『カンヌ国際映画祭』の「カメラ・ドール」は、新人監督の劇場デビュー長編に与えられる賞である。過去にはジム・ジャームッシュ、ヴィターリー・カネフスキー、トラン・アン・ユン、ミランダ・ジュライ、日本人では河瀬直美などが同賞を受賞。近年では現代アーティストとしても活躍するスティーヴ・マックイーンが『ハンガー』で同賞に輝いた5年後に、『それでも夜は明ける』で『アカデミー賞』最優秀作品賞を獲得するなど、錚々たる映画作家たちを発見、輩出してきた。
昨年のカメラ・ドールを受賞した『イロイロ ぬくもりの記憶』は、中華圏を代表する映画賞である『台湾金馬奨』でも作品賞・新人監督賞・助演女優賞・脚本賞の主要4部門を制覇するなど、世界的に絶賛されているシンガポール映画。映画賞の「評価」というものを、決して鵜呑みにできるわけではないが、日常に棲みつく危機感をみずみずしい筆致で追いかけたこの作品は、注目に値する一作である。さらに、私たち日本人にもダイレクトに共有できる問題を平易に扱っているこの作品からは、現代アジア映画が「次の段階」を迎えていることが、はっきり体感できる。そこで、独創的なアジア映画を中心に据える国際映画祭『東京フィルメックス』で上映された昨今のいくつかの秀作アジア映画を引き合いに出しながら、『イロイロ ぬくもりの記憶』の魅力、そして近年のアジア映画が共有しているものに迫ってみたい。
最新のアジア映画に描かれる、「未だ解決されない問題」
リストラされたことを告白できずにいる父親、不安から目に見えぬものを信じようとしている母親、孤立せざるをえない息子……。今年30歳を迎えたアンソニー・チェン監督が映画『イロイロ ぬくもりの記憶』(以下、『イロイロ』)で映し出す光景は、たとえば黒沢清監督の傑作『トウキョウソナタ』の設定を想起させる。映画はその歴史の中で、幾度も分裂した家族の肖像を描いてきたが、『イロイロ』の特筆すべき点は、これが1997年という「近過去」を背景にしていることだ。当時のシンガポールはアジア通貨危機の影響下にあり、そのときにチェン監督の父親も失業したという。そうした個人的な体験をベースに物語を紡ぎながらも、郷愁に流れたり、感傷に呑み込まれたりしないのは、「遠い過去」ではなく、「近過去」を扱っているからだろう。そこでは「済んでしまったこと」ではなく、現在も継続中の「解決されえぬ問題」が描かれる。つまり「回想」ではなく、「今」を見つめるために、映画の中心に1人の少年が置かれている。
1つの「ぬくもり」の存在は、もう一方の「ぬくもり」の不在をあらわにする
一人っ子のジャールー(コー・ジャールー)の両親は共働き。しかも、母親は第二子を妊娠中。慌ただしい毎日が、この核家族に肉体的にも、精神的にもすれ違いを生じさせている。そこにフィリピン人女性のメイド・テレサ(アンジェリ・バヤニ)が住み込みで働き始めることから、家族の問題点はあらわになっていく。
ジャールーと同じ部屋に寝泊まりし、少年が学校で騒ぎを起こせば両親より速く駆けつけるテレサは、最初こそ拒否していたものの、徐々に少年にとって母親代わりになっていく。そして、テレサもまた祖国に息子を残し、出稼ぎに来ている境遇。二人が抱えるそれぞれの孤独が、ごく自然に溶け合っていく過程と、父の失職、母の混乱が並行して描かれる。それらは同時に視界におさめられ、同じ強度を持つ。ジャールーとテレサの邂逅は、息子と親交を深めるメイドに嫉妬する母の姿を浮き彫りにする。埋めることができない焦燥。家庭の先行きの不透明さから新興宗教に片足を突っ込んでいく母のありようは、とてもリアルだ。
1つの「ぬくもり」の存在はしばし、他方の「ぬくもり」の不在を感じさせる。「ぬくもりの記憶」という邦題サブタイトルに表れているような「居心地の良さ」ばかりではなく、家族という小さな社会に横たわる様々な陰影も、決して否定することなく差し出すことができるのが、新鋭アンソニー・チェンの鮮やかな手腕と言えるだろう。現実から目をそらさないこの聡明さこそ、『イロイロ』の美徳だ。
『イロイロ ぬくもりの記憶』©2013 SINGAPORE FILM COMMISSION, NP ENTERPRISE (S) PTE LTD, FISHEYE PICTURES PTE LTD
『イロイロ ぬくもりの記憶』©2013 SINGAPORE FILM COMMISSION, NP ENTERPRISE (S) PTE LTD, FISHEYE PICTURES PTE LTD
今年で15年目を迎えた『東京フィルメックス』の意義とは?
