其の三 趣味。異物を潰すこと。
場末の居酒屋に行くと、それなりの権限を持ってそうなサラリーマンが極論を飛ばし合っている。翌朝にはケロッと忘れる彼等なりのドリーミングな光景だ。「本当に最近の若手は使えない」「まったくだ。いくら言ってもあいつらの仕事には軸が出来ない」「鍛練が足りないんだよ」「自分で何とかしようとする気持ちが無い」「俺らの頃は、もっと自分から仕事を見つけてきたもんだけどな」。ふぅぅぅ。ため息ひとつ。ポケットを叩くとため息が2つ。こんな場面に立ち会うと、おいらたちワカモノはいかに目の前にある事象に寛大で、次なる案件をけなげに探る生き物であるなと、勇気を頂戴してしまう。それにしても不愉快。軽く頭を下げて店を出る。
石原慎太郎は、ニートについてこのように話している。「ニートなんて、ふざけたやつがほとんどだよ」。場末の居酒屋で話しているわけではない。都知事としての記者会見の質疑応答でこう漏らすのだ。「ふざけた」の度合、「ほとんど」の度合、これらをそのまんまにしてしまう。平社員都民から都の社長に申し上げますと、そちらの責務とは、この度合を数値化し詳細を明らかにして円滑に効率化させるための回路を作ることではありませんか。個人的な考え方かもしれないが、個々人から差別を完璧に排除するのは難しい。差別心が残ったとする。んでもって、差別するならば、それなりに根拠を示さなければいけない。それが差別する上での最低限でのルールではないか。ニートのほとんどがふざけているのならば、その根拠を示さなければいけない。根拠を放り投げて、印象だけを積み上げていくと、議論は全て場末の居酒屋と化す。しかし、残念ながら、石原はこの場末の居酒屋の雰囲気で終始暮らしてきた。自分が気に食わない相手を、猛毒を塗りたくった印象論で排除し続けてきた。同性愛者に対して「どこかやっぱり足りない気がする。遺伝とかのせいでしょう」と言う。論ずる気が失せてくる。ニートと同性愛者、同じ断じ方なのに気付けていただけるだろう。在日コリアンを中心に諸外国への排他的な発言の数々は少し調べればいくらでも出てくるので列挙は控える。83年、総選挙の出馬時に、対立候補のポスターに「66年 北朝鮮より帰化」という数千枚のシールを貼付けた「黒シール事件」など、自分が成り上がるために卑怯なやり口を平然と行なってきたことも忘れてはいけない。
場末の居酒屋に居座ってるだけでは街行く人々はちっとも見えてこない。人種、性別、年齢……街は当たり前のように雑然としている。揉め事も起こるが、打ち解けもある。だから、面白い。石原慎太郎の特技である「駆除」は、その可能性を否定してしまう。「青少年健全育成条例」改正問題もその駆除の一つだ。関連サイトがいくらでも立ち上がっているので詳細はそちらに譲るが、簡単にまとめておく。改正の骨子は、過剰な性描写の漫画やアニメの取り締まりの強化にある。「刑罰法規に触れる性交若しくは性交類似行為又は婚姻を禁止されている近親者間における性交若しくは性交類似行為を、不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力を妨げ、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの」の販売に規制をかけるというもの。表現の自由を統制するだけではなく、販売元の自主規制によって制作者は表現の萎縮を余儀なくされてしまう可能性が生じかねない。都が規制を強め、コンビニ店頭から追いやられればその雑誌は廃刊に追いやられる。なお、石原慎太郎が任期を終える間際に改正案は可決している。
問題点は、法案の曖昧さにある。引用した条例部分から引っ張るだけでも、「性交類似行為」「不当に賛美」「阻害するおそれがある」とあやふやな文言が連なる。ニートを「ふざけたやつ」とし、同性愛者を「どこかやっぱり足りない」とする、雑な把握と表現で極論へ暴走する石原慎太郎とその門下生らしい条文である。余白を残して、その余白を権力という名の土砂で埋め込んでいく前段階を整え終えたのだ。漫画家を中心に反対運動が生じていることはご存知だろう。具体的な統計的根拠を示せと申し出ても返答は無い。全て、感覚だ、何となくだ。警察庁「犯罪統計書」によると、強姦被害者数は3000人を超えた60年代後半をピークに減少し、2000年に入った辺りで微増したものの、統計データとして最新の2006年には808人に減少している。事件の認知件数ゆえに全ての実態が明らかになった数値ではないが、昨年6月に緊急出版された「非実在青少年<規制反対>読本」の中で山本弘氏が書くように、「被害に遭っても堪え忍ぶ女性は、昔の方が多かったのではないか」と考えるのが自然だろう。未だ808人も被害者が生じていることに強い憤りを覚えつつも、後発メディアである過激な性的描写を含むアニメや漫画によって性犯罪が増加しているとする事実を確定することは難しい。
