其の五 「なんだかんだで石原さん」の理由
いつの間にか金八先生が終わっていた。武田鉄矢の、役と本性が同居した説教癖は、自分が学生の頃から全く好きになれなかった。自家発電と思しき熱血が、空回りを避けるためにあちこちに強制噴射されているようにしか思えなかったからだ。ドラマでは、用意されたストーリーが熱血の補填をしてくれていたものの、ちょっとした番組にゲスト出演した際の金八テンションの持ち込みは痛々しかった。なぜって、「ちょっと正論を言わせて下さい」と顔に書いてあるのだ。正論かどうかを決めるのは受け取る側のはずだが、もう既に顔に書いてある。議論をふっかけるのではなく、最初から自分なりの結論を述べる。いきなりフィナーレだ。エンディングだ。番組のMCは困る。さっすが武田さん、とか、半笑いで適当におちょくると、真剣に怒ったりする。実に大人げない大人に映る。「人という字は人と人とが支え合ってできている」と彼が言う度に、自分はずっとこう思ってきた。でも、明らかに2画目(右側の人)が1画目(左側の人)を支えていやしないか、と。この手の正論を支えるのは、そうかやっぱり声なき人々なのだと気付く。武田鉄矢に「人という字は」と言わせるために、2画目の人は重荷に耐えながら1画目の人を黙って支え続けてきたのだ。
石原慎太郎の政見放送を繰り返し見ていた。震災後の暴言を得意の開き直りで鎮火させて、「選挙なんかしている場合ではない」と、有事に求められる分かりやすいリーダー像を急いで作り上げた。政見放送で彼は言う。今の日本人に必要なのは、「自分を捨ててでも、人、仲間を思うという心を取り戻すこと」だと。ウソをついてはいけない。いやウソではないのかも。なぜならば、この人にとって「人」とは、武田鉄矢が言うところの1画目のみだからだ。つまり、影で支える、或いは重荷を背負わざるを得ない2画目の「人」を、そもそも仲間だとは思っていない。女性であり、障害者であり、外国人であり……この連載を通して書いてきた、相手を否定することでしか日本男児であるオレを肯定できない彼特有の作法を知った上で聞くと、どうしたって白々しさしか沸いてこない。「子供達を救うために乱れた風紀を統一して戒める規制も進めてきました」と続ける彼に、強姦件数が戦後最大になった1950年代後半、その起因となった「太陽族」の生みの親は誰だったかとご助言さしあげたくもなる。『創 2011年2月号』の記事によると、「自分の著書が有害呼ばわりされたのを忘れたのか」と問いかけたジャーナリストに対し、石原慎太郎は「何ぃ。ものを比べてみろよ。それがわからなければバカだよ、お前」と怒鳴ったという。「もの」については前回比べたつもりなのでご一読いただきたいが、自分に真っ当な理由で反旗を翻してくる存在にバカと言ってしまえる無神経な頭から、「仲間を思うという心を取り戻せ」と言われて、首をタテに振ることが出来る人などいるのだろうか。
いや、いるのだろう。いるからこそ、彼はずっと都知事のままいられるのだ。皆、深く掘り下げぬまま、この人を享受してきてしまった。全5回・各3000字強、この程度の文量を石原慎太郎に割こうとも、「なんだかんだで石原さん」というこびり付いた印象論はなかなか覆らないのかもしれない。しかし、へこたれずに最後まで進める。今回の選挙公約の10か条の中に「世界で勝つ、知力・体力・人間力の強い若者を育てる革命的教育改革を断行します」とある。スケールの大きな話を補填する詳細が何一つ見あたらない空言じみた公約だが、この人が示唆する「世界で勝つ」とは、経済競争の中で日本が優るという意味合いよりも、肉体的な勝利を所望する気配が漂っているから末恐ろしい。諸外国への排他的発言が連なるのもその一因だが、なにかっちゃあ戦争を持ち出して、戦争を忘却し弛緩しきった日本を嘆く作法を持ちネタとして放つ。電力事情や被災地への配慮から「花見を自粛せよ」と言いたかったらしい話は、最終的にこうなってしまう。「戦争の時はみんな堪えてやったんだ、自分を抑えて。じゃなかったらあんなエネルギー出てこないんだ、戦には敗れたけどね。あの時にあった日本人の連帯というのは強かったし、美しかったと思いますな、私は」。北朝鮮がノドンを開発すれば、「いいじゃないか、1発日本に落ちたらいい。そうすれば日本人は自分たちの稀薄さに気がつくはず」と答える首長、何だかもう、そろそろ差し向ける言葉が自分の辞書には残っていない。最前線で被災地の復興や原発の復旧にあたる自衛隊や東京消防庁の勇気に涙を見せた石原慎太郎の記憶からは、弟・裕次郎のお見舞いに行くために海上自衛隊機を小笠原諸島に呼びつけて非難を浴びた記憶などどこかに飛んで消え失せているのだろう。08年、妊婦が都立病院などに受け入れを拒否され死亡した事件の後に、「あれは医療事故ではない。非常にレアケースでね」と言った男に、「強い若者を育てる」と言われて頷ける人はどこにいるのだろう。雑誌『編集会議』を読んでいたらこの「CINRA.NET」の紹介が載っていた。このサイトは「10代後半〜30代の男女にご覧頂いています(月間約50万人)」という。つまりは若者が数多く読んでいる。ならばその皆さんに改めて問いたい、どうしてこの男のことを突き詰めずに判断してしまうのか。この男の特技は「ズバリ言ってくれる=先導」ではない。「むやみやたらに言い放つ=扇動」なのだ。こんな粗雑な言動に扇動されなくても、独自に「知力・体力・人間力の強い」人間になろうとしているのが、若者ってものだと信じたい。
