其の三 「おい、おまえら!」の選択 〜武田鉄矢か、泉谷か、長渕か〜
古いタイプだったからか、この間乗った飛行機の暇つぶしモニターのメニューがやたらと乏しく、唯一の邦画だった「食堂かたつむり」を見るも、柴咲コウのナチュラル女子への加速が実にアンナチュラルで鑑賞を即座に断念、何故か番組登録されていたネプチューンのクイズ番組にチャンネルを合わせると、そこには武田鉄也が出ていた。その姿を確認した瞬間、おおよその流れが予測出来た。自ら率先してクイズに答え、答えた後でその設問の周辺事項をうんつら述べ連ねるだろうということを。ウチの親は武田鉄也が嫌いだ。何故かを問うと、「汚らしいから」。それはとても明瞭な答えだと思う。明瞭なので、ひとまず深追いはしない。彼に染み付いた説教癖を誰も止められず、その場を早く切り上げるためだけに熱心なフリして聞いてあげようとする周辺、こういう場面が必ずやってくる。あれほど不毛な時間も珍しい。歴史雑学、漢字雑学、時事雑学……自治会の寄り合いで「おお、さすがに武田さん、物知りですね」と言われている分には全く問題ないのだが、芸能界という世界の上段から振りかざして下段を頷かせているだけの彼の雑学、もはや血は通っていない。しかし武田は気付かない。武田が何てことない観光地の名前を間違えた。対戦相手の女性芸人チームからすかさず森三中の大島が、「あれー武田サーン」とおちょくっている。それに対して、彼は顔を震わせて、「うるさい、おまえら」と叫ぶ。大島の腹心には、武田はこうすればこういうふうに怒る、という景色が最初からクリアに見えていたのだろう。正直、ここでの武田鉄矢の熱血は、行動と結果を全て女性芸人に読まれていた。その上で、弄ばれていた。こうすれば武田さんの熱血は蘊蓄に繋がるし、こうすれば激高するだろう、と。
泉谷しげるがステージに登場して「こんにゃろう、おまえら」と叫ぶ時、聴衆の大半は笑っている。芸能レポーターに囲まれると、彼は必ず怒る。それを皆が待っている。「泉谷さん、いつものやつお願いしますよ」とお願いする必要は無い。必ずやってくれるからだ。いつも荒々しく振る舞わなければならない泉谷の胸中とはどんなものなのだろうか。しかもその「荒れ」が笑顔をもって歓迎されていく心境とはどんなものか。本当は好々爺の濃度を高めたがっているのかもしれないな、高田渡のドキュメンタリー映画に映った彼を見ながらそんなことを思った。常に熱くなければならない人は、その高熱状態を否が応でも平熱としなければならない。風邪なのに毎日出社だ。これは辛い。
市原隼人のデビューは「リリイ・シュシュのすべて」である。そのころは、自身から熱血を発露させていたわけではなく、むしろ、ある鬱屈を瑞々しく演じていた。個人的に記憶が強いのは、こちらも本格的開花を前にした上野樹里と共演した「虹の女神」だろうか。映画同好会で上野の作る映画に出演させられる市原は、女の子に翻弄される男の子を的確に演じていた。市原隼人に現在付着しているあの熱血、あの高温、あれらはどこで築き上げられたのか。それは言うまでもなく「ROOKIES」ということになるのだろう。市原のインタビューをいくつか読んでみて思うこと、それは、クソ真面目だということ。役があれば、その役に没頭する。この度公開されるボクシング映画「ボックス!」では、撮影の控え時間であっても、リングから離れようとしなかったという。と、自分で言う。こうでなければならないという負荷を自分にかけていく。エースで4番という熱血の極致を演じた「ROOKIES」からいくつか立て続いた同系統ものを演じる中で、そのキャラクターごと自分のキャラクターとして染み込ませたのかもしれない。再確認するが、ほんの最近まで、彼はこうではなかったのだ。どこかでシフトチェンジをした。前章(其の二)で新入社員に向けてメッセージを発する市原を取り上げたが、これほどまでに「おい、おまえら」とメッセージを発するタイプではなかった。人のイメージとは恐ろしく不安定なものだ。現状認識を上塗りで覚えていく際に、記憶している最も古きデータから消去してしまうと、人は「なう」だけでその人を捉えてしまう。そういう単眼は人の迷走を見つけられない。逆に当人はイメージチェンジで乗り切れてしまう。市原隼人はこんなに熱血では無かった、この始点に気付くと、熱血一本やりには何がしかの加圧が含まれているのではないかと勘ぐりたくなってくる。つまり、本当に彼は、熱血でいたいのだろうか、という疑いだ。
長渕剛のDVDを観ていると、彼は懸命さに欠けるスタッフを怒鳴り散らし小突いている。本気じゃねえ奴は許さねえよと。本気同士が集結していいもん作るんだと叫び、喉から血が出るまで声を荒げる。荒げ終えた後、結束が生じる。成分は高校野球のそれと同様だ。長渕がフォークシンガーだったころの声色を聴くと、とても素直である。黒々とした肉体を晒し国旗を背にジャパンと歌う現在形とは結びつかない。どこかに転機はあったのだ。しかし、その転機を今、問う人はいない。黒々筋肉ジャパンが長渕なのだ。市原隼人は、この手の熱血、「おい、おまえら」と呼びかけるメッセージを信じすぎている。そのメッセージが通じやすい仕事ばかり選んで続けたのだから当然の事だ。でもこれからは、通じやすい場面ばかりではなくなるだろう。その証拠にバラエティに降り立った市原の熱血一本やりは、素直に機能しなくなってきた。苦笑と失笑の中間に落とし込まれている。さて、その時にどうするか。これが市原の運命を決める。大げさではなくそう思う。武田鉄矢のように弄ばれても、泉谷しげるのようにお約束になりすぎてもいけない。長渕のように国旗を筋肉で背負う決意は、彼にはまだないだろう。
市原隼人はラップに傾倒している。自分で作詞した楽曲があるようだし、「ボックス!」ではRIZEとの競作を主題歌にしている。手をYO!YO!と上から出した例のアレでPVに映っている。古い、やや古い、いや、3年くらい古い。この古さに無意識なのが辛い(格好は数年前のSLIPKNOTだ)。ラッパーが大言壮語を連発すると、一気に寒風が吹きすさぶ。自分の熱血はいつだって維持されていると思えば思うほど、その寒風は、当人と聴き手の間に入り込んで溝を作ってしまう。市原隼人自身が恐らく一番のクリエイティビティ&パーソナリティーであると信じているであろうこのラップ、これを押し出しすぎると、客は一気に冷める。俺はカート・コバーンの生まれ変わりと言って、ロックバンドを組んだ誰かのようになってしまっては、待ち受けているのは失笑だけだ。「おい、おまえら」と前へ押し出していく一本槍をいかにシフトチェンジしていくか、維持するのならばその維持方法を探す、これが当面の生命力を決める重要な点となるだろう。
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