1957年に「グッドデザイン商品選定制度」として始まった『グッドデザイン賞』は、今年で発足59年を迎える。つい先日、今年度の受賞結果が発表されたが、そのリストからは「デザイン」と定義されるものの幅広さを感じずにはいられない。自動車や家電といった生活に密着したプロダクトは当然として、太陽光発電などの再生可能エネルギーの地産地消にとりくむ市町村や、クラウドファンディングまでもがデザインの1つとして選ばれている。
デザインにせよアートにせよ、その定義は変化し、拡張し続けている。社会体制の変化、ネットワーク技術の普及、多様化する個人のライフスタイル。そういったものの影響をビビッドに受けてデザインは変わっていく。もはや10年後のデザインがどんな意味と姿を備えているか、正確に想像するのは難しい。だからこそ、『グッドデザイン賞』も半世紀を超える歴史の中で、その定義と役割を変えてきた。本稿では、グッドデザインの歩みを振り返りながら、戦後日本とデザインの関係を振り返ってみようと思う。そうすることで、未来のデザインもきっと見えてくる。
敗戦後の風景に闘志を燃やした、若きデザイナーたち
現在は、公益財団法人日本デザイン振興会のもと民営化されている『グッドデザイン賞』だが、その起源は通商産業省(現在は経済産業省)、そして特許庁が旗ふりしたデザイン振興政策にさかのぼる。
民間の経済活力の向上を目的とする通産省が、企業や民間団体の開発するデザインを支援するのは、わかりやすい関係だ。だが、なぜ発明や実用新案の事務管理をする特許庁が、『グッドデザイン賞』の最初の母体となったのか?
『グッドデザイン賞』ロゴ
太平洋戦争が終結した1945年。敗戦した日本では、国力の復興が求められた。GKデザイングループ会長を務めた榮久庵憲司が、焦土と化した故郷の広島に「凄惨な無」を見出し、「有」としてのデザインの必要性を感じたというのは仏僧でもあった同氏らしいエピソードだが、大望を持った若きデザイナーたちにとって、その想いは大なり小なり共有できるものだったろう。戦争によって国力や物資を失った日本を、物質としてのデザインによって立て直すという意志。それは現在の日本を形作る、根源的なエネルギーになった。
デザインは、国家・地域の成長の勢いを示すバロメーターでもある
だが、国全体が勢いを持つ時期は、同時にいろいろなことがおざなりになる時期でもある。当時の特許省意匠課長であった高田忠は『グッド・デザインーその制度と実例ー』において以下のような指摘をしている。
「日本商品の外国意匠盗用問題は、今に始まったことではなく戦前にもしばしば問題になったが、国際問題として真剣に取り上げられたのは、昭和二十四年、イギリスから当時のG・H・Qを通じて、日本の輸出織物の意匠がイギリスのそれを盗用していると抗議されたことにはじまり(…)昨年九月(1957年)にも藤山(愛一郎)外相がロンドンを訪問した際、日本からボンベイ方面に輸出したベアリングの外箱の意匠が、イギリスのポーラード社のベアリングの外箱の意匠に似ているというので、だいぶ問題にされたようである」
つまり模倣である。当時、アメリカ国内のデパートで日本人が買い物をしようとすると「私たちの商品を模倣するから、日本人には商品は売れない」と断られたという報告もあったほどで、国際信義保持、貿易政策の観点から「好ましからぬ状況」と日本政府は認識していた。
現在も、アジア各国で盗用・模倣された人気キャラクターが問題(話題?)になり、微笑ましくなくもない不名誉なニュースが報道されたりするが、見方を変えれば、それは国家・地域の成長の勢いを示すバロメーターでもあるだろう。理想とする他国を自身の範として、そこに近づくために技術や文化の吸収に全身全霊で挑む。すこし前のアジアがそうであったように、かつての日本もそんな「若い国」であったということだ。
戦後日本にようやく誕生した「日本独自の良いデザイン」の概念