要するに、エロ漫画・エロアニメを駆除したいだけなのだ。理由は、十八番の「何となく」だ。東京都青少年問題協議会議事録には、出席者のこんな発言が残っている。「漫画のひどいものが出ているといったら、その人たちはある障害を持っているんだというような認識を主流化していくことはできないものか」。お分かりだろうか、これが、この改正案の真意である。石原慎太郎を支える副知事の猪瀬直樹はツイッターで「マンガの関係が好きな人のなかは人生行き止まりと感じている人が多い」と呟いた。統計データを揃えもせず、感覚で物事を定め、戒める。ノンフィクション作家というかつての肩書きが泣いている。小説は規制に含まれないのかとの質問に、東京都は、「小説は、(中略)捉え方や感じ方が千差万別であって、絵や映像のように一律・具体的・客観的な印象を与えるものとは言えません」と返答している。開いた口が塞がらない。小説家である知事を懸命にかばうかのような陳腐な迷言である。
この返答を頭に入れた上で石原慎太郎のデビュー作『太陽の季節』を振り返ってみよう。「ボクシングに熱中する男が夜な夜な出会った少女と肉体関係を重ねるが、彼女に飽きた男は女を自分の兄に5千円で売りつける。男の子供を身ごもっていたことを知った女は、中絶手術を受ける。手術は失敗し、女は死ぬ。」要約するとこんな感じの話だ。「生んで良い?」と聞かれた後の男の心情をこう書く。「出来た子をいちいち生ませる馬鹿が何処にいるだろうか」。なんじゃこりゃ。救いの無い下劣な話である。小説は「一律・具体的・客観的な印象を与えるものとは言え」ないというが、僕には一つの印象しか沸き立ち得ない。この物語を多角的に読めないこちらの読解力が劣っているのだろうか。
この小説がきっかけとなり、乱れた男女関係を奔放に興じる面々が「太陽族」と名付けられ、映画化された『太陽の季節』など石原慎太郎の作品のいくつかが「太陽族映画」と称され、各地の映画館で公開が規制される騒ぎとなった。この経緯から略称「映倫」こと「映画倫理委員会」のもととなる機関が始動したことは忘れてはならない事実だ。歴史は繰り返す。しかし、規制された側が、数十年後、対した論拠も持たぬまま何食わぬ顔で規制の側に回った現状に対して、厚顔無恥という言葉しか用意できない。こちらはそちら様と違ってデータを示しておこう。「太陽族」が現象として持ち上がった1950年代後半、未成年の強姦犯検挙人数は急増する。1958年は4649人、1959年は4599人、1960年は4407人である。なお、2006年は113人である(警察庁『犯罪統計書』)。こうしてデータを引っ張り出して比べると作為的だ・社会情勢の違いだと反論の余地が生まれるだろう。ならば、その具体的な反論をいただきたい。感情論ではなく数値面での、この40倍の差についての反論を。
石原慎太郎には、愛人との間に生まれた隠し子がいる。本人も認知しているという。隠し子がいる人々を根っから嫌うわけではない。奇妙な言い方だが、隠し子のいる男とだって、楽しく友人関係を築けるだろう。しかし、この男に、漫画やアニメは性犯罪を助長すると決めつけられた上で、表現の幅が強引に定められるのだけは許し難い。屁理屈を一つ。「青少年健全育成」というが、青少年とはいつだって不健全に育成されていくものだ。その差し出された不健全とどう対峙するかが、その個人の育成に跳ね返る。20代後半の自分にはその実感がまだ残っている。つまり、先輩から差し出されたエロ本をどう読むか、友人から回ってきた非合法のビデオをどう見るか。臭いものに無理矢理フタをして更地に見せかけると、いずれやってくる異物はとことん肥大化した状態で襲いかかる。漫画はダメで文学は良し、老人だらけの同人誌が公民館の会議室で開く寄り合いのような戯言を、都政レベルでやってはいけない。
なんだか邪念に火がついてしまった。『太陽の季節』を良しとして漫画をダメとし「青少年育成」を謳うのであれば、その都知事の『太陽の季節』とやらには、その育成のために必要な知恵が詰まっているのだろう。この本を現在の青少年に読ませたらどうなるのか。あの手法を借りてみようと思い立った。昨年のベストセラー、ドラッカーの「マネジメント」を読みながら野球部を立て直していく小説『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「「マネジメント」を読んだら』だ。もちろん、タイトルはこうだ、『もし高校野球の女子マネージャーが石原慎太郎の「太陽の季節」を読んだら』。さて、マネージャーは、健全に育つことが出来るのだろうか。次回は、創作を試みる。
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