Myspaceでの「こんな曲やってます」から広がった輪
順調かに見えたシンガーソングライターとしてのデビュー。でも現実には、苦しい時期も長く続きました。曲を作り、CDをリリースし、ライブハウスでお客さんに聴いてもらう。そのサイクルを地道に繰り返してステップアップを目指す日々でしたが、リスナーの広がりは思うように成しとげられません。届けたいのに届かない。悩みの最中に出会ったのが、インターネット上で音楽を気軽に公開できるサービス、Myspaceでした。
たむらぱん:Myspaceが日本にも上陸すると聞いて、ディレクターと「これが最後の手段だと思ってやってみよう」って。もしそれでダメなら、そもそも誰かに届ける価値のある音楽だということ自体、見当違いかもしれない。それくらいの思いで始めてみました。
「Myspaceで颯爽とシーンに浮上したアーティスト」という印象もありますが、実際はそんな切羽詰まった決意でのスタートだったのです。しかも、当時はパソコンも持っておらず、まず自宅にインターネットを引くことからのスタートだったとか。
たむらぱん:当然ネットでのコミュニケーションも初めてで、まったく知らない人たちに「こんな曲をやっています、よかったら聴いて下さい」ってメッセージを送るのもすごく緊張しました(苦笑)。でも初心者だからこそ、良い意味で慎重に、丁寧にそういうことをやれたのかなとも思います。すると3人に1人くらいは聴いてくれたり、感想をくれる人もいる。それまで交流の場がライブだけだったので、こんなつながり方もあるんだって新鮮でした。当時は毎週1曲アップしたり、ページレイアウトも自分で変えていったり、ひとつの世界をネットの中に作っていく感覚もすごく面白かったんです。
自分の中に引いた「私はここまで」の線を越えていく
そんな手探りの努力は、やがて予想を超えた広がりを見せていきます。Myspaceを始めて4か月後、彼女とつながったフレンズは1万人以上にのぼり、8万ページビュー、24万回のストリーミングを達成。かつてない新しい形で、ひとりのミュージシャンの魅力が波紋のように広がっていきました。それは「楽しい曲も哀しい曲も、みんながいつの間にか忘れてたことを思い出したり、気持ちが動くきっかけになれたら」という彼女の音楽への想いが、ネットの向こう側にいる人々にも自然な共感を呼んだ結果でした。
たむらぱん:でも、一番リアルにそれを実感したのはネット上ではなく、Myspaceを始めてから最初にやったライブ会場だったんです。実はそれまでお客さんが10人いれば良かったねという感じだったのが、いきなり100人以上集まってくれました!
同年にはメジャーデビューを果たし、「届けたい歌」を待っていた人々が確かにいることを証明した彼女。その後の、初のワンマンライブも忘れられないと言います。
たむらぱん:すごく号泣したのを憶えてます。インディーズで結構長くやってきて、ワンマンができる日が私に来るのかなって期待と不安はいつもあったけど……考えすぎると叶わなかったときのショックが大きいから、「考えないふり」をしてた(苦笑)。そんな不安の時期があったからこそ、実現できたのがすごく嬉しかったんでしょうね。
彼女の歌に登場するさまざまな主人公と同じように、たむらぱんさん自身も現実との葛藤のなかで日々を過ごしてきました。実は、個性的なあの歌声も、自分の理想とする声質とは違うことがイヤだった時期もあるそうです。
たむらぱん:でもあるときから「この声を使って表現できるキャラはいっぱいあるんじゃないか」って、音楽を役者のようにやれたらいいと思えるようになりました。だからいまとなってはこの声で良かったなって。やっぱり、自分のことを好きでいたいなとも思いますしね。
「私にはこれしかできない」と自分で引いてしまった境界線を壊していくこと。その姿勢は、メジャーデビュー後も変わることがありません。たとえばストリングスやホーンなどのより多彩な編曲への挑戦も、またロンドンのパンクバンド・SNUFFとの共演や、ラッパーShing02との異色のコラボレーションもそう。楽曲の提供も、松平健からアイドルユニット・私立恵比寿中学まで幅広いフィールドへと広がっています。
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