「スピリチュアル」という言葉が身近に交わされるようになった現代。それは、溢れる物質や情報に疲れた人たちの癒しのキーワードなのか、または時空を超えて綿々と語り継がれた精神世界の復権か? 「見えないなにか」である超自然的世界を、写真表現を軸として紹介する意欲的な展覧会が、東京都写真美術館で開催中のコレクション展『スピリチュアル・ワールド』です。今回ご一緒するのは、ロックンロールと仏教が交錯する『南無ロックンロール二十一部経』など、時空を超えたリアリティーの中で神話的物語を紡ぐ小説家・古川日出男さん。稀代の語り部と共に、スピリチュアル世界の巡礼の旅に出かけます。
理屈よりも感覚でスピリチュアル・ワールドをめぐる「旅」
日々の執筆の合間をぬって美術館にやってきてくれた古川さんと、さっそく会場へ。今回の展覧会は、3万点を超える同館収蔵品の中から、「スピリチュアリティ」をコンセプトに選ばれた作品で編まれたものです。宗教文化や民間信仰もキーワードに含むものの、理屈よりも感覚でスピリチュアル・ワールドをめぐる「旅」のような企画。入り口すぐの作品は、それを象徴するような鈴木理策『海と山のあいだ』でした。作家の故郷でもある聖地・熊野で樹木のトンネルの向こうにある青空をとらえた写真は、神秘的な異界への扉を思わせます。
古川:この道の向こう側は海ですよね、きっと。あちら側の世界に行きたいけど、その手前で留まっているような感じもある。目に見えないもの、眼前の世界を超えていくことがスピリチュアリティだとすれば、それを写真というメディアでとらえようという展覧会なんですね。
作品と作品が時空を超えてワープし、つながる体験
最初のセクション「神域」では、秋山亮二が瀬戸内海にある厳島神社をとらえた『旅ゆけば…』(宮島の記念撮影)など、日本各地の信仰にまつわるシーンが登場します。この写真は1970年代に有名な大鳥居の前で記念撮影する人々を写した現代的なものですが、そのすぐ近くには同じ神社を1898年に撮影した幻想的な1枚も。
古川:それぞれ、陸地側と海側から撮っているのも面白い。秋山さんの作品は「メタ写真」というか、信仰対象の神社そのものではなく、そこを信仰している人の姿を撮っていますよね。同じ「神域」が対象でも、時代や撮り手によってとらえ方も違うのがわかります。
また会場には、明治期の3D表現と言えるステレオ写真『万国実体写真』から、神社仏閣をモチーフにした数点も。名所巡りの代用品という意味もあったのか、毎月さまざまな観光名所や世界各地の生活風俗の写真が、少しずつセットで発売されるシリーズものだったそうです。
古川:今でいうデアゴスティーニ的シリーズですかね(笑)。「実体写真」というネーミングと、こうした「聖域」の組み合わせも興味深いです。そして、こうやって展示全体を見ていくと、異なる視点のスピリチュアリティが違和感なくつながってくるのも面白いですね。
それは、続くセクション『見えないものへ』でも同様です。伊勢神宮を初めて外部の写真家として撮影した渡辺義雄と、そこから40年を経て撮影した石元泰博。両者のとらえた正殿を、古川さんはじっくり比べるように見つめます。
渡辺義雄『伊勢神宮』内玉垣南御門から蕃塀、
瑞垣南御門を通して内宮正殿木階をみる 1953年