そこから、「日本独自の良いデザイン」を積極的に発信することによって、国内の模倣・盗用を一掃しようとする気運が持ち上がる。グッドデザインが特許庁の旗ふりで制定された理由には、そんな背景があったのである。1957年に制定された選定基準の第一項には「機能と形態の融合を目指し、しかも独創性をもつものであること」とあるように、後者の「独創性」にかけられた期待は大きかったことだろう。もっとも、第1回の選定に関わった評論家の勝見勝は、寄せられた商品にデザインコンシャスネスの認められるものは皆無で、同じく専門委員だった柳宗理(インダストリアルデザイナーとして、戦後日本のデザインの発展に大きく貢献した)と顔を見合わせてしまった、と述懐している。
しかし、ここでより注目すべきなのは、同じ項に「機能と形態の融合を目指し」と記述されていることだ。この一文からは、当時の日本において実現されていなかった「理想のインダストリアルデザイン像」を、制定者たちは明確に意識していたことが読み取れる。高田の記述によると、30年頃の日本でもその理想を実現しようとする「二、三の先覚者」はあったという。工業デザインを意味するインダストリアルデザインの分野においては、市場を左右するメーカーとユーザーの意識が底上げされないことには、変革は起こらない。だが、戦前からデザインの問題に真っ向から取り組む先行者がおり、激動の大戦期を挟んだ約四半世紀を経て、本質的なデザインの議論がついにかたちを得たことには大きな意味があったはずだ。言い換えるならば、グッドデザインの概念の誕生によって、はじめて日本のデザインの方向性が指し示されたとも言えるだろう。
好景気に湧いた高度経済成長、認知度の向上に伴い受難の時代も
『グッドデザイン賞』の起源についてずいぶん字数を取ってしまった。ここから早足で現在へと接近していこう。
「グッドデザイン商品選定制度」が発足した翌年の58年。通産省内に「デザイン課」が設置され、グッドデザインの選定も同課に引き継がれる。ここから数年の選定数が、年間10点前後のさびしい数字を推移しているのは、63年まで公募制をとらなかったこと、選定自体の整備が追いついていなかったことが理由だろうか。
公募制に変更した63年以降は、年々選定数が伸び、72年には400点を超す(昭和40年代には、毎年2000~3000点の申請があった)。この頃から、企業内で働くインハウスデザイナーにとって、グッドデザインに選定されることが一種のステータスとして捉えられるようになったようだ。カメラファンには親しみのあるオリンパスのハーフサイズカメラ「ペンF」を設計した米谷美久はこう語っている。
「当時のGマークは通産省直轄で、まだ公募制ではありませんでした。委員の方が街を歩いて、目に付いたかっこいい製品を選定する(…)委員の数はそんなに多くないから(…)私のカメラはなかなか選ばれない。いらいらしながら見ていたものです。その後六三年から一般公募するようになって、早速『ペンF』を申請しました。即Gマークをいただいて、やっと仲間に入れたわけです」(『Gマーク大全―グッドデザイン賞の五〇年』)
64年の東京オリンピックを契機に、自家用車、エアコン、カラーテレビが新・三種の神器と呼ばれた「いざなぎ景気」に突入。70年代には、Gマークに対する一般の認知度も65%を超える。一方で、「選定基準がヨーロッパのデザイン思想に近く、洗練されていても売れない商品を選びがち=Gマークをつけると売れない」という噂が流布することもあり、グッドデザインにもさまざまな受難があったようである。
日本全土が「人類の進歩と調和」に沸いた70年の大阪万博を通過し、77年に創設20年を迎えたグッドデザインは、はじめて授賞制度を制定。80年に『グッドデザイン大賞』『部門別大賞』『ロングライフデザイン賞』が正式に創設され、現在の「選定+賞」という二重の構造へと変化する。そして30周年を目前に控えた84年には「全ての工業製品を対象とする、総合的なデザイン評価・推奨制度」へと発展し、現在の『グッドデザイン賞』の骨格が形成されていくこととなる。この頃には年間の選定数は毎年1000件を超えた。
「ウォークマン」に象徴される「ジャパンオリジナル」はなぜ世界にインパクトを与えたのか?
