其の三 誰がバタコの死を見届けるのか? 〜無縁社会のこれから〜
漫画タイガーマスクの主人公・伊達直人を名乗る贈り物が全国で相次いでいる。孤児院「ちびっこハウス」で育った伊達直人の名を借りて、全国の児童養護施設を中心にランドセルなどが届けられているようだ。「善い事をしてあげたいが表立ってやるのは恥ずかしいと感じる日本人の国民性がこのような形で表出したのだろう」との分析をテレビで見かけた。なるほどそうかもしれない。しかし、その番組の少し前のニュースを思い返ば、大阪の元資産家姉妹が残金90円という状態で餓死したという報道だった。スタジオのコメンテーターは誰もそれを結びつけようとはしなかったけれど、タイガーマスクのように匿名ではなく、誰しもが名を名乗り特定の顔を持った上で家族や隣人と接することが出来ていれば、児童養護施設で育たざるを得ない子供たちの苦境が生まれることも、マンションの一室で年老いた姉妹が餓死するなんてことも避けられたのでは……というのは、話を都合よく整理しすぎなのだろうか。
連日報道される伊達直人現象を見ながら、「善い事をする」とはそれなりに負荷のかかる行為ではなかったかという雑念がよぎっていた。外からのやっかみ、施し具合の調整、それらを乗り越えて善い事は成されていく。国民の眠っていた善意が一気に噴出したという見方もあるが、噴出した割にこれは偶発的に終わるのだろう。この国の自殺者数は13年連続で3万人を超えた。もはや、人の心の奥底を探るのは簡単ではなくなった。人生を諦めた人のサインに気付くことが難しくなってしまった今、マンションの隣室で餓死し、団地の一室で孤独死し、どこそこで自死を遂げる個人を、どうやって見つけ出せばよいのだろうか。
個々人に向かう善意の不在によって生じた、身寄りを一切持たずに死んでいく「行旅死亡人」が年間32000人に及ぶのだという。昨年の自殺者数が31560人だから、ほぼ同様の人数が、誰に見守られるわけでもなくたった独りで死に至っているわけだ。この32000人の実態に迫ろうと企画されたNHKの番組「無縁社会」及びその書籍版にあたると、家族という線と仕事という線の双方が分断された途端たちまち孤立してしまう人間の姿が見えてくる。妻に先立たれた夫は、迷惑がかかるからと子供にはすがらない。会社を何十年も勤め上げて定年を迎え、ようやく退いた途端、誰1人として自分に声をかけてくれなくなる。すると、気付けば何ヵ月もまともな会話を誰とも交わさないケースすら生じてしまう。生涯未婚率が男性20%、女性10%とグイグイ上昇する現在にあって、近しかったはずの周囲が少し遠ざかるだけでたちまち孤立してしまう世の中の仕組みは、ますます冷淡に整理されていくのだろう。個と個の接着をできるだけ回避する社会なのだと認識してから考えてみると、タイガーマスクと児童養護施設のやり取りには確かに見事に個が欠けていたなと、その善意の性質になんだか納得してしまったのである。
パン工場に住み込みで働いているバタコは、この先どうなっていくのだろうか。何せバタコの出生については全て謎に包まれている。パン工場に訪ねてきた親族や友人もいなければ、バタコ宛に手紙が届いたこともない。単独で出かけていくこともないから、恋人の存在は無し、と考えるのが無難だろう。パソコンや携帯電話など持っていないから、実はこの人チャットで知り合ったの、と彼氏を紹介するなんて可能性も無い。相棒のチーズにはレアチーズちゃんという恋人がいる。こういう言い方もなんだけども、彼は彼なりによろしくやってるのである。バタコが人と接するのは仕事の交流においてのみである。パン工場の仲間達、そして配達先の常連さん、バタコの周りにはそれくらいしか接する人(orパン)がいない。雇用主であるジャムおじさんは独身である。詳しい年齢は明らかにされていないが、おじさんと呼ばれているのだから50歳は超えているのだろう。バタコも年齢不詳だが、通学はしていないので義務教育は終えていると思われる。つまり、もう子どもではない、ということだ。今、男性の平均寿命は79歳だから、ジャムおじさんは長くともあと30年もすればいなくなってしまう。加えて、連日の激務である、いつ病に伏して体を壊しパン作りを諦めなければならなくなるか分からない。やなせたかしは「アンパンマンの顔は、ジャムおじさんにしか作れないのですか?」という設問に対して、こう返答している。『ジャムおじさんが指示をしながら誰かに作らせることは、たまにあります』(「アンパンマン大研究」より)。逆に考えれば、ジャムおじさんがいなくなれば、新しいアンパンマンの顔を誰一人して正確に作れないということになる。バタコは一生懸命手伝いをしているものの、パン屋稼業を継ごうとする気概は感じられない。つまりこのままいくとジャムおじさんの死は、イコールでアンパンマンの死をも意味する。同居しているメロンパンナもアンパンマンと同様に、ジャムおじさんの手によって新たな顔を交換する必要性があるから、ジャムおじさんがいなければ生きられない。チーズが何歳かは分からないが、最も長生きする犬で20年と言われているから、こちらも残念ながらいつまでも一緒にいることは出来なさそうだ。