震災後、世が混沌としている。混沌とした世は常にリーダーを求める。石原慎太郎は都知事選をできるだけ静かにこなすべしと繰り返しているが、その静けさを自らの揺るぎないリーダーシップに転化させようとしている。いくら突っ込みどころが満載でも、その静けさを利用して、辺りを黙らせていく。このままいけば今週末10日の都知事選は、間違いなく石原慎太郎再選という結末を迎えるだろう。「なんだかんだで石原さん」という消去法の票は、この有事に増殖する。経済がとてつもない打撃を受け、あらゆる不安が増長され、自らが社会的弱者に陥る可能性を易々と想像できるようになった今、どうして「なんだかんだで石原さん」なのか。様々な働き・動き方をしている皆々のその生活がグラつきかねない未曾有の事態にある。あるべき位置から転落することもあるかもしれない。では、その弱者を徹底的に排除してきたのは誰だったのか。石原慎太郎である。この人を、感覚的に愛でるのを止めにしないといけない。
石原慎太郎の作品には海が沢山出てくる。自身が育った湘南は青春群像そのもの、「海は俺の人生の光背だ」と彼は言う。光背とは、仏像の背後についている、仏像に射し込む光を表すための飾りのことである。同じく湘南育ちで石原より5歳若い加山雄三を震災後のチャリティ番組で見かけた。昨年デビュー50周年記念してリリースした、加山雄三とザ・ヤンチャーズ「座・ロンリーハーツ親父バンド」を歌っていた。「それぞれ色々ありまして/切ないながら生き抜いて」と破顔しながら歌う彼に、説教臭さは無かった。湘南を単に青春の謳歌として使い尽くしてきた若大将から単なる親父に転向した加山雄三、彼の身の引きっぷりは潔かった。その一方で、海辺で乱痴気騒ぎに興じた自身の道程まで後ろ盾に出来る石原慎太郎は、「日本をなめたらあかんぜよと悟らせるため」にオリンピック招致を決め、莫大な予算をかけて招致に失敗し、「何が贅沢かと言えば、まず福祉」として、特別養護老人ホームへの補助を181億円(85%)削減、挙句、「海は人生の光背」としてきた男は平然と「津波は天罰」と言い放った。海も仏も天も、さぞかし裏切られた気持ちでいっぱいだろう。
石原慎太郎はハッキリとモノを言う。しかし、ハッキリとモノを言っただけでは、物事は実際には動かない。放たれた瞬間から上滑りしている言質を強引に成り立たせるために犠牲になるのは若者であり、弱者だ。この連載のサブタイトルから引っ張ると、「必要以上に見かける気がする」人物のその理由を解きほぐす連載でありながら、終始、感情的な応戦が目立ってしまった。しかし、石原慎太郎がこちらに投げてくるボールが常に暴投なのだから、それを打ち返そうと思えば、どうしたって、無理な体勢を強いられる。体は捩れ、声は荒れる。「何故石原慎太郎を必要以上に見かけるのか」を探り返答を試みれば、どうしたってこちらの熱が高まってしまう構造なのだ。真摯に向き合った長大な石原慎太郎論がいくつも出ているが、それらも、書けば書くほど、熱が高まっていった。その回路に、書き終える段階になって気付いてしまった。
繰り返しになるが、人という字は人と人とが支え合ってできているが、実際は2画目が1画目を支えている。石原慎太郎という男はこの2画目を雑に投げ捨ててきた。こちらは投げ捨てられたくせに、幾度となく、あやふやな光を彼に当てて支えてきた。消去法で選んだ民意というやつだ。人という字の2画目が1画目を支えるのをやめたらどうなるか。1画目は、立つことすらできずに倒れてしまう。ならば、1画目は常に2画目への尊厳を持たなければならない。そこにいるのが、たとえ、子供を産めない女性でも、在日外国人でも、重度障害者でも、皆それぞれが踏ん張ってくれているから1画目は立っていられる。この「人」の漢字の作られ方に気付くと、石原慎太郎がいつまでも延命する理由、つまり、「必要以上に見かける気がする」理由が見えてくる。
この人のことを、突っ込んで考えてこなかったから、必要以上に見かけることになったのだ。単純で原始的だが、これに尽きる。消去法を繰り返すだけでは、暴投は打ち返せない。「なんだかんだで石原さん」という引き算的肯定が、この人の我欲の支えになっている悪循環に今こそ気付くべきである。僕らが気付こうとしないから、僕らはこの人をいつまでも見かけるのである。
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