あの人の音楽が生まれる部屋

あの人の音楽が生まれる部屋 Vol.7:Jazztronik

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あの人の音楽が生まれる部屋

Jazztronik

クラブジャズ~ボーカルハウスのエッセンスを吸収した独自のポップなダンスナンバーに定評のあるJazztronikこと野崎良太さん。もともとヨーロッパのクラブシーンで注目を集めたのちに、逆輸入で日本に広まり、今や国内のダンスシーンで広く知られる存在になっています。それに加えて自身のライブ、アーティストのリミックスやドラマ、映画音楽の制作、さらにはクラブでの定期イベント開催やDJ業など多方面で活躍し、デビューしてから一貫してハイペースで音楽をリリースし続けるその創作意欲は、一体どこから生まれるのでしょう? 今回は制作の拠点となるレコーディングスタジオを訪れて、お話を伺いました。

テキスト:伊藤大輔 撮影:豊島望

Jazztronik(じゃずとろにっく)

Jazztronik(じゃずとろにっく)

野崎良太による特定のメンバーを持たないミュージックプロジェクト=Jazztronik。1998年にFlower Recordsよりデビューを飾ったのち、1st作『numero uno』がヨーロッパで人気を博し、日本でも話題となる。その後もJazztronik名義でポップかつ洗練されたダンスミュージックを数多くリリースし、国内外の評価を確固たるものとする。さらにDJとしても全国各地で主宰イベントを手掛け、作編曲家としては多数のアーティストに楽曲提供、ドラマ、映画音楽にも携わるなど、その活動の幅は多岐にわたる。

http://jazztronik.com/

ピアノという楽器を介した
葉加瀬太郎との一度目の出会い

Jazztronikの機材

野崎さんは、母親が音楽の先生であったこともあり、小学生の頃からピアノを習っていました。しかし、当時はレッスンがあることで友達と遊べないことを理由に、一度はピアノを辞めてしまったそうです。かつては矢沢永吉さんがとても好きだったという意外な一面も併せ持つ野崎さんが、本格的に音楽に興味を持ったきっかけは、当時台頭してきたニューエイジと呼ばれる音楽でした。

野崎:中学3年生の頃に、葉加瀬太郎さんが所属していたクライズラー&カンパニーのCDをいとこが聴いていて、それまで嫌々聴かされていたクラシックが、すごく分かりやすいアレンジになっていて驚きました。当時気になり始めていた電子音も入っていたので「これはなんだろう?」と思ったのが、音楽に興味を持った最初のきっかけです。その頃は同時にいろんな音楽に出会っていて、ジョージ・ウィンストンの“Longing / Love(あこがれ / 愛)”という曲が、テレビの天気予報で流れていて。それまでクラシックのピアノしか知らなかったのですが、違うジャンルのピアノ曲があることに初めて気が付きました。それからはどんどん音楽に興味を持つようになりましたね。

ダンスミュージックを作りながら
クラシック~現代音楽を勉強する高校時代

野崎良太(Jazztronik)

高校に入り、バンド活動を始めた頃はキーボーディストだった野崎さん。ハードロックバンドのMr.BIGのようにキーボードがいないバンドの曲をコピーするときは、自分で鍵盤アレンジを考えて演奏していたそうです。そんなバンド活動以外に、のちのJazztronikの形成にも影響を与えたのがダンスミュージックとの出会いでした。

野崎:高校の頃はテレビの『ダンス甲子園』の影響もあって、バンド仲間と同じくらいにDJやクラブに行ってダンスをやる友達が多かったんです。特に僕のまわりはダンスをやっていた友達がバンドに入ってきたり、その逆もあったりしたので、高校1年生の頃にオリジナルのダンスミュージックを作ることになったんです。それでカシオトーンを買って、初めての曲作りにチャレンジしました。最初の頃にはポール・モーリアの“オリーブの首飾り”のユーロビートアレンジみたいなトラックを作ったりして、雑誌のコンテストに音源を送ってましたね。入賞はしなかったのですが、悔しいなあと思ってのめり込むうちに、コルグから打ち込みもできる01/Wというシンセがリリースされて、親に頼み込んで買ってもらってからは、いよいよ本格的に曲作りに没頭するようになりました。

高校時代は放課後にバンド活動やダンスミュージック作りにいそしみ、毎週日曜は作曲を勉強をするため、先生の元に通って勉強に励んでいた野崎さん。ダンスミュージック、クラシック、現代音楽など、いろいろな音楽に夢中になっていたようです。

野崎:思い返せば、両極端なものが好きでした。ダンスミュージックが好きだったのは、ダンスをしたりクラブに遊びにいく地元の友達の影響が強かったですね。そういう少し不良っぽいコミュニティーや音楽とは別に、坂本龍一さんや葉加瀬太郎さんのような、少し高尚なイメージのある音楽に憧れてもいました。作曲の勉強を始めたのはお二人のプロフィールに「音大卒業」って書いてあったからで(笑)、音大に行けばああいう人になれるんだって思って始めました。昔は一度さじを投げたクラシックや音楽の勉強ですが、高校の頃はすごく楽しかったです。勉強するたびにいろんな発見があるし、自分の知らない音楽と出会えるのも喜びでした。

両極端な音楽漬けの生活を経て
ハウスへと傾倒、Jazztronikを開始

Jazztronikの機材

その後音大へ入学した野崎さんは、昼間はクラシック~現代音楽を介して作曲を学び、授業後はクラブへ繰り出しダンスミュージックを楽しむという、高校の頃から引き続き両極端の音楽漬けな生活を続けます。そんな野崎さんに最も影響を受けたアーティストを聞くと、「アーティストは絞れない……」と言いつつも、鍵盤のミュージシャンであればキース・ジャレット、チック・コリア、ハービー・ハンコック、ジョージ・デューク、ダンスミュージックではマライア・キャリーなどを手掛けたハウス畑プロデューサーのC&C Music factoryや電気グルーヴなどを挙げてくれました。ちなみに当時の野崎さんが作っていた音楽はテクノ然としたダンスミュージックだったようです。

野崎:当時はまだサンプラーが1台数十万円する時代だったので、その代わりにローランドのリズムマシンDr.Rhythmを使ってビートを作っていました。初めは、ユーロビートのような電子音をツマミをいじりながら作っていく感じが楽しかったですね。ハウスの場合はピアノやドラム、ベースの上に歌をのせる必要があったので、その頃の僕にはまだ難しかったんです。その後、ようやくAKAI Professionalのサンプラーを買ってテクノ魂に火が付きました。ヒップホップも作ってはみたものの、まだ日本語ラップが出始めたばかりだったので、友達のラップがイケていなかったのと(笑)、大学で作曲の勉強をしているせいもあり、短いループが主体だと物足りなくて。もっと曲を展開させたかったから4つ打ちのビートのほうが僕には向いていました。その後にMasters At Workなどの影響を受けてハウスへ傾倒していくのですが、Jazztornikの音楽性にハウスの要素が強いのは、たまたまハウスを好きになった時期と活動を始めた時期が重なったからなんですよ。

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