「フジワラノリ化」論 −必要以上に見かける気がする、あの人の決定的論考− 第4回 関根麻里 其の一 二世タレントの一人に埋没しない関根麻里

其の一 二世タレントの一人に埋没しない関根麻里

こちらのサイトに載せる形では初めてなので、本題へ入る前に連載趣旨を書いておこう。藤原紀香と陣内智則が結婚した時、世は、陣内を指差して「格差婚」と嘲笑した。お笑いブームに乗ってパッと出てきただけの芸人が、あの藤原紀香を捕まえた。だってさぁ、家に帰ったら紀香がいるんだぜ、とあらゆる男子はチョー羨ましがった、ということになっている。えっ、本当にそうだろうか。藤原紀香について、あの高い評価について、問い質したい気分が晴れない。陣内と結婚し、紀香は『紀香魂』という本を出した。ここで残酷に問いたい。陣内と結婚する前の紀香の魂に需要はあっただろうか。住宅賃貸のCMに出てきては「今だと紀香がついてきます」だとか何とか言っていた。そこへ向かって、私の友人は「(部屋は借りても)紀香はいらない」と呟いた。それが、藤原紀香だったはずなのだ。

藤原紀香というブランドは「陣内前後」に揉まれ、いつの間にか整えられ、いつの間にか確立し、いつの間にか膨らみ、いつの間にか安定的になった。少し考えてみるのだが、その存在に明確な意味合いを持たせる事が出来ずに何となく頷くに留まってしまう。そして、そのままにしておく。しかしだな、それは、結果的に自由な泳ぎを許容したということなのである。この許され方を「フジワラノリ化」と名付けてみた。なんでこの人こんなにテレビ出てるんだろう、必要以上に見かける気がするなあ、そんな対象を入念に論じていく。はっきり言って誰もそこまで考え込まない人ばかりを取り上げる。だからこそ、この論考を決定版としてしまいたい意図もあり、とにかく長い。一ヶ月に一人、紙幅にとらわれずに済むゆえに書き散らす。この人でこんなに書いちゃってると体感してほしい。そして、フジワラノリ化で取り上げられた人物を貴方の中でほんの少しだけ肉体化してほしい。「なんとなく」だった人物が肉体化される、それができれば本望である。今月は、関根麻里を取り上げたい。

第4回 関根麻里

関根麻里を前にして、関根勤の娘である、という設定は、何の帰結にも向かわない。小泉孝太郎が小泉純一郎の息子である、という設定は、結局の所、帰結に向かう。当然だが、帰結であると共にスタートでもある。二世タレントには、芸能界というフィールドで何をやろうとも、スタートとゴールをその親に握られている辛さがある。ゴールしなければいいのだが、大概の場合、その親の子供だという事実が残りまくったまま、どこかへと消えていく。小泉孝太郎がデビューしたのは2002年である。7年が経とうとしている。しかし、画面に映り込む彼を眺めては純一郎が滲んでくる。小泉孝太郎がそれなりの仕事を出来ていないわけではないのだ。フジの深夜枠で「孝太郎が行く」という看板番組を持っているほどだ。「小泉孝太郎が行く」ではなく「孝太郎が行く」なのだ。孝太郎としての歩みには脱・純一郎が働いているし、認められてもいる。ただし、やっぱり機能が鈍いのだ。多少の機能が認められたとしても、そういえば首相の息子だったと孝太郎の出所を節々で蘇らせてしまう。そういう隙を見せてはいけない。関根麻里はこうではない。

小泉孝太郎自身は、どうも小泉純一郎の息子です、とは言わない。純一郎もさすがにもう、俺の息子が、とは言わない。二世タレントで真っ先に埋没していくのは、これをやってしまうパターンである。タレントではないが、高橋英樹の娘・高橋真麻がそうだった。フジテレビのアナウンサーは、もはやタレントとして成し上がる以上の特権だと断言して異論は無かろう。古くさい言い方になるが、如実に「べっぴん」であることが求められる職業である。そこへ入り込んだ高橋真麻の「べっぴん」は申し訳ないがとても足りる度合いではなかった。入社当時、英樹はその娘の売り出しに終始した。「うちのまあさが...」と言って、鳴り物入りであると、自分達で鳴り物を鳴らした。ガンガン鳴らした。こちらは頭痛がした。ああもういい。まあさとひでき、家でやってくれ。そう思わせてはダメなのである。鼻づまりで聞こえにくいという、アナウンサーとしての具体的技量の欠損もあるかもしれないが、入社5年目にして、彼女の姿を見る機会は多くない。関根麻里はこうでもない。