59年間の歴史のなかで、『グッドデザイン賞』は部門の改称や、新たな部門の創設を積極的に行ってきた。国民の生活への関心が「物の豊かさ」から「心の豊かさ」へとシフトしはじめた80年前後に部門別大賞が設置されたのも、多様化するデザインにグッドデザインの側が対応した結果だろう。
この時期に発表された世界初のポータブルオーディオプレイヤー「ウォークマン」や、小型乗用車「シビック」は、生活空間や娯楽のあり方が家族から個人へと小型化していく時代の雰囲気を的確に捉えたものだ。
テーププレーヤー [ウォークマンII WM-2] / ソニー株式会社
小型乗用車 [ホンダ シビック 3ドアハッチバック 25i] / 本田技研工業株式会社
当時これらのプロダクトに対して言われた「ジャパンオリジナル」は、その質の高さから世界中を席巻すると同時に、日米間の経済摩擦や、アメリカからのジャパンバッシングを生む原因にもなった。だが、現在の目で読み替えれば、日本的な絶妙な間の取り方や空気の読み方から生じるデザイン思想と技術を、日本の独創としてとらえた表現だったと言えるかもしれない。もはや懐かしい感もある「お・も・て・な・し」的日本のホスピタリティーは、こんなところからも続くマインドだろうか。
80~テン年代まで。時代の潮流と並走する『グッドデザイン賞』の歴史
いずれにせよ「価値変化」「価値多様化」と、それに柔軟に対応するデザイナーたちの営為は、80年代以降のグッドデザインの変遷を考えるうえで重要なキーワードである。世界中で環境問題が大きな関心事となり、世界規模での継続的な共生が求められるようになった90年代には「インタラクションデザイン」「ユニバーサルデザイン」「エコロジーデザイン」に対応する3つの特別賞が新設された。
さらに『グッドデザイン賞』自体も、当初の目標であった「産業へのデザイン導入促進」を一定程度達成したと見なし、次の時代のデザインの定義を模索し始める。そして98年の民営化と共に「よいデザインを見つけ、社会へ伝えていく」活動へと大きく舵を切り、94年に新たに制定された「施設部門」のさらなる拡張として、99年に「コト」のデザインも対象とする「テーマ部門」(2000年から「新領域デザイン部門」に改称)、2001年に「コミュニケーションデザイン部門」を新設する。97年の『グッドデザイン大賞』に、施設部門で選定された24時間開放の市民芸術工房「金沢市民芸術村」が受賞したこと。また、テーマ部門新設と同時に、ソニーのエンタテインメントロボット「AIBO」が大賞を受賞した例などは、時代の潮流と並走するグッドデザインの先見性の証明と言って差し支えないだろう。
金沢市民芸術村 [石川県金沢市大和町1-1] / 金沢市+水野一郎+株式会社金沢計画研究所
エンタテインメントロボット [AIBO(アイボ)・ERS-110] / ソニー株式会社
そしてインターネットカルチャーが急成長したゼロ年代、その発展と実践が成されつつあるテン年代を迎え、デザインはかたちのあるプロダクトに限定されない、情報や社会デザインへと定義を年々広げている。
新しく制定された12の「フォーカス・イシュー」が意味するもの
ようやく本稿は、2015年の現在へと戻ってきた。時代に合わせて適応していく『グッドデザイン賞』の変幻自在さはこれまで見て来たとおり。そして今年も、新たな取り組みが試されている。それが「フォーカス・イシュー」である。
「フォーカス・イシュー」は、これまでのような部門創設とは真逆の発想から作られたガイドラインだ。『グッドデザイン賞』自らが「日本社会が世界に先駆けて向き合わなければならない課題」「これから人々の大きな関心事となって社会を動かしていくと予想される」テーマ=イシューを設定し、応募作を審査しているという。今年は12のイシューが設けられた。
作品によっては複数のイシューから評価される場合もあり、例えばトヨタ自動車株式会社の燃料電池自動車「ミライ」は、「社会基盤・モビリティ」「地球環境・エネルギー」「先端技術」の3つの視点で選ばれた。水素と酸素から発電する新たなハイブリッド技術を備えたこの自動車は、先端技術によって環境に配慮した走行を実現する。また、他業界との協働によるインフラ構築を進める姿勢からは、社会基盤そのものを開拓しようという意思を感じることができる、というのが選定の理由だ。
自然界の風の動きを扇風機で再現したことで家電ファンが熱い視線を向けるバルミューダ株式会社は、フランスパン、クロワッサンなどを自在においしく焼ける「バルミューダ ザ・トースター」で「生活文化・様式」のイシューの視点で選ばれた。インダストリアルデザインによって、家庭と距離のあった新たな味覚・食感がもたらされることは生活文化の革新と言えるだろう。
スチームトースター [バルミューダ ザ・トースター] / バルミューダ株式会社
