞。また今年は4年ぶりの最新監督作『東京公園』が公開され、ロカルノ国際映画祭で金豹賞(審査員特別賞)を受賞している。また自作を小説化した『EUREKA ユリイカ』で第14回三島由紀夫賞を受賞するなど、小説家としても著書があるほか、今年11月に上演予定の舞台『おやすみ、かあさん』(作:マーシャ・ノーマン)では演出を務めるなど、舞台にも活躍の場を広げている。

どこか毒を持った、舞台を脱臼させることの面白さ(宮沢)

―本日、ルネ・ポレシュさんの作品『無防備映画都市』をお二人にご覧になっていただいたのですが、まずはそのご感想から伺えますでしょうか。

青山:ヨーロッパの映画史をかなり深めに作品のなかに取り入れているから、知らない人にはわかりにくいだろうなぁと思いながら見ていましたけど、面白かったですよ。ドイツ人がイタリアのことを作品にするのって、ゲーテの頃からそうですけど、南への憧れというか、一種の倒錯というか…ロベルト・ロッセリーニとフェデリコ・フェリーニをごちゃまぜにして、ニーノ・ロータを流しとけばいいや、みたいな(笑)。

3.11を経て、舞台芸術は何を語ることができるのか? Vol.1 宮沢章夫(劇作家)と青山真治(映画監督)が語る3.11以降の演劇
『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』 ©Thomas Aurin

宮沢:ドイツの演劇は実験的な作品が多いんです。翻訳されているドイツの現代戯曲を読む限りでは、難解なのが多い印象を受ける。『無防備映画都市』も、映画史や思想の用語が結構出てくるじゃないですか。ルネ・ポレシュは、そうしたテキストをどのように視覚化して魅せるかを徹底的に考えていったんじゃないかな。もうひとつポレシュは、大学時代にハイナー・ミュラー(ドイツの劇作家・演出家。代表作『ハムレットマシーン』)の授業を受けていて、その影響は強いでしょう。どこか毒を孕んでるし、作品の文脈を脱臼させるところがあって、それは以前観た、『皆に伝えよ!ソイレント・グリーンは人肉だと』という作品もそうだったけど刺激的でしたね。というか、こんな言い方していいかわからないけど、でたらめだな、これって(笑)。

青山:後半でセットの上を登っていくシーンがありますよね。ロッセリーニの『ドイツ零年』(1948)には子どもが飛び降りる有名なラストシーンがありますけれど、「あれ? 飛び降りないんだ」って(笑)、確かにあれには脱臼させられました。

宮沢:実際にカメラを使い映画の撮影クルーを描いていて、NGシーンも見せていくじゃないですか。構造としては洗練されていて、役者の身体も非常に鍛え上げられているんだけれど、映画監督である青山さんに伺いたいのは「あれって監督コントですよね?」っていうことなんです(笑)。というか、構造がね、演出家は意識してないと思うけど、「監督」という登場人物が出ると「監督コント」になってしまう危うさがある(笑)。

3.11を経て、舞台芸術は何を語ることができるのか? Vol.1 宮沢章夫(劇作家)と青山真治(映画監督)が語る3.11以降の演劇
『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』 ©片岡陽太 ©Yohta Kataoka

青山:観ていて途中から「ドリフかよ」って思いました(笑)。それから、フランス映画やイタリア映画関係のタームが次から次とちりばめられていて、ルキノ・ヴィスコンティもフェデリコ・フェリーニも出てくるのに、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーとジャン=リュック・ゴダールの名前は絶対に出さないんだなぁ、と拘りを感じました。

人間を大きく見せるか、小さく見せるかという問題はあると思います(宮沢)

青山:僕は演劇って、本当はセットがいらないんじゃないかと妄想してるんです。映画の場合は、現実に似通った風景を作る必要があるためセットを考えなくちゃいけないけれど、演劇の場合は、古くは円形劇場からはじまって、身体と言語さえあれば、バックにセットがなくても成り立つはずだ、と。

宮沢:劇場の歴史を考えると、人間を大きく見せるか、小さく見せるかという問題はあると思います。神の時代のギリシャ悲劇は、人間が小さくてよかった。だから何もない空間で俳優が台詞を言うだけで成り立っていたけれど、近代以降、人間を大きく見せることが演劇の課題になってきた。しかし、人間はそれほど偉いかという問いも、その後の現代演劇には生まれたんでしょうね。