当初、関根麻里は関根勤の娘だった。それは間違いない。初見の関根麻里は、「千葉真一の物真似をする関根勤の真似」だった。親がいて、その娘として出てきたのは確かである。当時、ルー大柴は「舞台度胸がすごくある。派手な下ネタもするし。父親のDNAが入ってる」と評している。要するに、関根勤の娘は関根勤みたいなんだぞ、という認められ方を促したのだ。近似しているのが父と息子では弱いのだが、父と娘であれば面白い。しかもそこで通じているのが笑いとなれば、美貌とか美男子とか、造形から逃げた所での判断ができる。双子の動作が同じだと喜ぶように、「うわぁ、似てる!」で一定期間笑わせることは容易い。お笑いにおける父と娘となれば、西川きよしと西川かの子、横山やすしと木村ひかり等を挙げてみるのだが、弱い。実に弱い。ルー大柴が関根麻里を評したように、この二人の門出に際しても誰それからの同じような喧伝はあったろう。芸能ニュースにも出ただろう。ただし、それだけでは次に仕掛ける手段が無かったのである。あの人の娘さんがお笑いやってるんだぁという認識、その対象への興味は早速に絶える。今、「関根麻里とは」と問いかけて、関根勤のようなお笑いを...と答える人は少ない。関根勤の娘ではあるけども、関根勤のように、ではないのである。これは大きい。関根勤の娘で終わっていない証拠でもあろう。

Dragon Ashの降谷建志は、親が古谷一行であることを隠していた。同じように、RIZEのJESSEは、親がCharであると率先して言わなかった。あのDAIGOだって、当初別名義でデビューした折に、竹下元首相の孫だという触れ込みは付いていなかった。音楽の世界は二世の事実を嫌う。去年、フジロックでBob Dylanの息子を観た。確かJakob Dylanと言った。ああ、彼の息子だなと思った。以上。これじゃあ、いけない。誰にとっても、耳に入る音楽の判断は瞬間的である。音と、いくらかの記号的情報で判断する。誰それの息子であればその記号的情報へ負荷は極端である。音楽そのものすら「息子である」が被せてしまう。だから、あんまり言いたがらないのだ。本来、これは音楽の世界だけに留まる考え方ではないはずだ。

関根麻里は、最初に関根勤の娘ですと言ってしまった。しかし、すぐさま気付いたのだろう。関根勤から麻里を始めてしまっては、結局、勤に帰結すると。NHK紅白歌合戦の応援隊を努めた関根麻里は、東方神起のファンだと宣言し、お父さんも好きなんですよと付け加えた。補足情報に勤を混ぜ込んだ。これが、西川何ちゃらや横山何ちゃらにはできないことだったのである。「お父さんが」ではなく「お父さんも」と言った。関根勤の隠し方、関根勤を小出しする作法を関根麻里は短期間で体得した。或いは体得してから表舞台へ出てきた。今、関根麻里を見かける機会の大抵は、画面を関根麻里が牛耳っている。要は司会進行を担っているのである。自らのHPから文言を抜けば「レギュラー9本中、7本がメインMCという快挙」なのである(自分で言っちゃうか、という問題は後述する)。タレントデビューしたのは、2006年初夏である。2年半での「快挙」には、勤に寄り添わなかった麻里なりの「勤活用」があったからに他ならない。

これだけ長くて、冒頭文のつもりである。次回、分析を深部へ至らせたい。「なぜ彼女は司会進行を手に入れるのか」、その巧みさを具体的に解き明かしにかかりたい。



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