あの人の音楽が生まれる部屋 Vol.1:TOWA TEI

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あの人の音楽が生まれる部屋

ポップで洗練されたサウンドとタイトなビート、細部までこだわり抜いたアートワーク、意表を突いたコラボレーションなどで常に我々を楽しませてくれるミュージシャンのTOWA TEIさん。2000年に自身のプライベートスペース「VUスタジオ」を長野県に構えて以降は、「やりたい音楽を、やりたいときにやる」をテーマにしながら、意欲的に作品を作り続けています。今年リリースされた通算7枚目のアルバム『LUCKY』は、椎名林檎をはじめ多彩なゲストを迎えたバラエティー豊かなサウンド。様々な分野で活躍する、そんなTEIさんの制作スタイルはどのようにして培われてきたのでしょうか。彼の制作現場となる長野のプライベートスタジオにお邪魔させていただき、その秘密に迫りました。

テキスト:黒田隆憲 撮影:豊島望

TOWA TEI

TOWA TEI(テイ・トウワ)

1990年、Deee-Liteのメンバーとして米エレクトラよりメジャーデビュー。94年、『Future Listening!』でソロデビュー。楽曲プロデュース、映画音楽制作、CM楽曲制作などのほか、コラボレーションアイテムのブランディングなど活動は多岐に渡る。12年には『MACH 2012』リリース、東京、京都にてコラージュ作品を展示した初個展『ecollage』開催。13年7月10日に、最新作『LUCKY』をリリース。

http://www.towatei.com/

作ることが大好きだった子ども時代
幼稚園入園前にして雑誌デビューを飾る

長男として生まれ、3男1女兄妹の中で育ったTEIさん。小さい頃からものを作るのが大好きで、放っておけばずっと絵を描いたり漫画を描いたりしていたそうです。プラモデルの兵隊をハンダゴテで炙り、仮面ライダーや怪人に作り替えてしまうくらい器用で、そのコレクションには近所の友達も驚いていたとか。

TEI:幼稚園に入る前の頃、小学館が発行している子ども向け雑誌に読者投稿コーナーがあって、そこに絵を描いて送ったら掲載されたんですよ。親と一緒に行きつけの本屋へ行って、「トウワの絵、載ってるかねえ」なんて言いながらページをめくったら、本当に自分の絵が載っていた。そのときの気持ちというのはハッキリと憶えていますね。今でも自分のアルバムがリリースされて、レコード屋さんの店頭で大きく展開されているのを見ると、同じような気持ちになります。

そんなTEIさんが音楽に目覚めたのは中学3年生のとき。近所のレコード屋で偶然見かけたYellow Magic Orchestra(YMO)の映像に衝撃を受けたのがきっかけでした。次の日には、彼らの2ndアルバム『SOLID STATE SURVIVOR』を購入。当時、メンバーの坂本龍一がパーソナリティーを務めていたラジオ番組、『サウンドストリート』を毎週欠かさず聴いて、そこで紹介されているレコードを片っ端から集めていきました。

TEI:音楽が好きになったというより、最初はシンセサイザーの音をピコピコさせたかったというのが動機だったかも知れないですね。それで、少ないお小遣いをかき集めてKORGのMS-10というアナログシンセサイザーを買って、色んな音を出してカセットテープに録音していきました。最初は単にシンセで面白い音を鳴らしていただけだったんですけど、そのうち曲っぽくなってきて、コンテストに応募もしてみたんです。

音楽の才能を開花し始めた高校生時代
坂本龍一のラジオ番組の投稿常連に

―16才のときに作った最初のデモテープが、Rolandの『シンセサイザー・テープ・コンテスト』(審査委員長が冨田勲)でアイデア賞を受賞。賞品でTB-303とTR-606を手に入れ、『サウンドストリート』の投稿常連になります。

TEI:やってたことは、当時も今もあまり変わっていないですね。ループ感というか、繰り返しの気持良さが本能的に好きなんですよ。スティーヴ・ライヒとかファンクとか。初期のYMOにもファンクの要素はあると思うし。で、『サウンドストリート』で流れた僕の曲が、オムニバスのレコードに収録されることになって。そのときに「テイ・トウワってやつが毎回送ってくるデモテープのパッケージがカワイイから、ジャケットやらせない?」って坂本教授が言ってくれたそうなんです。なんか、自分でコラージュみたいなことやっていたんですけど、大したモノじゃないですよ、色んな素材をコピーして貼り付けたり、自分の写真をわざと質感粗くしてみたりとか。それで、当時立花ハジメさんが間借りしていた奥村靫正さん(YMOのアートディレクター)のスタジオに放り込まれて、空いてるスペースでデザインをやったんですよ。それが後にCDにもなった『DEMO TAPE‐1』です。

アメリカへの美大留学が機となって
ニューヨークの人気DJへ
Deee-liteの世界的成功とヒップホップへの接近

その後、単身ニューヨークへ渡り、パーソンズ美術大学のグラフィック・デザイン科に留学しながらDJを始めたというTEIさん。行きつけのクラブで亡命ロシア人のDJ・ディミトリーと出会い、彼に渡したミックステープがきっかけでDeee-Liteに加入します。1990年のデビュー曲“Groove Is In the Heart”は、イギリス / オーストラリアで1位、全米ビルボードポップチャート4位を獲得。同年のデビューアルバム『World Clique』は、ゴールドディスクを受賞しました。その後は押しも押されぬ人気DJとして活躍されるわけですが、いっぽう、Jungle Brothersや、A Tribe Called Questといった、当時のニュースクールヒップホップムーブメントの真っ只中で活躍していたグループの作品にも参加しています。そんな交流は、どのようにして始まったのでしょうか。

TEI:その頃にはNell'sという、プリンスがフラッとやって来てライブをやるような、当時一番流行っていたクラブで回すようになっていて、自分の名刺を作ったんですね。当時はDJの前に形容詞を付けるのが流行ってて、Jungle Brothersにハマっていたので「Jungle Dj Towa Towa」っていう名前にした。「トウワ」が2回続くとアフリカ人っぽいかな、みたいなノリで(笑)。それでJungle BrothersのDJを観に行って名刺を渡したら、「このデザイン誰がやってるの?」って興味を持ってもらったんですよ。

坂本龍一に続き、またしても「デザイン」が交流のキッカケに。翌日Jungle Brothersのスタジオに行くと、De La Soulのメンバーらが勢揃いしていたそうです。

TEI:そこのエンジニアがとにかくトロいんですよ。さっきから同じこと1時間くらいやっている。「そんな作業だったらウチで出来るよ。今使ってるネタも全部あるし」って思わず言ってしまって。それで彼らがウチに遊びにくることになったんですけど、レコード棚を見て興奮しまくってましたね。「おまえ、コレもアレも持ってるのか!」って。「ああ、レコード屋巡りしてきて良かったな」って、そのとき思いました(笑)。それからはウチでもプリプロをやるようになって、出来上がったのがJungle Brothersの2ndアルバム『Done by the Forces of Nature』です。ある日彼らのライブを観に行ったら、「こいつ、俺の同級生で今度デビューするからトウワよろしく」って紹介されたのが、A Tribe Called QuestのQ-Tip。アフリカ・ベイビー・バム(Jungle Brothersのメンバー)も、Q-Tipも、思いついたようにポケットから札束を出して、俺のポケットにクシャクシャのまま渡してくるんですよ。それがギャラ。「好きなレコード買えよ」だって。アイツら年下ですよ?(笑) Q-Tipなんて、レコード屋を店ごと買ったりしてましたからね、スケールが違います。

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