青山:俳優を等身大に見せるために、セットが必要になったということですね。ただそれはリアリズムかもしれないけど、リアルにはならない。

宮沢:確かに板でコンクリートを作っても、本物のコンクリートの重さは表現できないわけです。どこまでいっても板でしかない。リアルの表現は、舞台芸術につきまとう問題ではありますよね。蜷川幸雄さんのように舞台上でずっと雨を降らせるようなスペクタクルを作り出す姿勢は、単純にすごいと思いますけど。『無防備映画都市』もそうですが、野外劇ってすべてが装置になるじゃないですか。向こう側に見える東京タワーの夜景が、役者の身体や、劇の言葉をまた違った印象に見せてしまう。それはそれですごいことだなと思いました。

我々は福島を予言する映画を撮れなかった(青山)

宮沢:青山さんは、ご自分でも舞台を演出されていますね。最近ずいぶん演劇にご執心だとか。

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青山真治

青山:昨日も、映画観に行きたいなぁと思っていたにもかかわらず、ふとポツドール(三浦大輔を中心に結成された演劇ユニット。第13回公演『愛の渦』で岸田國士戯曲賞受賞)の『おしまいのとき』が最終日だということで、当日券を買って観たんです。映画観に行くはずだったのに、なんで舞台観ているんだろうって思いながら(笑)。逆に言うと、映画の領域で起こっていることはあらかた想像がついちゃうから行かなくていいかなと思うようになってしまったのかもしれません。


宮沢:それはゴダールとファスビンダーを除いてヨーロッパ映画を語るという、今日観た舞台にポリシーとしては近いものがあるんでしょうか。もはや映画を撮るのに、映画史は必要がないというような?

青山:う〜ん、どうなんでしょう。何をやるか予測のつかないような、有名どころは抑えておこうという意識はあるんですけどね。さすがにクリント・イーストウッドの新作が来れば観に行く、とか…変に取り憑かれるようなものが昨今の映画にはなくて。逆に舞台には取り憑かれるものを感じています(笑)。単純にいま、演劇のことがもっと知りたいんですよ。

―映画ではなく舞台を観に行きたいと青山さんに思わせてしまう理由って、具体的にはなんでしょうか。

青山:僕もよくわからないんですが、もしかしたらデモの影響かもしれません。「もう出来上がってしまっていて動かしようのないもの」、つまり映画のことですが、それを観に行くよりも、昨日と今日で違うかもしれないものを観に行きたい、その現場に立ち会いたいという気持ちがあるのかもしれません。本当は映画だって、同じ一本を昨日観るのと今日観るのとでは違っているはずなんだけれど、演劇のほうがその変化が大きいじゃないですか。

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宮沢章夫

宮沢:3.11以降、旧来の演劇人は原発問題を受けてどういう言語で表現すればいいか悩んでいるのに、若い世代は屈託なく表現をしつづけています。作品を観ると、そのほうが現代的だろうという気もしてくる。とくに20代と30代の間に決定的な断層が走っています。


青山:なぜその世代で断絶されるのでしょう?

宮沢:それは、チェルノブイリを知っているかどうかだと思いますね。

青山:なるほど。僕もチェルノブイリは非常にインパクトはあったけれど、それほど意識はしてなかったかな。むしろアンドレイ・タルコフスキーが『ストーカー』(1979)を撮りましたよね。あれはまさにチェルノブイリを予言するかのような作品でした。それに対して我々は、福島を予言するような作品を作ることができなかったという意識を強く持ってしまったのかもしれません。映画を昔のように観に行かなくなったのも、映画がいろんなことをやりそびれているからかもしれません。演劇は直接/間接に関わらず、身体で3.11以降を反映せざるをえないじゃないですか。

宮沢:タルコフスキーの『ストーカー』は僕もそのことを強く感じたんですね。予言だと。ただ、そのことを話してくれたのは青山さんが初めてかもしれない。いままでそれを口にしてもみんな、そうかなって、同意を得られなかったし、そう語る人はほとんどいなかった。しかし、1986年の時点で、チェルノブイリをいまの福島のように見れたかというと見れなかったと思う。だからすぐに忘れてしまった。でもいまになって、忘れてしまったことを後悔しています。出来事は1メートル離れるだけで見えなくなる。つねに我々は出来事を目撃できない。でも想像することはできるはずです。だからこそ少なくともそれを言葉にしたり、デモがあれば歩こうと思う。何十年ぶりかにデモに参加して、歩くことで身体的に知ることがあると強く感じました。