近年話題にのぼることの多い地方の過疎化と再活用につながるグッドデザインもある。秋田県の株式会社kedamaが推進する「シェアビレッジ」は、そのユニークなアイデアで「地域社会・ローカリティ」「教育・伝習」のイシューで評価された。年会費3000円の年貢(NENGU)を収めることで村民になり、消滅の危機にある古民家を宿泊や田舎体験によって再生させていくという、ゲーム感覚の村作りが新鮮だ。「村民(人)がいるから村ができる」という発想は、共同体を活性化する仕組みによって具体的な解決法を見出す、新たなコミュニティーデザインとして期待に値する。
これ以外にも、ネットサービスやインタラクティブな機能を用いたスポーツ促進の仕掛けなど、ユニークな受賞デザインは多いが、それらの紹介と総括は、後日掲載予定の今年度の『グッドデザイン賞』のレポート記事に譲ろう。本稿は、これまで振り返ってきた同賞の歴史からデザインの未来について想像を巡らして筆を置きたいと思う。
拡張し続けるデザインの概念と、人間の関係性
ここまで6000字余りを費やしてデザイン、ひいてはグッドデザインについて書いてきておいてなんなのだが、筆者はデザインというものに格別の関心を持っていない。というのは少し正確ではなく、デザインに対して関心を持たなくて済むくらいにデザインの恩恵を受けている、数多の大衆の一人が自分である、と言うほうが正しい。この原稿を書いている我が部屋をぐるりと見回せば、壁を覆い尽くさんばかりの本棚は泣く子も黙る無印良品だし、部屋の中心にどんと鎮座するのは東芝製の液晶薄型テレビだ。Blu-rayプレイヤーとしてもお世話になっているプレイステーション4はもちろんソニーを代表する世界的ゲーム機で、なんとなく菱餅を思わせる鋭角のデザインには、かっこ良さと愛らしさを感じてやまない。そうやってデザインに取り囲まれた自室の中にありながらデザインを感じないでいられることにこそ、私はデザインの本質を見る。
先んじて「機能と形態の融合を目指し」というグッドデザイン創成期に書かれた項を引用したが、機能によって引き出される形態の妙味こそが、インダストリアルデザインの美なのだと思う。その融合が見事であればあるほど、形態によって機能は代弁され、やがて融け合って消失する。デザイナーの深澤直人は、かつて河原に無数にある石ころのなかから1つをピックアップして「Ishikoro」という携帯電話をデザインした。自然の造形の内にあるデザインをプロダクトに転化する汎アジア的(禅?)ともいえる手法に注目が集まったが、ここでデザインされているのは形状ではなく、石ころの形を模したケータイを握った瞬間の感覚であり、掌とプロダクトの表面に一瞬交わされる交感なのだと思う。
陰刻という彫刻技法があるが、これは平面を指などで押し出すことで造形を浮かび上がらせる技法のことだ(逆に平面を削り出していく技法を陽刻という)。自分自身のアクションが素材に写し取られ、造形を生み出していく様は、道教における陰陽の円を想起させる。円環を結ぶように繰り返される行為とその結実から造形を生まれ出るプロセスは、「機能と形態の融合」の体現とも言えるだろう。その体現の場において、デザインは流動し続ける、静止して留まることのない動態して存在している。つまり私がデザインを「デザイン」として認識しないのは、日々、自分とデザインの間で交感が交わされ続けているからに他ならない。言い方を変えれば、デザインの奔流の内部に自分自身の存在も組み込まれることで、デザインは一応の完成を見る。
いささかスピリチュアルめいた結論になりつつあることに自分で自分に危惧を覚えないではないが、近年のデザイン概念の拡張は、このようなデザインによって定位される新しいライフスタイルやヒューマニティーと無縁ではないと思う。デザインは美術のようにそれ単体での自立を目指さない。人のいる世界で、人に寄り添うことでデザインははじめて機能と形態を得る。そう考えれば、デザインの未来は、そのビジョンを明らかにしはじめるだろう。人の進化とデザインの進化は、たぶん同じ場所にある。
- イベント情報
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- 『グッドデザインエキシビション2015(G展)』
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2015年10月30日(金)~11月4日(水)
会場:東京都 六本木 東京ミッドタウン
時間:11:00~20:00(初日は13:00から、最終日は17:30まで、入場は閉館の30分前まで)
料金:1,000円
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