「フジワラノリ化」論 第19回 石川遼 どうして君はそんなに優等生なのか 其の五 真面目な青年の終焉

其の五 真面目な青年の終焉

アラサーという称号は、ほぼ女性に向けて用意された言葉と考えて間違いない。結婚適齢期だとかお肌の曲がり角だとか、世の中のアラサー男子にとっては総じて入りにくい議題が「アラサー」そのものであったりする。では男子は、どうなのか。30歳までに男子が必ず通り抜ける2つの挫折について共有を促してみたい。

1つめの挫折は、気付けば、自分の年齢が世の中のAV女優の大半を越えていたと知った時である。細々とした長期的な調査によれば、アラサー男子の世界において、AVという産物は、早ければ中1、遅くとも中2の夏くらいまでには男子生徒の殆どに一度は行き渡っている。うちの子はそんなことないとお思いの親御様、学習机の棚の下段と床の間にあるわずかなスペースをご確認下さい。サッカー部時代の渡辺先輩が部室で手渡してくれたのは中2だったか、その素材は、たちまちクラス中をかけまわることになる。そこに映し出されているのは、あってはならない世界だ。男子便所トーク的には、「こうあって欲しい」世界だったが、みんなウソをついていた。こうあって欲しいなんて次元じゃない、とにかく、あってはならない世界だった。遠い遠い世界だった。そういうものに慣れてしばらく経ち、20代の半ばくらいになって、はたと気づく。世の中のAV女優のほとんどが年下になっていることを。遠い世界だったはずのAVが、もはや自分より年下だらけで構成されていることに気付いたとき、自分の加齢、というものをほぼ初めて否定的に受け取るのである。永沢光雄の名インタビュー・ルポルタージュ『AV女優』シリーズを早くから読んでいたから、この世界の女性達に順風満帆な人生を送ってきた人がたったの一人もいないと、その壮絶な人生だけは知った気になっていた。その人生とやらが、自分より前にではなく、後ろにある、と知る。AVに出るような娘なんて、と蔑む考え方を1ミリも持たない男子は一人もいないと思う。自分も然りだった。その対象を自分がよっこいしょと乗り越えてしまった。どこを見て何を言ったらいいのか分からない途方も無い空しさを感じたのだが、この思いを共有してくれる男子はいるだろうか。

2つめの挫折は、活躍するスポーツ選手が押し並べて自分より年下になった時だ。アジアカップで優勝した日本サッカー代表、元気印の岡崎や、天才肌の本田が自分より年下だろうと気にならないのだが、精神的な支えとしてチームを統率し『心を整える。』なんて本まで出しちゃう、頼れる精神的支柱・長谷部誠が自分より年下だと分かれば、はい、そうですかとは流せまい。普段、年齢がどうだからと決めつけられるのを何より毛嫌いしているつもりだが、それはおおよその場合、世代が上の連中から「まだその年齢では〜だよ」「これくらいの年齢になれば〜」と、現時点では「未到達」だからしょうがないと雑な排除を下される腹立たしさにある。そんなもんは、放っておく。ただし、「長谷部が年下」というのは自分の中でひとまず煮込ませてみる必要を感じる。んで、『心が乱れる。』。高校時代、高校野球が嫌いだった。理由は単純。彼等は頑張っていて、自分はクーラーの効いた部屋でアイスを食べていたからだ。親に、「この子達は頑張っているねえ」と言われては、「いや、野球だけだよ、こいつらは」と答える自分には、何があったのか。ガリガリ君だけだ。そんな苦い夏を思い返す。しかし、思い返したところで自己肯定はできない。兎にも角にも、長谷部は年下なのだった。長友佑都だって松井大輔だって年下だ。ブックオフで安いCDを漁りまくり、案の定出来の悪い作品を「いや、この曲はイイ、だから300円の価値はある」と必死に肯定した夏の間、彼等は厳しい練習に立ち向かっていたのだから、それも当然か。なんて書いてみたけども、情けなさだけが飛躍的に倍増していく。

ある限られた世界での立ち位置を考えた時、芦田愛菜の芸能界における現在位置は、例えば建設業界に勤める君の、建設業界における位置よりも、遥かに上にいる。だが、君は「芦田愛菜に負けている」とは絶対に思わないだろう。素直に、「かわいい〜」と思うかもしれないし、斜に構えて「どうせこんな娘、誰かの人気と入れ替わって同じさ」と思うかもしれない。子役が天才スポーツ少年と異なるのは、見ているほうが、この可愛らしい子役っぷりがいつまでも続かないと知った上でそれを見ている点だ。逆に天才スポーツ少年の場合、もしかしたらこれは大成するかもしれないという目が光る。テレビに頻出する「極端に若い子」はこのどちらかである。極めてジャッジメントがしやすい。石川遼が、下世話な評価から逃れられているのは、自身のデビュー期に依るかもしれない。中学生時代から少年ゴルフの中でその実力を知られていた石川が対外的に評価されるのは、高校に入り、アマチュアながらツアー優勝をした時からである。劇的な勝利だったが、着実に手に入れた劇的さでもあった。となると、不思議なもので石川の才能がとりわけ羨ましくもなくなるのであった。個々人に、羨望としても嫉妬としても入り込んでこないところに、石川遼の逆説的な個性、つまり人の感情を刺激しない見てくれ/振る舞いがほとばしってくる。これほど、何とも思わない年下も珍しい。