ディテールの羅列を超えて、3.11に正面から向き合った作品になっています(宮沢)

―今回のF/Tのプログラムでもある『トータル・リビング 1986-2011』では、86年のチェルノブイリと2011年の福島の原発を関連させたタイトルになっていますよね。そのふたつの時間軸は、もちろん原発事故という具体的な事象で連関するけれども、同時にバブル前夜と、バブル崩壊後久しい現代日本という時代的なコントラストも反映されています。

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遊園地再生事業団
『トータル・リビング 1986-2011』
©Taisuke Koyama. All Rights Reserved.

青山:ただ畢竟、表現と言うものは遅れてくるものであり、それこそが重要だと信じたいんです。そもそも宮沢さんはいままで、時代を切り取ろうと考えたことはありますか? 「いまはこういう時代だ」っていう風に、率先して語られることはあまりなかった気がして。

宮沢:僕は「記憶を書いている」という気持ちがまず第一にあるんですけれど、流行りの言葉をタイトルにしたくないな、というのはありますね。手法や方法論は変わらないのに、包装紙だけ新しくするのは面白くないと思う。だからあるときから、現在を切り取るのはやめたんです。


青山:たとえば社会学的に自分の作品を切り取られるのがたまらなく嫌になった時期がありました。それが正鵠を射ていればいいんですけどね。どうも批評家も自分の都合で作品をねじまげることってあるじゃないですか。いま社会がこうなっているからこうであるとか。そういうのはただの興醒めとしか目に映らない。

宮沢:もっと単純な言葉で語ってもいいはずなのに、批評言語にない言葉では語ろうとしないでしょう。たとえば「かっこいい」って言葉は使わないとか(笑)。でもそういう言葉で語ってもいいと思いますけどね。

3.11を経て、舞台芸術は何を語ることができるのか? Vol.1 宮沢章夫(劇作家)と青山真治(映画監督)が語る3.11以降の演劇

―そういう意味で現代は、作品と批評がセットになってコンテクストが形成されるような時代ではないんでしょうか?

青山:批評それ自体はあっていいし、自在に語ってもらって一向に差し支えないんだけれど、たとえば友達や知り合いから「あのシーンよかったね」って感慨深げに言われることのほうが、分析されるよりも格段にうれしい部分もありますよ。

宮沢:今回の作品をつくりながら思ったのは、僕はストーリーとかプロットを書くのがとても苦手だということですね。元々ほおりっぱなしが好きなんだなぁと。

青山:ディテールの羅列ということですか? 今回の新作も、タイトルが『トータル・リビング』ですけれど、生活ただそのものがあるというか?

宮沢:そうですね。だけど逆に今回は最後が決まっていて、そこに持っていくために書いていたので苦しかったのですが、それはひとつやっておかなければいけないことかなぁと。羅列って子どものふるまいだと思うんですが、今回はそれなりにきちっとしたものを書きたかった、という意識はありましたね。現在を切り取るのは止めたといいながらも、僕も変わる。というか、もういい加減いい歳なんで(笑)。3.11を正面から引き受け、向かい合うことができるかを試した作品を作ったつもりです。しかし、方法ですよね。「なに」を「どう」ということ。青山さんも、きっとそう考えてると思うけど、どう「語るか」ですよね。「語り方」を観に、ぜひ劇場に足を運んで頂きたいと思っています。

information

『トータル・リビング 1986-2011』

2011年10月14日(金)〜10月24日(月)全15公演
会場:東京都 西巣鴨 にしすがも創造舎
作・演出:宮沢章夫(遊園地再生事業団)
料金:前売一般4,500円 当日一般5,000円 学生3,000円 高校生以下1,000円(要学生証提示)
※ 学生・高校生以下は当日、前売ともに同料金

トータル・リビング 1986-2011 | フェスティバル/トーキョー FESTIVAL/TOKYO トーキョー発、舞台芸術の祭典



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