其の四 バタコが女になる時 〜アンパンマンジェンダー論〜
バタコ情報の収集に励んでいると、ツイッターを中心に「バタコさんとおむすびまんって実は夫婦らしい」という根も葉もない情報が広まっていることが発覚した。公式見解を絞り込んで考察していく本稿の立場から考えると噴飯ものである。おむすびまんはひたすら旅を繰り返す定住先を持たない旅人であるから、バタコのいるパン工場に寄れるのは近くに立ち寄ったときだけである。互いに携帯やパソコンを持っているならば遠距離恋愛ないしは別居婚も難しくはないが、バタコは一切の通信手段を専有していない。隠れて逢瀬を繰り返すことも、日常の雑務に追われる彼女には難しいだろう。「アンパンマン大図鑑―公式キャラクター2000」にあたると、バタコに対する思いを公的に明らかにしているキャラクターが唯一存在する。「たぬきおに」である。おそろしやまに住んでいる彼のプロフィールには明確に「バタコさんが好き」と書かれている。「バタコさんとあかちゃんたぬきおに」という回では、部屋中にバタコさんの似顔絵が貼られ、今ごろバタコさんは何してるのかなーと恋い焦がれるたぬきおにの姿を確認することが出来る。たぬきおにはその後、あかちゃんたぬきおにに化けて、バタコに抱っこしてもらおうと近付くのだった。万が一、おむすびまんとバタコが婚姻関係にあるならば、このたぬきおにの想いは明らかに不適切な感情ということになる。つい先日、人妻・大桃美代子から男を奪った麻木久仁子は、レギュラー番組を降板させられたわけである。何年も続く優良な幼児番組でこのような不適切な感情が垂れ流しになるはずはない。言うまでもなく、バタコは未婚である。
「恋のから騒ぎ」がこの3月で終了し、17年の歴史に幕を閉じるのだという。素人女性と明石家さんまの絡みの作法は、ここ数年固形化していた。キャラクターの用意のされ方も常に前年を参照しているようで縮小再生産の感が否めなかった。あの番組に登場する女性たちの話は、いつでも比較の話だ。もれなく比較を繰り返す。周りの誰それに比べて私は、前の彼に比べて今の彼は、と、対象に反射させて自分を定め、その後で他人の位置を定めていく。対象がいなければ1歩も動けない、とりわけ異性の存在がなければ身動きは取れぬとする所作が当たり前のように貫かれる。男女共存の社会の中、この環境が曝け出されていることへの嫌悪が視聴者に生じ始めていたのかもしれない。上野千鶴子は「女ぎらい ニッポンのミソジニー」の中で「男は、男の世界の覇権ゲームで、他の男たちから実力を認められ、評価され、賞賛されるのが好きだ」とし、女を、「せいぜい、男が『男になる』ための手段、または『男になった』証明として与えられたりついてきたりする報酬にすぎない」と憤怒を露にしているが、この怒りをそのまま「から騒ぎ」の女性にぶつけると、そこにいる女性たちは、なるほどその男と女の役割分担を心底から肯定しているように見える。この番組の視聴率が伸び悩んで打ち切りになったのだからその性質が根から変化しようとしているのかもしれないが、少なくともこの15年は、この価値観が維持されてきた。「恋のから騒ぎ」とは女は男の付随であると理解した上でその付随の仕方のアクロバティックさを披露する会合だったのだ。あの番組から数々の女子アナが生まれたという事実は、男の付随としての女を映し出していた番組の「釣果」としては象徴的であろう。
そうはいっても、男の中の物語が整った時点からでないと恋愛が始まらないとするのはいささか旧時代的だろう。しかし、上野の言うミソジニーに「から騒ぎ」的世間が呼応しているとするならば、その謂れもあながち間違いではなさそうだ。男が、男の物語で自身を肯定しがちなのは確かである。「女社長」や「キャリアウーマン」という言葉が平然と残っているのは、その何よりの証拠だろう。そこに流れているのはいっつも男の物語、だから、マンにウーをつけるのだ。バタコの周りには、ジャムおじさんしか男がいない。僕らがバタコを女として見ないのは、周囲に男がいないから。工場内には、ジャムおじさん、バタコ、チーズ、アンパンマン、クリームパンダがいる。このいつもの光景から、男女の特別な感情を探し出そうとはしないだろう。バタコが秘めているかもしれない想いに勘付くこともない。なぜならば周りが男ではなくパンだからだ。ならば試しに、この登場人物を、パンではなく男と女に変えてみよう。全て仮名とする。「パン工場主任の木下佑二、パン工場補佐の伊藤バタ子、配達担当の竹山太一と新入りの前田沙織」。おお、こうなると、家庭的で穏やかなパン工場の光景が一変する。つまり、恋愛の気配が突如漂ってくるではないか。