其の一 「スガシカオが好きな人を好きになれない」と言い続けてきた理由
自分の大好きなミュージシャンやタレントや作家をせせら笑われる経験は誰しもお持ちであろう。その瞬間、苛立つわけだ。当然、問い返す。すると、その相手はその対象を何も知らないようなのである。それでいて、その対象に対する嫌悪感を述べてくる。更に苛立つ。でも、自分はそうはならない。苛立たない。その対象について何も知らないのに、とある嫌悪感を抱くのは何故なのだろうかと、相手の理由を何としてでも知りたくなる。そこで更に問い詰めると、相手は、その対象の深部には全く触れない外枠から見える風景を存分に語ってくれる。いわゆるイメージというやつである。そのイメージを聞くと、必ず、その対象に対して新たな視座を与えてくれる。
ファンというのは盲目だ。失敗した毛染めを見ても、「そのアンバランスな染まり具合が素敵よね」と言うだろうし、高音が出ずに肝心要のサビメロを客に歌わせる怠惰を、客は、「会場が一体になってたよね」と感激していたりする。その素敵や感激はファンの中の文脈でしかない。ファンだけに囲まれていると、その対象はファンを道連れにして「離れ小島」と化してしまう。そうならないためにミュージシャンは不特定多数のフェスティバルに出たり、俳優はバラエティに出たり、タレントはドラマに出てみたりする。全ては、盲目に陥らない、限られた民に囲まれないための予防線のようなものだ。
僕はスガシカオのことを殆ど知らない。それなのに、「スガシカオが好きな人を好きになれない」と事あるごとに言ってきた。大変失礼な話である。しかし、こう言ってしまっても大丈夫な環境を感じていたからこそ、堂々とそう言えてこれたのである。ザッと見渡して5、6人、まあここで「スガシカオが好きな人を好きになれない」と言ってしまっても大丈夫だろうと思って口を滑らすと、おお、確かに誰の怒りも呼び込まないのである。むしろ数名が、あっ、何か分かると少しだけ体を前のめりにし、他は、いやよく分かんないし、と話を適当に流す。とにかく、場の平穏は保たれたままなのだ。どこで何度やってもそうなのだ。つまり、自分の生活環境にはスガシカオ好きがいないのであった。しかし、狭い自分の生活環境といえども、それなりにいくつかのゾーンはあって、それら全てで許されるのは、非常に珍しい。坂本冬美でも、ジェームス・ブラウンでも、Hey! Say! JUMPでも、誰かはそれが好きだった。でも、スガシカオは大丈夫だった。
スガシカオとそのファンの群れは、自分の生活圏とは全く関わりの無い離れ小島にいるのではないか、その調査のために「スガシカオが好きな人を好きになれない」と挑発的に言い続けてきたわけだが、これからもずっとその設問を投げても大丈夫だという自信がついてきてしまった。何だか本末転倒で、その自信を身につけても使いどころは無い。それに、物事のルールとして、対象を嫌う前に、対象を掘り下げなければならないってのもあるだろう。メインタイトルを「サングラスの向こう側」としたのは、ファンはそのサングラスの奥にある眼差しを知っているだろうし、やや適当な読みだが、その眼差しを愛でる理由とするのだろう。こちらは、それを知らない。ならば、あのサングラスの向こう側はどうなっているんだろうかと探しにいかねばならないが、探しきれないだろうという自覚が、早速ある。だから、この場を動かぬまま、見える風景を語る。目の前を横切る、或いは遠くに見える、スガシカオのサングラスの「表面」を語っていく。
スガシカオというのは、どうしてもアーバンライフというような言葉に代表される「気取ったオシャレ」によって成り立っている印象がある。そして、その気取ったオシャレを保持するような見てくれを崩そうともしない。だから、こちらはそのアーバンに、「(笑)」をつけてスガシカオと付き合ってしまう。しかし、本人はそうでもないようだ。2007年に発売された「別冊カドカワ」のスガシカオ特集本を開くと、デビュー当初から「スガシカオ=アーバン・ポップス」と言われることに対する苛立ちを感じており、ボジョレー・ヌーボの解禁日と発売日が重ねたリリースイベント時には、マスコミから「壁際に立って、ワイングラスを揺らした画をください」と言われたことを嘆いている。スガはそこで、「その頃のイメージが強いのか、いまだにアーバン・ポップスっていう人がいますからね(爆笑)」と笑い転げているようなのだが、おお、ここか、ここに分かり得ない溝があったのかと、気付くことになる。堂々と言おう、スガシカオという離れ小島にいる本人とファン以外は、まだまだスガシカオをアーバン・ポップスだと思っている。「え、だってそうでしょ」と、平然とした顔を崩さないだろう。