先日、大盛況のまま閉幕した『東京フィルメックス』は、規模こそそう大きくはないが、アジアを中心に活躍する新進作家を顕彰し、バックアップするコンペティションとしてそのセレクションには定評がある。そして、2010年に『東京フィルメックス』内で行なわれた映画の人材育成プログラム『ネクスト・マスターズ』(現在の名称は『タレンツ・トーキョー』)が『イロイロ』の発端となっている。チェン監督は、そこで本作の企画をプレゼンし、最優秀企画賞を受賞したことから『イロイロ』の制作が始まった。その審査員と講師を務めたホウ・シャオシェン(台湾の映画監督。代表作に『悲情城市』『珈琲時光』など)は、その後もチェンにアドバイスを送り続け、試行錯誤の末に映画が完成。同プログラムに参加した同期のマレーシア人監督が助監督につき、やはり同期であるフィリピン在住の監督の導きで、本作のキーパーソンであるメイドを演じたアンジェリ・バヤニのキャスティングも実現した。さらに、『ネクスト・マスターズ』の講師の尽力により、『カンヌ国際映画祭』への出品が決まったという経緯もある。
いわば『東京フィルメックス』は本作の「産みの親」だが、第15回となる今回のコンペティション部門には偶然にもバヤニ主演のフィリピン映画『クロコダイル』が出品され、見事、最優秀作品賞の栄冠を得た。ちなみに『クロコダイル』の監督フランシス・セイビヤー・パションもチェン監督と同様に『ネクスト・マスターズ2010』の出身者である。
現実の「喪失」から快復するための、映画ならではのアプローチ
バヤニ主演の『クロコダイル』は実話をもとに、フィリピン南部、南アグサンの湿地帯でワニに襲われ、娘を失った母親の「その後」を、フィクションとドキュメンタリーを並行させて描いた作品だ。フィクションの中でドラマを体現するバヤニと、インタビューに答える実際に悲劇を体験した女性とが、等価のキャラクターとして画面に存在する。終盤では、フィクションを演じていたはずの子役が、実際に子どもを失った母親に抱きしめられるという感動的な情景も出現する。ここで綴られているのは、喪失と再生の物語だが、ある種の神話性を加えながら、フィクションとドキュメンタリーをないまぜにする手法は、悲劇を相対化することで、人間の治癒力を高める作用へと結実している。たとえ同じできごとを扱っていたとしても、テレビのバラエティー番組などで散見される再現ドラマとはまるで違う趣だ。
日本でも、東日本大震災をめぐる様々な映像作品が作られ続けているが、そのほとんどはドキュメンタリー、もしくはフィクションの両極に分化している。被災者が語る真実、あるいは再現された劇はいずれも、悲しみが「強すぎる」のではないか? 悲劇の相対化がなされておらず、結局のところインパクト重視のカタストロフィーに堕しているものも少なくない。それらは、3.11についての感情の「固定化」しかもたらさない。一方、『クロコダイル』は、観客それぞれが固有の感覚を見つけ出すような作品になっている。
『イロイロ ぬくもりの記憶』
©2013 SINGAPORE FILM COMMISSION, NP ENTERPRISE
(S) PTE LTD, FISHEYE PICTURES PTE LTD
「自分の中にある真実と向き合う」という根源的な映画の見方
先日、『東京フィルメックス』のために来日したバヤニは次のように語っている。
「俳優が実在の人物を演じる。これは大変なことよ。まったくのフィクションであれば、それをどう演じてもいい。私だって、できれば面白いキャラクターでいたいと思う。でも、実在の人物を演じる場合は、自分のエゴを少し後退させて、謙虚にならなければいけない。役者はみんなエゴのかたまりだから、後退させるのはかなり難しいの。自分が安心できることではなく、その『外側の領域』の仕事をしなければいけない。演技のテクニックに頼ったりはできないのよ。自分ではない『誰か』の真実を描くということは、それくらい大変なことなの」
これは、『クロコダイル』についての発言だが、チェン監督が少年時代に出会ったメイドのイメージが根底にある『イロイロ』の役どころでも同様の体験をしているはずだ。俳優ばかりでなく、観客もまたエゴのかたまりであるが、優れた映画は、私たちの頑な心の扉をそっとノックし、ときに扉を開ける手助けをしてくれる。「外の世界」に対して目を向けさせ、己を謙虚にさせてくれるのだ。バヤニはこう続ける。
「演技において、何を大切にしているかと言えば、キャラクターそれぞれの真実を見つけること。真実と言われるものは、フィクションのキャラクターにも、実際に生きている人にも必ずあって、それを見つけ出すことが必要になる。『あ、これだ』というものが見つかったとしても、それと同じものが自分個人の中にあるかどうか、深く掘り下げて探さなければいけないのよ。それは簡単なことじゃないわね」