石川遼には競争相手がいない。ゴルフの相手ではない。世間の評価としての相手である。浅田真央には安藤美姫がいる。高橋大輔には織田信成がいる。福原愛には石川佳純がいる。しかし、石川遼にはいない。スコアで石川遼に勝とうが、石川遼の評価はぶれない。石川遼がぶれるのは、石川遼的条件(若さ、実力、真面目、フレッシュ感など)を持った石川遼以外の誰かが登場した時だ。比較対象を見つけると、周りは、自然と優劣をつけはじめる。その優と劣が明確に区分されると、○と×の札を持って、ああだこうだと議論を始めるのだ。1991年生まれの石川遼と同い年の有名人を、常に「優劣」の中で奮闘させられる彼女達から引っ張り出すことが出来る。AKB48の前田敦子、板野友美、高橋みなみである。この3人とも、石川遼と同じ1991年生まれである。絶対的エースの前田敦子は、愛でられると同時に非難の的にもなる。板野友美は、どの時代にもあやふやな枕詞である「女性の憧れ」で持ち上げられている存在である。その枕詞は、実態を掴むのが難しい。高橋みなみは、ムードメーカーとしてのお調子者っぷりと、大人数を引っ張るそれなりの責任感が同居したリーダーだ。どうだろう、この3人をこうして並べてみるだけで、明確な差が生じてくる。一人一人を眼前に指し出されれば、個性は際立たない。しかし、比較対象があるから、善し悪しが際立ってくる。

「フジワラノリ化」論 第19回 石川遼

石川遼は、人を揺さぶらない。彼に心底苛立つ人はいないが、彼の成長に一から熱心に追従してみようとする人もいない。それでいて、誰それに比べて、と言えるほどの「誰それ」が周りに見あたらないからこそ、手持ちの「優等生」で固まってしまう。この固まり方はとっても消極的なものだ。引き算要素の無い「完璧」が素通りで認可されただけならば、人はそれに感心を持たなくなる。石川遼を「どうでもいい」と思う気持ちは、なにも受け手それぞれが選択したものではないのだ。誰しもそうなる回路なのだと、彼を追うにつれて確信が強まってくる。

スポーツ選手というのは、スッと消える。消えるきっかけこそスタメン落ちとか成績が残せない、なんてことだったとしても、そこからの消え方が残酷なほどスムーズだ。古巣でいくら堅実なプレイを続けようとも、今、中村俊輔を見る目はどうしても過去形になってしまう。比較対象のいない石川遼だって、いつそうなるか分からない。失礼な予測だが、このままいくと石川遼というのは意外と記憶に残らないゴルファーになるような気がする。長いスパンで考えれば、最年少優勝からの波は大きくウェーブしながら上昇しているのかもしれない。しかし、それは長いスパンだ。短いスパンで、その瞬間や、その試合、或いはバラエティーに出る瞬間ごとに石川遼を見る。ブレない、だからこそ、つまらない。どうでもよくなってしまう。

この慣れを打破するのは、真面目に考えれば考えるほど「色恋沙汰」しかない、という気はしている。一切の余白が無い彼に、否が応でも余白をつくるのが色恋沙汰である。20歳を迎える石川遼、ここから数年のどこかで、石川遼の恋愛方面の賑わいを確認することができるかもしれない。そのときに、どこまで地盤がぐらつくかを見据えたい。そこで、恋愛とやらが完全に分化した形、つまり、石川遼のこれまでの軌跡と全く別の所で語られ処理されるようなことがあれば、ああもう石川遼ってのはどこまでも稀少保護動物のように守られ、ある途端にひからびてしまうのだろうと結論を固めてしまう。競争相手のいない石川遼は、誰をどう乗り越えていいか分からない。それを周りも知っている。だからこそ、保護をする。大切にする。いつの間にか、子供の成長のサンプルになる。それを本人が守り続ける。その態度に、更に優等生サンプルの度合が二乗される。石川遼の「善」のインフレは留まることを知らない。どこかで絶ち切らないと、石川遼は短命に終わる。安定成長の優良児の臨界点について、そろそろ周りの人間が熟考するべきなのだ。いきなり「2ブロック」ヘアにしてきた石川遼のサインに気付く、今が、割と最後のほうのチャンスでは無いだろうか。



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