古川:渡辺さんの写した伊勢神宮には、あちら側の世界を手前の世界から垣間見るような、最初の鈴木理策さんの熊野写真と呼応する1枚もありますね。ここに写る社殿そのものはもう「式年遷宮」(20年に一度、社殿を建て替える重要な行事)で存在しない。でも、細部をアップでとらえたものは、最近の無機質な建築と対照的に、生き物から力強い「かたち」を学んでいるのが感じられます。また、40年後の石元さんの写真は同じく伊勢神宮を撮っていても、より女性的で柔らかいイメージなのが不思議です。
他、冒頭でも登場した鈴木理策の熊野シリーズから、清逸な滝の情景をとらえた大型作品にも古川さんは見入っていました。
古川:実際こういう場にいったときって、そうそう言葉が出てこないと思う。で、今僕もちょうどその感覚になっていて(苦笑)、つまりそういう写真ですね。三連写真になっているのが、まるで配置されたスピーカーのようでもあり、音が聴こえるまで観てみようとか、あんまり近寄ると本能的な恐怖を感じそうだなとか、観る側のいろんな感覚と記憶を刺激します。
さらに、戦後日本を代表する写真家・東松照明が沖縄諸島で写した写真群もあります。中でも印象的なのは、浜辺から海の向こうへ伸びるの女性たちの腕をとらえた1枚。海の彼方にある異界と現世の間を魂が行き来するという「ニライカナイ」信仰を連想させます。
古川:「あちら側」に行こうというより、こちらへ呼び寄せているようでもあり、この腕の女性たちのほうが霊力がありそうです。「太陽の鉛筆」というシリーズ名も印象的で、東松さんのお名前=「照明」が人工灯だとしたら、そこから自然の光に向かっていくということ? また、祭事の仮面などを見ると、意外と遠く離れた東北文化に近いものも感じます。
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恐山のイタコを陽気に撮った『婆バクハツ!』
霊峰・富士山や八百万の神々ー様々な地方に残る「俗神」は、ゆるキャラのルーツ?
次のセクションのテーマは「不死」。そこに写るのは「不死山」こと、霊峰・富士山の姿でした。19世紀のウィリアム・バルトンから、20世紀初頭のスライド「幻燈写真」、そして今を生きる写真家・石川直樹の連作まで、時代をまたいで焼き付けられた富士の姿。
古川:写真の黎明期から、富士山はずっと撮られ続けてきたんですね。「幻燈写真」は後から施された彩色やレタッチのような加工が絵画的で、大きな存在としての当時の富士のとらえ方を感じます。一方で石川直樹さんの写真には、山の中腹で鳥居をくぐった後、世界を見下ろすような1枚もある。まったく逆の視点とも言えそうで、ハッとさせられます。
向かい合う「神仏」セクションでは、昭和の巨匠写真家・土門拳が日本中の秘仏に迫った『古寺巡礼』と、土田ヒロミが各地の祭事に現れる神々の姿を白バックの前にさらけ出す『続・俗神』シリーズが、巨大なプリントで展示されます。
土門拳『古寺巡礼』室生寺金堂十一面観音立像 頭部 1972年
古川:土門さんの作品は、もはや写真による仏画ですよね。遠くから見てもすごい迫力。観ていると仏の目の中に入って「胎内仏」からみた世界はどんなものだろう、という想像も働きます。対照的に土田さんの作品は仮面の下にある生身の人間からの視線を感じる。あと、これを観ていると、いま日本全国で生まれている「ゆるキャラ」たちも、あれは森羅万象に宿る八百万(やおよろず)の神々じゃないかと思えてきました(笑)。
恐山のイタコを陽気に撮った『婆バクハツ!』
さあ、展示はいよいよ後半へ。ここからはセクションごとに単独アーティストのシリーズを取り上げ、個の視点、連続した流れによる濃厚な精神空間を体験していきます。内藤正敏の『婆バクハツ!』シリーズはその名の通りのインパクト。青森のイタコによる「口寄せ」(降霊)を軸に、彼女たちの生活を独自の目線で追いかけたものです。