カレーパンマンやしょくぱんまんは別の所に住んでいるし、そうなると、数十年後、バタコはあの丘の上のパン工場で独りになってしまう。周辺のみんなが気を利かせてこまめに連絡をくれるかもしれないが、責任感の強いバタコのことだから、「大丈夫よ」と繰り返すはずだ。パンを作りながら手際良く洗濯までこなすバタコは、例え独りになっても充分に日々の暮らしをこなしていくことだろう。しかし、人は誰でも年を重ねれば、体に不自由が生じ始める。「無縁社会」に登場した多くの人がそうだったように、その時、必ず当人は素直にその不自由を認められないのである。俺はまだ出来る、私はまだ大丈夫、そうやって、自分を誤摩化しながら自分だけが自分を肯定していく日々を繰り返していくと、いよいよ限界に達するまで人の助けを得ずに過ごしてしまう。周りには自分の変調に気付いてくれる人は誰も残っていない。そして、誰とも接点を持たずに、1人淋しく人生を閉じていく。「無縁社会」とは、地縁、社縁、血縁の崩壊がもたらすものだとされる。となれば、将来バタコが頼るべき最後の望みは地縁ということになろう。バタコがパン工場に留まっていれば、オトナになったカバお君たちが定期的に見舞ってくれるかもしれない。しかしバタコがあの土地を離れ、別の土地で暮らし始めたとしたら、たちまちバタコは孤独になる。長いこと弁当工場で働き、工場内でも親しくフレンドリーだった男性の行方を、工場のスタッフの誰も知らない、「無縁社会」ではそんなケースも描かれていた。
アニメの中の状態が実生活までに定着してしまった言語に「マスオさん状態」がある。マスオさん状態、つまりは、妻の実家に同居する主人のこと。あまり肯定的に使われる言葉ではない。「うちはなんたって、マスオさん状態でして……トホホ」といった苦々しい使われ方が一般的だ。しかし、どうだろう、無縁社会の現在において、マスオさん状態はとても良好な家族形態と呼ぶべきではないか。例えば、マスオがサザエに先立たれたとする。しかしマスオには息子のタラオがいるし、サザエの弟・妹であるカツオとワカメがいる。実の兄・サケオもいるし、その息子・ノリオもいる。サザエに先立たれても、周りには気遣ってくれる人たちが多くいる。誰かに助けてもらっている、このダイレクトな感触がやっぱり人を助けていく。マスオは数十年後に「マスオさん状態」を、この状態があってこその自分だったのだと、噛み締めながらしみじみ漏らすことだろう。妻の実家に同居するかどうかは別にしても、かつての家族形態は、こうやって、平然と助け合う社会の基軸となっていた。鍵を閉めず開けっ放しにして近所付き合いを歓迎する社会が一方で排他的な考えを助長したという側面を大いにあるだろうが、この近さが個人を育ませてきた。国民的なアニメを考えてみても、サザエさんのみならず、ドラえもんにしても、ちびまる子ちゃんにしても、そこには、密着した家族とコミュニティーの存在があった。
一見それらと同様に思えるアンパンマンだが、数十年後を考えてみた途端、アンパンマンだけ、何やら不穏な気配が見えてくる。そして、そこに取り残されるのはバタコである。「縁が繋ぎ止める社会」から「無縁社会」へ、これがNHKが提示した現代日本の姿であった。ならば、こちらはそれに準えてこう定義付けよう。「マスオさん状態」から「バタコさん状態」へ。匿名で量産されるタイガーマスク、温かく守られるであろうマスオ、実生活にアニメをかぶせていくと、バタコの姿だけが、とっても淋しくうつる。
彼女のこれからはどうなるのだろう。ある着眼を忘れていた。バタコは妙齢の女の子であった。ならば男性と結ばれる可能性を多いに秘めている。一概には言えないが、伴侶を得れば、ジャムおじさんの死だって、チーズの死だって、アンパンマンの不在だって、夫婦で力を合わせて乗り越えていけるのではないか。無縁社会の主因のひとつに未婚率の上昇があることは先ほども示した通り。バタコと恋愛、この着眼を探らずして、バタコの未来を考えていくことはできない。次回は、女性としてのバタコをじっくりと見つめていくことにしよう。
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