1997年のデビュー以来、ロックミュージックの「精神性」とダンスミュージックの「機能性」を高次元で融合させながら、常に孤高の存在として君臨し続けてきたBOOM BOOM SATELLITES。昨年1月に、8枚目のアルバム『EMBRACE』をリリース後、川島道行さん(Vo,Gt)が脳腫瘍を発症。治療のためにツアーをキャンセル、一時活動休止を余儀なくし、現在はその経験を経て芽生えた気持ちの変化や新たに見えた景色も音に込めながら、ニューアルバムを鋭意制作中です。ますます深遠なサウンドスケープへと向かう彼らの「創造のモチベーション」はどこにあるのでしょうか。都内某所にある中野雅之さん(Ba,Programming)の自宅を改装したプライベートスタジオに伺い、それぞれの子ども時代から今まで、そしてこれからの志を訊きました。
テキスト:黒田隆憲 撮影:豊島望
BOOM BOOM SATELLITES
(ぶん ぶん さてらいつ)
1990年、中野雅之と川島道行によって結成。エレクトロニックとロックの要素を取り入れながら、新しい道の音楽を創造し続ける日本屈指のクリエイターユニット。97年、ヨーロッパでデビュー。04年には映画『APPLESEED』の音楽を担当、その後もリュック・ベッソン監督の映画『YAMAKASI』やクリストファー・ノーラン監督『ダークナイト』で楽曲が起用されるなど、多くのクリエーターから愛されつづけている。これまでに通算8枚のアルバムをリリースし、15年に新アルバムを発売予定。
音楽にのめり込んだ二人の少年時代
物心がついたときから常に音楽が身近にあったという、神奈川県出身の中野さん。父親が家でかけていたクラシックのレコードや、オープンリールに吹き込んであったジャズ、イージーリスニング、映画音楽など様々な音楽を聴いて育ち、小学校高学年になると、自分でも音楽を作ってみたいと思うようになりました。
中野:当時はニューウェイヴとポップスの中間くらいの音楽が好きで、Orchestral Manoeuvres in the DarkとかHubert Kahとか、ハワード・ジョーンズとか、80年代にヨーロッパで流行っていたシンセポップ系のアーティストをよく聴いてました。もちろん、YMOは当時そこら中でかかっていたから刷り込まれていたし、その流れでKraftwerkも聴くようになりましたね。初めて買った楽器は、YAMAHA DX-100というFM音源のシンセサイザーで、その頃から友達5、6人で楽器を持ち寄って、曲作りみたいなことをやってた記憶があります。もちろん、当時はパソコンでレコーディングするような機材はなかったので、カセットデッキで、何度も音を重ねて録音していくやり方しかできなかったんですけどね。高校生になってバイトをするようになると、稼いだお金を全部つぎ込んで機材を買っていました。
一方、岩手県出身の川島さんが音楽に目覚めたのは中学2年生の頃。近所に住んでいた友人の影響でパンクやニューウェイヴの洗礼を受け、バンドを組もうとベースを手に入れます。
川島:その友達はお金持ちで、たくさんレコードを持っていたんです。Psychic TV(1982年デビュー、イギリス出身のエクスペリメンタルバンド)とかNew Orderとか、色んな音楽を聴くために、毎日のようにその子の家に入り浸ってました。『Ziggy Stardust』(1972年発売、デヴィッド・ボウイの5枚目のアルバム)とか、「かっこいいなあ!」と思って衝撃を受けましたね。でも当時、自分が好きなニューウェイヴ系のバンドを一緒にやってくれるギタリストが周りにいなくて、仕方ないからベースを売って、自分がギタリストになったことが、ギターを始めたきっかけです(笑)。
まるでレコード屋&スタジオかのような
大学時代の川島宅がバンドのスタート地点
そんな二人が出会ったのは、同じ都内の大学に入学してすぐのこと。学部も一緒で、学籍番号も近い上に、授業も大体同じだったため、毎日のように顔を合わせていたそう。音楽の話を通して、さらに意気投合していきました。
中野:川島くんは2日に1枚のペースでCDを買ってくるんですよ。親からの仕送りもバイト代も、全部CDに変わってたから、家に行くと山のようにCDがあったんです。なので、レコード屋に行くような感じで川島くんの家に行ってましたね(笑)。僕もそこまでではないにしろ、年間数百枚はCDを買ってたので、それを川島くんの家に持って行って一緒に聴いてました。当時はまだiPodなんてないから、ポータブルのCDプレイヤーとCDをカバンに詰め込んで、学食で聴きながらお互い持ってない音源を交換したりもしてたよね。
川島:もちろん、自分でも音楽をやりたいと思ってたので、大学に入るとすぐ機材を揃え始めました。まずは、ドラムマシンとカセットMTR。それから、自分がやりたかったヒップホップやループミュージックを作るとなると、サンプラーはどうしても必要でした。ただ、当時はまだ機材が高かったんですよね。一番ほしかった機材が25万円くらいしたんじゃないかな。なので、友達をそそのかして、一緒に使わせてもらったりしてましたね(笑)。
機材に関しては、中野さんの方が早くから興味を持っていたこともあり、「そういう音楽をやるなら、これを買った方がいいよ」と、川島さんにアドバイスをしているうち、いつの間にか一緒に曲作りをするように。90年初頭の当時は、イギリスで起きていたダンスミュージックのムーブメントが日本に台頭してきた頃でした。
中野:川島くんの家の機材で遊んでいるうちに、イベント出演のオファーが来たんですよ。それで「面白そうだから出ようよ」ってなったんですけど、そのときはまだオリジナル曲が1曲しかなかったので、ライブ用に何曲か作りました。かなり突貫工事的な始まりだったんですけど、それで手応えを感じるものがあって、その後もずっと続けることになったんです。そのときからバンド名は「BOOM BOOM SATELLITES」でした。当時売っていたデモを、先日久しぶりに聴いてみたんですけど、今やっていることとそんなに変わってないんですよね。聴けば、「あ、BOOM BOOM SATELLITESだ」って思ってもらえるかも。
ヨーロッパデビューを果たしたBBS
当時の海外リスナーのリアクションは?
97年、Aphex Twinなどを擁するベルギーのR&S Recordsよりシングルをリリース。ヨーロッパの『Melody Maker』誌は彼らのことを、「The Chemical Brothers、The Prodigy以来の衝撃」と報じました。98年には、同レーベルより、デビューアルバム『OUT LOUD』をリリース。ヨーロッパ大型フェスに多数出演します。
中野:当時の僕らは、海外では「エクスペリメンタルなことをやってる連中」として認識されていた気がします。今みたいにインターネットも普及していなかったし、ジャパニーズカルチャーが浸透していたわけでもないから、「何やら不思議なことをやってる日本人がいるぞ!」みたいな衝撃の目で見られてたのかな。海外のレイブやフェスに出ると、浮いたような存在でした。The Chemical BrothersやThe Prodigyは当時から引き合いに出されていましたけど、僕たち自身はそういうトレンドに対して「オルタナティブでありたい」という意識でやってました。
川島:色んな音楽から影響を受けてたし、それを取り入れたいと思っていたけど、最終的に自分たちはロックバンドなんだっていう意識は強くあったんだと思います。やっぱり、パンクミュージックが根底に流れているんでしょうね。
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