前田は親身に教えてくれる竹山の姿に好感を持っている。バタ子はそんな前田のことが気に食わない。その時にどうして私はそんなことを感じてしまうのかと、自分の中にある竹山へのほのかな想いに気付いてしまう……とまあ連ドラにありがちな流れが想像できる。バタコの性別はまぎれもなく女である。ロングヘアーでもなく、体のラインに凹凸があるわけでもないバタコは、ともすれば男の子なのか女の子なのかも分かってもらえない。でも本当にそれは、身体的特徴から判断されたものなのだろうか。否、である。もう一つの理由が大きい。周りに妙齢の男がいないからなのだ。おじさんとパンと犬しかいないから、そこにポツンと置かれている妙齢の人間の性別が問われずにすんでいるのだ。
アンパンマンの世界の中で唯一「恋のから騒ぎ」的に生きている「彼女」のことを考えながらバタコとの比較を試みると、バタコが女であることに視線が向かわないのは単に男が不在だからなのだ、と改めて気付くことができるだろう。そう、ドキンちゃんである。「私はドキンちゃん/なるべく楽しく暮らしたい/お金はたくさんあるのがいい/おいしいものを食べたいし/遊んで毎日暮らしたい」、これは「私はドキンちゃん」という彼女のテーマソングの一説である。どうだろう、まるで「恋のから騒ぎ」に必ずいる傲慢な女キャラの欲望そのままではないか。さんまの説教部屋に呼ばれる常連になりそうだ。希望の暮らしを実現させてくれるのは、自分ではない。異性だ。その異性をいかに手に入れるかしか頭にない。ドキンちゃんのしょくぱんまんに対する愛情は露骨だ。実はドキンちゃんもばいきんまんもしょくぱんまんも性別が規定されているわけではないのだけれど、ドキンちゃんにバレンタインのチョコレートを欲したばいきんまん、そんなばいきんまんにはあげずにしょくぱんまんにあげようとするドキンちゃん、このやり取りからは、明確な恋愛感情とそのもつれが浮き彫りになっている。なぜドキンちゃんがしょくぱんまんを好きになったのかという問いには、公式解答が存在する。三たび「アンパンマン大研究」から引用してみよう。『わがままな女の子は、なぜかマジメな優等生タイプを好きになることが多いのです。名作「風と共に去りぬ」での、スカーレット・オハラとアシュレーの関係と似たようなものです』とある。もうひとつ、「しょくぱんまんは、ドキンちゃんのことが好きなのですか?」に対する答えも引っ張っておこう。『しょくぱんまんは、誰にでもやさしいのです』。異性に対して高いハードルを求めるドキンちゃん、そんなドキンちゃんに対しても分け隔てなくやさしく接するしょくぱんまん。アンパンマンを恋愛ドラマとして実写化するならばドキンちゃんを沢尻エリカに、しょくぱんまんを桜井翔あたりに演じさせるのが適役かもしれない。ばいきんまんは言わずもがな、高城剛である。
ドキンちゃんのしょくぱんまんに対する想いは、あのアニメの中で浮いている。しかし、その想いとは、ドキンちゃんの存在証明の骨子となっている。もし、その想いが封印されていたら、ドキンちゃんの存在は不明確なものになるだろう。でもそれはバタコだって同じかもしれないのだ。女性としてのバタコの想いはとても曖昧である。繰り返しになるが、それは単に、周りに異性がいないから、という理由にすぎない。「女にはふたつの価値がある。自分で獲得した価値と、他人(つまり男)によって与えられる価値だ」と上野千鶴子は言う。バタコという存在は、その前者だけで象られてきた。後者は全くない。上野の議論を更に単純化した結果がバタコなのか。上野の議論に準えると、男がいなければ、女は女であると存在証明できないということになる。だから僕らは、性別を定めぬまま、バタコを見てしまうのであろうか。
バタコが「恋のから騒ぎ」に出演する姿を想像する。恋愛経験を一切持たないバタコは周りの派手な話に困惑を隠せないだろう。ある人の姿がバタコとダブる。小林麻央である。海老蔵と結婚した小林麻央もこの「から騒ぎ」の出演者だった。男性経験を一切持たないと番組内で自ら吐露し、周辺の開けっぴろげなトークにひたすら困惑していた彼女はその8年後、芸能界きってのプレイボーイと結婚することになる。バタコもどうなるかは分からない。何度も言う。バタコを女として見られないのは、単に周りに妙齢の男がいないから、それだけの理由だ。このバタコの姿は、ジェンダー論としても、大きな命題を背負っている。男がいなければ女ではいられないのか、この答えを今後のバタコを見守ることで探し出していけばと思っている。
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