自分とは一見つながりのない空間や時間、違う価値観を生きる人々の存在。そんな「彼or彼女たち=他者」と、私たちの世界はどのような関係を持てるのか。なんだか大きな話に思えますが、じつはそうでもありません。たとえば近年の日本では、さまざまな政治的課題に関して、一般の人々が異なる意見をぶつけ合う姿をよく目にするようになりました。原発問題に安全保障政策、沖縄の基地問題、大阪都構想……。SNSを通じて、身近な人の意外な意見に驚く。そんな経験をした人も多いのではないでしょうか。
宗教や国籍といった大きなものから、周囲の人との習慣や趣味の違いといった身近なものまで。当たり前ですが、自分とまったく同じ背景を持つ人間は1人もいません。東京都現代美術館で開催中の『他人の時間』展は、そうした「他人」との関わり方について、あらためて考えるきっかけを与えてくれる展覧会です。出品者はアジア・オセアニア地域から集められた18名のアーティストたち。彼らが描き出した問題は多種多様ですが、そこに共通するのは「他人」との出会いを通して「自分」の可能性を探る、そんな姿勢でした。
(メイン画像:アン・ミー・レー『船上警備、アメリカ海軍病院船コンフォート、ハイチ(「陸上の出来事」シリーズより)』2009年)
「日本にかぎらず、いろんな国でナショナリズムが加熱している。社会が不安定になると、その反動として『アイデンティティー』を求めがちになる傾向はあると思います」
取材陣を迎えてくれたのは、展覧会を企画したキュレーターの一人、崔敬華(チェ・キョンファ)さん。東京都現代美術館に勤める以前は、ヨーロッパやアジア諸国で展覧会やアートプロジェクトに関わってきたという経歴の持ち主です。今展覧会の企画発案にはどんなきっかけがあったのでしょうか。
崔:この展覧会につながる「他人との関係」の問題について考え始めたきっかけは、2007年まで転々としていたヨーロッパやアジアでの経験でした。たとえばオランダでは、「マルチカルチュラリズム(多文化主義)」を促進するアートプロジェクトに関わったのですが、主催者が提示する「文化の多様性」という言葉に違和感を感じたんです。オランダでは、ヨーロッパ系オランダ人と、非ヨーロッパ系移民の格差問題が長らく続いていますが、ただそれを両方尊重しましょうというだけで、その間にある社会的・経済的ヒエラルキーや対立が、いかに作られているのかという問題意識があまりに希薄だった。日本でも、よく「違う国・文化を尊重しましょう」という紋切り型のメッセージが語られますが、たとえば自分を「日本人」という固定的なポジションに置きながら「他人」に接しているかぎり、どこまでいっても平行線の関係で終わってしまう。そこで、自分の立ち位置を見つめ直しながら、「他人」との新しいつながり方を模索したい。そんな作品に注目したいと考えるようになりました。
企画が通り、3人の共同キュレーターたちと動き出したのが2013年のこと。しかし準備が進むのと並行して、社会の状況は展覧会が目指すのとは真逆の方向に進んでいったと言います。
崔:2013年当時は「最近、日韓や日中の摩擦が激しいな」と感じる程度で、それも徐々に改善されていくだろうという楽観的な見通しを持っていたんです。しかしご存知の通り、そこから日韓、日中の関係はますます悪化し、ヘイトスピーチのような現象が社会の表に現れるようになりました。また、そのころはまだ遠かったイスラム諸国の問題も、イスラム国の人質事件などを通して身近になり、日本でも「イスラモフォビア(イスラム恐怖症)」が散見され始めています。こうした状況は日本にかぎらず、各国でもナショナリズムが加熱している。グローバル社会の中で人々や情報の行き来が増えたり、社会が不安定になると、その反動として「アイデンティティー」や「本質」を求めがちになる傾向はどの社会にもあるのだと思います。
似た問題は、日本国内の政治問題をめぐる人々の反応に関しても言えるかもしれません。とくにTwitterなどのSNS上では、自分とは異なる意見の持ち主が可視化されたことで、すべての人を「白か黒か」に切り分けるような論理が広がっていると感じます。