内藤正敏『婆バクハツ!』月夜の盆踊、青森県赤倉宝泉院 1969年
古川:僕も恐山は訪ねたことがあって、恐いというより清澄な印象でした。でも、この写真はもうなにか心霊写真みたいで恐いですね。ただ、よく見ると笑顔だったり、お餅をかじってたり、陽気と言われればそうも思えてくる。『死霊の盆踊り』(1960年代アメリカの怪作オカルト映画)的というか(苦笑)。
続く、奈良原一高の『王国・沈黙の園』『ジャパネスク・禅』シリーズは、それぞれ北海道の修道院と横浜の禅寺を、洗練されたカメラワークでとらえます。
古川:この修道院はどこか東欧的な雰囲気を感じますね。厳しい規律に生き、見えないものを感じる禁欲的な信仰。その本質は、それこそもっとも写真に写りづらい。だから自然と、修道士そのものが被写体になったんでしょうか。禅のシリーズにも同じことを感じました。ネガポジを反転させた演出的な1枚などもあるけれど、狙い過ぎの感じはなく「その場ではこう見えたのか」といった想像も働きます。
インド・ガンジス川で繰り返される生と死の営み~横尾忠則の動く絵画『テクナメーション』
さらに、舞台は海を越えてインドへ。藤原新也の『全東洋写真』シリーズです。10数年かけて撮影・発表してきた聖河・ガンジス川での営みの風景が、一列に並びます。
古川:ちょうど川の流れのように、横一列につながって眺めていける展示ですね。沐浴などの日常に始まり、人の亡骸に噛み付く犬、野外火葬……今の僕らの暮らしからは遠い世界だけど、たとえば1000年前の平安京では似たような光景があったかもしれない。そのせいか異世界を見るというより、身近にある秘められた場所をノックするようで、ときにギョッとさせられる。じつは日本が過去にどこかへ置いてきたなにかを撮っている感じもあるのかな。最後にポイッと花を川面に投げて弔う1枚で終わるのもいい。
イタコ、修道士、インドの死生観。三者三様の精神世界がひとつながりの中で展開し、次はあの世の風景か? と思いきや、こちらの予想の斜め上をいく強烈な奇作が現れました。横尾忠則の『テクナメーション』シリーズ。ライトボックスと偏光板を使った「動く絵画」的な作品です。今回は、古代ギリシア、キリスト教、曼荼羅、日本神話などを思わせる10作品が一堂に集結。ヨコオ流「神々の交流」とでも言うべき眺めで、作品内から発せられるモーター音(?)も共鳴し合い、一種異様な幻想空間を生み出しています。
古川:すごいのが来ましたね(笑)。写真というより、一種の映像に近い? ここまでの作家たちが外界に不可視のスピリチュアルなものを見ていたとすれば、横尾さんはご本人自体がスピリチュアルなのかな? でも、日本におけるスピリチュアリティを考えるとき、たしかにこのキッチュ感覚も落とせないものとしてあると思う。作品が発する動作音もいい。鈴木理策さんの滝写真にも音を感じましたが、ここも滝が描かれた空間で、また違う「音」……。僕なら、この音をマイクで拾って、16チャンネルのスピーカーとかで展示空間に流したいです。
最後を締めくくるのは、数々の秘湯・温泉写真
展示のラストは一転して静謐な趣に。モノクロームで写し取られた秘湯の数々は、三好耕三の『湯船』シリーズです。意外ですが、神道の世界では湯船の形は棺桶につながるとの説もあるそうで、撮影された秘湯のいくつかは、巡礼や霊場といった信仰とも縁深い場所だとか。スピリチュアル・ワールドを巡る旅の終わりは、浄化・再生の原初空間?