でもスガは、「いまだに〜」と爆笑している。この差なのである。ライターが同行したツアー日誌にはこうある。「世間ではいまだに?暗い、気難しい、陰険etc.?というイメージがあるらしいが、ほぼ10年を通じてそう思ったことは一度もない」。しかし、こちらから遠方に見えるスガシカオは、言わば「石田純一の、ちゃんとした版」のような立ち位置という認識がいつまでも改まらない。記者会見とゴルフコンペだけが仕事としか思えない石田純一に、それなりの才能を与え、世間が、「であればそのままで宜しいのでは」と黙認しているのがスガシカオではないか。隠れ家レストラン的、タワーマンション的、シーサイドホテル的需要。これらをネタに使っているのが石田純一、これらを実際に使っているのがスガシカオ。離れ小島の外は、少なからずスガシカオにこういう視線を向けている。そしてその視線をそのまま飲み込むサングラスであり、光り物であり、服装であり、(次章以降でじっくりと話題に出すが)その手の歌詞を書くのだ。だから島の外はそこでスガシカオを「決定」してしまう。
唐突に分析へ入っていくが、スガシカオには、兄貴肌の素養が見えて来ない。ここに、こびり付くアーバンライフを溶かしていけない理由があるかもしれない。実際はどうなのか知らない。とにかく見えて来ないのだ。同じミュージシャンで、年齢も遠くない奥田民生や山崎まさよしやトータス松本を考えて欲しい。彼等の音楽も個人的には遠い存在だが、彼等は決して離れ小島にはいない。ちゃんとこっちのどこかにいる、という気がする。それはやはり、兄貴分としての成分濃度にかかっている。彼等はお兄ちゃん的要素を存分に保有している。ではお兄ちゃん要素とは何なのか。分かりやすく具体名を出してみる。最近気付いたのだが、お兄ちゃん要素とは「所ジョージ的加点」と「リリー・フランキー的減点」に絞られるのではないか。このどちらかがあれば、兄貴肌は容易に強調されていく。所ジョージ的加点とは趣味人としての多彩さである。最近の所ジョージは、実は趣味人なんです、ではなく、趣味人ですという前提でテレビに降りてくる。必死に趣味人をアピールするヒロミとはこの順序において差が歴然としているわけだが、どうだろう、例えば奥田民生なんて、この所ジョージ的立ち振る舞いが目立つようになってきたのではないか。音楽に全神経を注ぐというよりも、どこか、のほほんぶらぶらと、しかし、ギターを持たせればやっぱり民生だよなあという兄貴分テイスト。ファン以外の人間も、音楽という枠組みから飛び出す趣味要素の膨らみをキャッチしているから、例え彼の音楽が好きでなくとも、奥田民生は積極的に認知されるのである。加点の一方で、リリー・フランキー的減点。「東京タワー」の爆発的ヒットと反比例するように露出を控えているリリー・フランキーはここ最近口を開けば「ウツっぽくて…」とネガティブな発言を繰り返している。男が40歳になればウツも一つの嗜み、とブツクサ呟く彼には、あっという間に人が群がっていった。いやもう俺はダメよという引き際宣言に、下の世代がわらわらと引っ付いていく。スガシカオとリリー・フランキーには交流があるようで、スガシカオデビュー10周年に際して、スガにこうコメントを送っている。「また、二人でくすぶったり憤ったりしましょう」。実にリリー・フランキーらしい発言である。しかし、それをスガに向けた場合、全くしっくりとしない。「くすぶる」という減点を嗜んでいるようには到底思えないのである。やはり、ワインをくゆらせてしまうのだ。兄貴分になれない、その為の加点も減点も出来ていない、バンドではなく単体で活動するシンガーソングライターにとって、これは小さな不足ではない。自分自身は外に開かれていると信じていても、世間は、メディアは、まだ会員制ワインバーにいるのがスガシカオだと、夜景の見える最上階のタワーマンションで熱帯魚に餌をやるのがスガシカオだと、信じ込んでいる。僕もその1人だ。でも彼やファンやスタッフは、そんなことは無いと強調する。このズレを解き明かしにかからない手はない。次回より具体的なテーマを持ち出しながらスガシカオに迫っていく。ただし、離れ小島にいるスガシカオに、ボートを必死に漕いで近づいていくような真似はしない。それは、ズレを解消する手段にはなり得ない。あくまでもこちらから見えるスガシカオだけを語っていく。離れ小島に寄り添っているファンにとってはこの長文は噴飯ものかもしれないが、これをスガシカオと共に爆笑し合っている限りは、スガシカオからアーバンライフが取り除かれることは無いであろう。それだけは分かって欲しい。
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