其の四 小雪×スピリチュアル史
フランスのお城のそばで急に頭が痛くなった小雪。そのことを、霊感の強い姉・弥生に伝えると、「それは前世、ヒーラー(悩みや病気など癒すヒーリング能力者)で、その能力を独占しようとした人のために、フランスのお城に閉じ込められていたから」と言われたのだという。監禁されていた苦悩の割に頭痛程度で済んで良かったなと無・霊感男子の私は思うのでありますが、『オーラの泉』に出演した際、美輪明宏と江原啓之から姉と全く同じことを言われたそうだ。「女優という仕事に達成感、充足感が感じられない理由」を聞きに二人のもとを訪れた小雪は、女優という仕事が自分の意思を持たなくてもトントン拍子に進んでしまうことを心配し相談を持ち込んだ。しかし、「小雪さんは霊媒だから意思があってはいけない」と返されてしまう。挙句、江原は最終的に、「小雪の後ろに聖母マリアの姿が見える」と言い、前世で小雪は、お城から解放された後、修道の道に入り、マリア信仰をしていたと告げる。
『オーラの泉』は番組開始当初、深夜枠での放送だったにもかかわらず、15%超えの視聴率を獲得していた。ゴールデンに進出してもなお、人気を博していた。そんな『オーラの泉』について、興味深いデータがある。「2007年全国学生宗教意識調査」によると、「『オーラの泉』はやらせかどうか」との問いに、女性の78%、男性の85%がやらせの可能性を感じていると答えたのだ。つまり、番組を観ている人に彼等2人を根っから信じ込んでいる人は極少だったのだ。また、同番組については、全国霊感商法対策弁護士連絡会が日本放送協会と民放連に向けて番組内容の見直しを求める要望書を提出するなど、人物像の行き過ぎた断定と予期が繰り返されるために、霊感商法への加担となりかねないとの危惧を募らせていた経緯があったことも覚えておきたい。小雪は、江原と美輪と弥生に同じ事を言われたと記した後に、フランスのお城にいたからか、「ファブリックや食器は、『何気なく手にとってみるとフランス製だった』ということがしゅっちゅうある」とエッセイに書いている。自分の周りにいる雑貨好きの女性に聞くと、「そんだけ、体にフランスの血が流れていれば、手にとる前にフランス製と予測がつくはずだよ」とズバリな反論をしてくれた。
この日本で、スピリチュアルブームが巻き起こるのは、60年代にアメリカで盛んだったニュー・エイジが輸入された70年代後半のこと。スプーン曲げや、ユリゲラーらが登場し、80年代には、皆さんかすかに記憶に残っているであろう宜保愛子が登場する。あの頃のテレビ番組を思い起こすと、やたらこの手のネタが繰り返し放送されていた。サイババ人気も同系統の番組によって盛り上げられたと記憶する。不治の病を治し、手から灰や指輪などを出す超能力を持っているとされたサイババであったが、今年4月に死んでしまった。自分では90代で死亡し、その数年後に生まれ変わると予言していたらしいが、84歳で亡くなってしまった。信者は今、どんな理由をこしらえているのだろう。90年代に入ると、やはり半ばに起きたオウム真理教事件によって世の「あやふやな思想」を避けられるようになるが、世紀をまたぐ頃になると、江原や細木が人様の人生に深入りしてあれこれ述べる場面を多く見かけるようになる。
小雪は、そういったスピリチュアルブームに加担しているわけではないとする。占いやパワースポットやパワーストーンにさほど興味は無い、自分がスピリチュアルを学ぶのは、あくまでも「自分の魂の成長のため」としている。しかし実際問題、スピリチュアルブームの極致こそ、小雪のような意見を持つものなのだ。パワースポットで癒されたり、パワーストーンを持って頑張ろうとすがったりするのは、人間が誰しも持ち得る神頼みの度合を少々強める程度のものだ。だがしかし、自分の魂の成長のためにスピリチュアルを用い始めると、或いはそれを外に積極的に発言し始めると、スピリチュアルの様相は変わってくる。何かを信奉するのではなく、自分を輝かせるためにスピリチュアルを、という考え方は、間口を広げようとする組織なりが信奉してもらうための近道として真っ先に差し出す甘言だ。例えばニュー・エイジは「ポジティブシンキング」という言葉を生んだ。積極性のある自分が輝きを得られるとする考え方だ。スピリチュアルビジネスがここまで大きくなった理由の一つに、敷居の低さが挙げられる。前向きになりましょう、小さなことに喜びを得ましょう……そうすれば、たまっていた不快感が溶け、気が晴れますよ……。