其の五 まとめ:生まれ変わったら小林聡美になりたいと言われる理由
「小林聡美」で検索してその礼讃を繰り返す文面に次々とあたっていると、その書き手が、やたらと「生まれ変わったら小林聡美になりたい」と漏らしていることに気がついた。生まれ変わったら○○、というのは、少しでも現実味を帯びている場合とそうでない場合にハッキリと分かれる。生まれ変わったら北川景子のような顔になりたい。生まれ変わったら明石家さんまのような話術を手に入れたい。この場合は具体的な部分や能力を指して、非現実的と知りながらもそれを欲してみるというやり口である。小林聡美になりたいは、そうではない。つまり、顔だ話術だ、声だスタイルだ、というのではなく、そのもの全体を指してそのものになりたいとする。そして、この場合において、憧れの濃度はどうやら比較的薄いようで、探し当てれば辿り着ける道のように、小林聡美というゴールが用意される。まだまだ遠いけれど、確かに視界に入っている、そう、あの丘の上まで、という努力目標としての具体なのである。
お姉さんでもなくオバさんでもない、ふむふむそれでは強いて言えばどちらに近いのですかと問われれば即答でオバさんと答える、それが小林聡美の佇んでいる土地だろう。オバさんにならずに、という言葉が用意される時、それはほぼ間違いなく見た目の若さを意味する。40歳前後に向けられた女性誌が引っ張る芸能人は、加齢というブラックホールの入り口から遠ざかる人材である。でも実はその人たちだってちょっとずつじりじりと近づいている。あまりに必死に食い止めていると判断されると、その人は、方向を転換して「上手に歳を重ねましょうよ」と標語を改訂する。しかし、実際にブラックホールに入ってしまうと、その声は届かなくなる。新しい「歳を取らない人」を探されてしまうのだ。小林聡美は、もうすでにブラックホールの中にいると思う。しかし、その中でのほほんとしているわけでもないし、必死にブラックホールを抜け出そうとしているわけでもない、では何をしているのか。それは、ブラックホールの中で、ガハハと大声をあげて笑っている気がするのだ。相応の歳である(もうすぐ45歳)。ブラックホールに吸い込まれたことをあっさり認める。しかし、そこでの暮らしを楽しもうとする。無理をしない。まだまだ穴の外で輝いていますと言い張る人たちの痛々しさを、読者や視聴者は絶妙に掴みとる。同様に、小林聡美がそうではなく、穴の中でもどうやら楽しそうにしていると、具体的な努力目標に設定するのである。だから今、小林聡美が、化粧品のCMではなく、UVカットのCMに出ているのは、とても適正な人選だ。
昨年末に残念ながらファイナルを迎えてしまった「釣りバカ日誌」だが、主人公のハマちゃんは、そのフロア(営業3課)の誰からも嫌われない存在だった。出社直後からトイレに長居しても、無理な仕事を早速諦めて釣り道具をいじっていても、「もう浜ちゃんたら」と放任してくれる。課長も「浜崎クンッ」とひとまず怒ってみるのだけれども、「まあまあ課長もそんなに怒らない怒らない」と浜ちゃんになだめられてしまう。その様子を見た社員達が笑いをこらえている。企業が効率を考えすぎると、頭を固くしてこういうムードメーカーを不要だと捉えてしまう。しかし、あらゆる会社というのはその生産の8割を2割の人材でまかなうと言われるように、エキスパートを放り込んだだけでその総量が単純に乗っかっていくわけではない。しかし、世の不景気は、ムードメーカーよりエキスパートを選ぶ。働く女性がどうのこうのという強気の雑誌や本を定期的に読んでいるが、その、ムードメーカーよりエキスパートという意向は男性よりシビアだ。エキスパートであることが前提で、その後に、ムードメーカーでもある、とする。浜ちゃんのように、ただひたすらにムードメーカーでいれば良しとする存在を能無しと切り捨てにかかるかのようだ。ああ、世知辛い。しかし、本当の所はどうなのだろう。みんな、エキスパートになろうと意気込むあまり、セミナーに通い、資格をとり、成果を出すための手段を惜しまない。そうなろうとしてそうなれなかった人たちが病み、私はなんにも出来ないと落ちこぼれる。香山リカが勝間和代に口論をふっかけたのは、落ちこぼれを許容しない社会を作り出しているのではないかという疑問符にあった。ここで小林聡美の名前を出したい。この人は、嫌われない人だ。誰からも愛されるという「国民的」を一切背負わないけれども、誰からも嫌われないという「浜ちゃん的」を持っている。巨大プロジェクトを動かすやり手のキャリアウーマン役を彼女が演じたら、それは演技というより、コントになるだろう。それよりも似合うのは、信用金庫の受付役なのだ。つまり、平社員の性質が体に染み付いているのだ。
ドラマ「すいか」の中で、彼女のお母さんのガンが発覚するシーンがある。彼女は、「ガンだって最近は治るんだよ」とカラッとしている。しかし、お母さんは、遠くを見つめてショックを受けている。人生に見切りをつけたかのように涙を流しはじめる。「もう、お母さんったら、泣かないでよ」と宥める。しばらくの時が流れる。カメラが小林聡美を捉える。すると、彼女も、うっすらと涙を流している。この演技には心を動かされた。心を動かされた、なんて、とても平凡な言い方しか出来ない筆力を嘆くほど、とにかくまあ演技するという領域の壮大さを思い知らされるシーンだった。手が届きそうと思われている小林聡美に、手は届かない。でも彼女の演技は、親しみやすさに帯びている。どうやら誰からも嫌われてはいない。お母さんにもオバさんにもお姉さんにもなれるが、キャリアウーマンだけにはなれない。この温かみはなんなんだろう。人が、小林聡美みたいになりたいと言う時、小林聡美の何が欲しいのかと問い質してみても、何かとかそういう事ではないと切り返されるに違いない。しかし、無理に答えを絞っていけば、それは「浜ちゃん的」という言葉で辛うじて輪郭化される「嫌われない」という部分になりそうだ。積極的に動いて嫌われない、これは、黙って淡々と結果を出して煙たがられるという実力主義な現在と反比例する。だからこそ小林聡美の需要はうなぎ上りなのかもしれない。寅さんを失い、釣りバカを閉じた松竹映画は、小林聡美でシリーズ映画を作るべきだ。舞台は下町でどうだ。あくせくしない場所に小林聡美を置けば、そこから物語が、いくらでも立ち上がって来るだろう。
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