古川:此岸から彼岸へのひととき、そしてまた帰ってくる場所としての温泉。これがカラー写真だと妙にほのぼのした感じになったり、また全然違ったでしょうね。そう考えると、「見えないもの」を見ようとするとき、「引き算で見る」という視点もある。また、キリスト教やヒンドゥー教には沐浴という清めの儀式があるけど、火山大国の日本には温泉があったか!と気付かされもしました。この展覧会全体を通して異界の入口がいくつも示されていましたが、そこで重要なのは、それらが時空を超えてリンクできるっていうことかな。ここで改めて、そんな風に感じます。
裏テーマは明るいオカルト? テーマパークのように『スピリチュアル』を訪ねて回る小さな巡礼の旅を終えて
最後に本展の担当学芸員・石田哲朗さんも交えて、展覧会を振り返ってもらいました。写真を軸にした「スピリチュアリティ」にも様々なとらえ方がありましたが、そもそも古川さんは今回、どんな気持ちからこの取材を引き受けてくれたのでしょう?
古川:まず単純に恐山や津軽など、自分も行ったことのある場所の写真が多そうで、それらを僕と違う表現者がとらえるとどう写るのかに興味があったんです。もともとカメラというのは、撮る人が見たいものを引き出し、浮かび上がらせるところがある。つまりなにかを写すことは、自分の本当の姿をさらけ出すことにもなるわけです。物質性がなく、しかし世界を作っていると思われるスピリチュアルなものを確認したい衝動がそこに加わるとすれば、なおさらでしょう。今回は、いわば4次元的なスピリチュアル・ワールドを、2次元的な写真というメディア中心でとらえる点も興味深かったです。
石田:僕が嬉しかったのは、古川さんが作品を1点ずつ観るだけでなく、作品同士に色々なつながりを感じ取りながら観て下さったことです。じつは、展示作品を通して時代や場所を超えたリンク感覚を体験してもらえたら、というのが企画の1つの狙いでもあったんです。
古川:展覧会において、観衆はある流れの中にいるというのは、いつも思うことです。あの順序で観たから感じられたこともあると思う。最後の秘湯写真を観終えたとき、それがまた最初の作品、鈴木理策『海と山のあいだ』に通じるような感覚もありました。そこから広げて言うと、人が神や秩序のようにある種の絶対的世界観を設定する一方、その世界は再編できる、というのも重要な考え方ですよね。
「学芸員さんにとっても、こういう展示をあれこれ思索しながら組み立てるのが一番楽しいのでは?」と尋ねる古川さんに、石田さんは笑顔でこう答えてくれました。
石田:もともと、当館の収蔵写真にスピリチュアルな世界を扱ったものが少なからずあると感じていたことから企画したんです。僕自身、神社仏閣巡りが好きですが、特に信心深いわけでもなくて。たとえば神社って、実際に行くとなにかがあるわけではない。なにもない空間が信仰の場となり、その地域に精神的に根付いたものとして残っている。ではそこには一体何があるのか? そういったことにも興味がありました。
「聖域」「目に見えないもの」といったキーワードをちりばめつつも、どこか身近な存在として感じられる要素も多々あったこの展覧会。そのあたりは、古川さんの目にどう映ったのかも聞いてみました。
古川:たしかに「西の彼方に極楽浄土が……」みたいな世界だと、今の僕らにとってはいろんな意味で遠すぎますからね。特に1990年代以降、身近なスピリチュアリティというのが目立って語られてきた印象もあります。「あなたのオーラはなに色?」とかね。その意味ではこの展覧会も、富士山の写真などを除けば、マクロよりもミクロな視点があったとも思う。ちなみにスピリチュアルに「ワールド」を加えてタイトルにしたのは、どんな理由が?
石田:ある意味、テーマパークっぽいイメージにしたい思いがありました(笑)。一見、軽薄そうだけど、中身はガツンと迫ってくる展示にしたくて。じつは裏テーマは「明るいオカルト」で、といっても奇怪なイメージというより、「目で見たり、触れて感じることができないもの」という本来の意味においてです。それらを過度に神聖化したり、理屈っぽく考えたりするより、それぞれの感覚でスピリチュアルなものをとらえるきっかけになればとの想いがありました。
内藤正敏『婆バクハツ!』お籠りする老婆、青森県高山稲荷 1969年
ところで、古川さんの小説にも神話的な要素が随所に感じられます。犬の視点で20世紀戦史をとらえ直す『ベルカ、吠えないのか?』、現代の東京で交錯する奇妙な群像劇『LOVE』、輪廻と流転の大叙述詩『南無ロックンロール二十一部経』など。しかしそこでの「スピリチュアリティ」は、崇め奉られ、ご利益を期待されるような何かとも異なります。むしろ突き放すような淡々とした語り口の中に、能動的な「スピリット」が息づく物語?