こういった感覚的なことを拾い改善するために、スピリチュアルは必要とされる。先ほど紹介したように視聴者の多くは、『オーラの泉』をやらせだと思っていた。しかし、彼等は観ていた。それはおそらく、占いやパワーストーンと同じように、自分の日常と離れた所に日々の悩みや思いを臨時避難させる効能を、自分で都合をつけながら用意していたからだ。だからこそ、番組に敷かれている軽さを見破れたとも言える。しかし、小雪のように「魂の成長のため」にスピリチュアルを存在させてしまうと、話は変わる。三菱UFJリサーチ&コンサルティングがYahoo!リサーチと共同実施した「癒しとスピリチュアルに関する調査」によれば、癒し・スピリチュアル系商品・サービスを利用する人としない人では「人の話を信じやすいかどうか」「人に自分の気持ちを話すことに抵抗はないかどうか」に大きな差が生じたという。小雪が「魂の成長のため」と発することは、実は多く顧客をこのスピリチュアル業界に人を引き寄せることになる。スピリチュアル消費の中心は20〜40代女性であるから尚更。小雪が放つ「人の話」は、彼女たちには信じられやすいのだ。
5月16日、イギリスの新聞のインタビューで、ホーキング博士が「天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ」と話したことが話題になっている。博士は、昨年刊行した本の中で、「宇宙の創造に神の力は必要ない」と断言し、宗教界から批判を浴びていた。ふむ、なるほど。博士の論旨に納得しながら、思い出したくない話を思い出してしまった。自分は、中高とキリスト教系の学校に通っていた。毎朝8時40分から礼拝があった。クリスチャンの先生が、10数分だったか、キリストや聖書についての話をするのだ。いささか個人的な話が続くのは憚られるが、中学2年生の時に小学生時代の親友が交通事故で死んだ。信号無視のトラックにはねられ、即死だった。ショックを隠しながら毎朝の礼拝に座っていると、その日の担当の先生が、聖書に書かれた誰それの死を、「どんな死に方であっても、神様のご意志なのです」というような言い方をした。なんだこの大馬鹿野郎は、とはらわた煮えくり返る思いがした。今であれば、「ではどのような意志であったのでしょうか」と尋ねるかもしれないが、当時はそんな勇気がなかった。今でも、こうして書いているだけで怒りが再燃してくる。
宗教とスピリチュアルは違う、そう発言したがるだろう。誰が? おそらく両方がそう言うに違いない。歴史ある宗教は「スピリチュアルとは違いまして……」と言い、スピリチュアルは「そんな、宗教だとか大げさなものではなくって……」と言う。有本裕美子は「スピリチュアル市場の研究」(東洋経済新報社)の中で、スピリチュアルを消費するスピリチュアル・コンシューマーの特徴のひとつとして「人生で起こることはすべてが導き、学び」だと考える人、を挙げている。つまりは、物事に対して異常に受容的な人。小雪はスピリチュアルに傾倒する理由を、「世の中には理解できないことや神秘的なことで成り立っている部分もけっこう多いから、わたしは個人的には、そういうことに見えないふりをすることって、あんまりよくない」からとしている。屁理屈を言わせてもらうと、理解しようと思えば理解できることを放り投げてスピリチュアルにその忘却と再認証を依存しているだけではと言いたくなるが、当然だが思想信条は自由で構わない。だがしかし、どうしても、宗教にもスピリチュアルにも同様に敷かれている「すべてが導き」という考えにちっとも加担できない。
小雪は、人生とは行き先の分からない旅だとしている。目の前にあるものを丁寧に素直に選んでいく、そうすれば、善い道が待っている……らしい。先週末から公開された映画「マイ・バック・ページ」で、小雪の夫である松山ケンイチは革命を目指す活動家を演じている。全共闘運動が失速し始めた1971年、「大衆とともに武装蜂起する」と熱く語る。映画のコピーには「俺たちは“何を”信じるのか?」と踊る。松山ケンイチには、是非とも、そのキャッチコピーを家庭に持ち帰って小雪と話し合って欲しい。「スピリチュアルよ!」と諭されるのか、それとも「ひよっこが何言ってんのよ、革命なんて言ってないでゆっくりお休みなさい」と、かわされるのだろうか。
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