『イロイロ ぬくもりの記憶』©2013 SINGAPORE FILM COMMISSION, NP ENTERPRISE (S) PTE LTD, FISHEYE PICTURES PTE LTD
『イロイロ』でバヤニが演じたメイドは、家族にとって「他者」であるがゆえに、三人は新しい真実に気がつき、向き合うことになる。人それぞれに真実があること。自分自身の中にある真実を見つめ直すこと。『イロイロ』は、映画を見る行為の根源にあるものを教えてくれる。そして、それはバヤニの演技哲学と、明らかに通い合っている。
切実に、ひたむきに世界共通の問題をシェアする、近年のアジア映画の視線の変化
『東京フィルメックス』はアジアをテーマにした映画祭だが、今年コンペティションに出品された作品群には、これまでのアジア映画の潮流とは異なるある共通点があった。たとえば韓国のパク・ジョンボム監督の『生きる』は、格差社会を凝縮した世界観の中で、底辺を転げ回る人々を描いている。しかし、その閉塞状況を自国の問題としてだけ捉えるのではなく、今この世界全体が陥っている危機に目を向けるまなざしがあった。劇中の「この世界に安全な場所はない。だからこそ、守らなければいけないのだ」という台詞がそのことを象徴的しているように思う。
そういった、「抑圧と救済」「外側と保護」というビジョンは、やはり韓国のチョン・ジュリ監督の『扉の少女』(2015年GW日本公開予定。タイトルは仮題)にも見られた。レズビアンであることが発覚して左遷された女性警官(ペ・ドゥナ)は、辺鄙な港町で少女(キム・セロン)に出会う。少女は家族からDVを受けているが、彼女を救おうと保護することによって、主人公は周囲の人々の偏見を増長させ、さらにはあらぬ疑惑まで抱かれてしまう。
差別と偏見に支配された不寛容な世界への視線は、イラン在住のアフガン難民であるジャムシド・マームディ監督の『数立方メートルの愛』でさらに明瞭に立ち現れる。ここでは、イラン人青年とアフガン難民娘の禁じられた恋を描かれるが、『ロミオとジュリエット』的な古典性に回帰するのではなく、不寛容な世界をある種のファンタジーとして可視化しながら、ヘルプレスな現実を映画的に突きつけた。
それらのありさまは、『クロコダイル』の主題が、なぜか3.11について再考させてしまうことや、『イロイロ』で描かれた「近過去」がノスタルジーではなく、私たちが現代を見つめる契機となることと、確実に響き合っている。
『イロイロ ぬくもりの記憶』©2013 SINGAPORE FILM COMMISSION, NP ENTERPRISE (S) PTE LTD, FISHEYE PICTURES PTE LTD
『イロイロ ぬくもりの記憶』©2013 SINGAPORE FILM COMMISSION, NP ENTERPRISE (S) PTE LTD, FISHEYE PICTURES PTE LTD
『台湾金馬奨』で審査委員長を務めたアン・リー監督は、『イロイロ』について「誠実で正直なあり方が突出している」と評した。かつてのアジア映画は、監督の作家性が際立っていたり、風景やエキゾチズムを強調した地域的な特色を強調したり、ある種のスケール感や重厚さをにおわせたり、どのジャンルにおいても画的なインパクトが重視される傾向が少なからずあった。それが今では、誇張が薄れ、「アジア」を特徴づけることもさほど行われない。あくまでも「小さく、丹念な」映画作りに向かい、「届ける」ための地道な努力を選んでいる。「アジア映画」というブランドはさほどの効力を持たなくなり、「アジアを通して見た世界」というビジョンのほうがアクチュアルな意味を持つようになった。そのことに自覚的な監督たちの世代になった、と仮定することができるかもしれない。
今、ネクストレベルに向かっているアジア映画たちは、監督が己の個性を誇示したり、それぞれの国の事情を活写したりするのではなく、もっと切実に、ひたむきに、世界共通の問題をシェアしている。『イロイロ』はその先鋒となる作品である。
- 作品情報
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- 『イロイロ ぬくもりの記憶』
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2014年12月13日(土)からK's cinemaほか全国順次公開
監督・脚本:アンソニー・チェン
出演:
コー・ジャールー
アンジェリ・バヤニ
ヤオ・ヤンヤン
チェン・ティエンウェン
ほか
配給:日活 / Playtime
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