古川:ふつう小説は、現実からなにかを切り取るところから始まります。そこは写真家と近いものがあるのかもしれません。でも、僕は小説を書くとき、現実をシャットアウトしたくなることがある。物語を作るために、自分の内側で世界の源泉みたいなものを探り、そこから「現実」をジェネレート(発生)するんです。これはテクニックや経験値とは別領域なので毎回困難続きですが、おっしゃるようなものが僕の小説にあるとすれば、そこから生まれているのかもしれない。まさに小説の「聖域」とも言えますが、今回の出展作家たちもそうした営みに関わっている印象はありますね。
本展を短い言葉で表現するなら?との問いに「与えられた輪郭を持たない『スピリチュアリティ』を訪ねて回る、小さな巡礼の旅」と締めくくってくれた古川さん。さて、現代日本に生きる精神世界のピルグリム(巡礼者)たるあなたは、ここでどんな感覚に巡り合うでしょう? なお、古川さんは「来場者たちがこの巡礼を終えたあと、最初になにをやりたいと思うのか。それも、ちょっと気になりますね」と付け加えてくれました。たしかに、本当の始まりはそこからなのかもしれません——。
- イベント情報
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- 平成26年度東京都写真美術館コレクション展
『スピリチュアル・ワールド』 -
2014年5月13日(火)~7月13日(日)
前期:2014年5月13日(火)~6月8日(日)
後期:2014年6月10日(火)~7月13日(日)
※会期中展示替えあり
会場:東京都 恵比寿 東京都写真美術館 3階展示室
時間:10:00~18:00(木・金曜は20:00まで)
出展作家:
渡辺義雄
石元泰博
鈴木理策
山城知佳子
東松照明
土門拳
土田ヒロミ
石川直樹
内藤正敏
奈良原一高
藤原新也
横尾忠則
三好耕三
休館日:月曜(月曜が祝日の場合は開館し、翌火曜休館)
料金:一般500円 学生400円 中高生・65歳以上250円(第3水曜日は65歳以上無料)
※小学生以下および障害者手帳をお持ちの方とその介護者、東京都写真美術館友の会会員は無料アーティストトーク
2014年6月27日(金)
出演:三好耕三(本展出品作家)
時間:18:00~19:30(開場17:45)
会場:東京都 恵比寿 東京都写真美術館 1階アトリエ
料金:無料(本展覧会チケットをお持ちの方、定員50名)
※当日、午前10時より東京都写真美術館1階受付にて整理券を配布
- 平成26年度東京都写真美術館コレクション展
- プロフィール
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- 古川日出男 (ふるかわひでお)
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1966年福島県生まれ。98年、日本人少年のアフリカ大陸での色彩探求譚『13』で作家デビューし、2001年発表の『アラビアの夜の種族』がジャンル越境型の奇書として読書界の話題を集める。06年、『LOVE』で三島由紀夫賞を受賞。その他の著書に軍用犬の視点から二十世紀の戦争史を描いた『ベルカ、吠えないのか?』、東北六県の700年間の歴史を徹底した文学的ハイブリディティで浮き彫りにする大著『聖家族』、東日本大震災直後の福島での旅が綴られる『馬たちよ、それでも光は無垢で』等がある。朗読活動も積極的に行ない、管啓次郎、小島ケイタニーラブ、柴田元幸と朗読劇『銀河鉄道の夜』を制作し国内各地で上演している。
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