崔:みなさん、なんとなくピリピリとした空気を肌で感じているのではないでしょうか。議論が活発になるのは良いことですが、それが「他人」の思考を排除し、「自分」の固定化だけを促すものであるなら、生産的な議論とは言えないと思います。「自分」というものは一面的に捉えられがちですが、人の内面はじつは多面的で、矛盾した部分もある。ふとした瞬間、自分の意外な一面に出会うことはよくあって、そうした矛盾を認識することが大切だと感じます。今回の展示アーティストたちは、自らのアイデンティティーや立場の強化ではなく、自分自身がどんな存在でありうるのかを考えることで、「他人」とのつながり方の可能性を垣間見せていると思います。
良くも悪くも「他人」が目に入りやすくなり、彼らとの関わり方を模索する必要が増しているようにも見える現代。はたして展示作品では、どのような思考のヒントが提示されているのでしょうか。
シカゴの夜明けと熊本の夕焼けの空がつながっていることを示す連続写真
会場の入口を抜けて真っ先に見えてくるのは、写真家の下道基行さんの作品『Dusk / Dawn | 津奈木/シカゴ』。2枚のスクリーンの片方には徐々に明るく、もう片方には徐々に暗くなる空の連続写真が投影されています。
崔:投影されている写真は、アメリカ・シカゴの夜明けの空と、熊本県津奈木町の日没の空の光景です。この作品は、アーティストが津奈木町で「夕焼け」を見た際、同じ太陽を「夜明け」として見ている人もいると、ふと気付いたことから着想されたそう。そこで彼はもう一人の撮影者と、それぞれ地球の反対側で、夕日と朝日で変化する空を同時に撮ったんです。
下道基行『Dusk / Dawn | 津奈木/シカゴ』2013年
1つの太陽が、いくつもの空の表情を見せていることは、たしかに多くの人が知っていながらも、普段は忘れている事実でしょう。しかもそれは、単に2つの場所の「バラバラさ」を見せるだけでなく、そこに共通して流れる「時間」の存在も浮かび上がらせています。
崔:そうなんです。見ている景色は違っていても、ここには同じ時間が流れているし、空間もつながっている。ただ、そのことに思い至るには、何かきっかけがないと難しいですよね。熊本から見ればシカゴは「遠い場所」と捉えられがちですが、こうした媒介物を設けることで、そこにある表情の違いと連続性を感じられます。『他人の時間』と銘打った本展の導入として、ぴったりな作品だと思います。
おしゃれな部屋に飾られた「民俗的」なオブジェに向けられるアイロニカルな視線
次に向かったのは、ニュージーランドの画家、グレアム・フレッチャーの絵画作品。ミッドセンチュリー風のおしゃれな部屋の中に、いわゆる「民俗的」で「プリミティブ」なオブジェがインテリアとして飾られています。
グレアム・フレッチャー『部族嗜好のラウンジルーム』2010年
崔:じつは私は、この絵をパッと見たとき「こういう部屋ってあるよね」と特別な違和感を感じませんでした。しかしよく考えると、これらお面などのオブジェはもともと、それぞれの文化の中での特別な意味を持っていたわけです。それがまったく異なる文脈の空間にインテリアとして置かれていることを「普通」と感じた自分の視線にハッとさせられました。
下道さんとフレッチャーの作品の共通点は、ある何気ない光景をきっかけにして、そこから徐々に、世界が分かれつつ連続する様を見せてくれることかもしれません。
崔:そうですね。ただフレッチャーが、ポリネシア地域の先住民であるサモア系と、西洋系ニュージーランド人の両親の間に生まれたことも、合わせて考える必要があります。グローバル社会の中で先住民族のアーティストたちは、自らの文化を商業的な目的でも作り出してもいる。アーティストはそこにアイロニーも含んだ目線を向けています。そしてフレッチャーたちの作品が、同時代の空間の先にいる他者との関係を示すものだとすれば、次に展示されているインドネシア人のアーティスト、サレ・フセインの『アラブ党』は、歴史(未来・過去)という時間の先にいる他者との関係を見つめ直した作品と言えるかもしれません。
独裁政権下の表舞台からこぼれ落ちてきたアラブ系インドネシア人の歴史
1930年代にインドネシアで起こったオランダからの独立運動。その中で、自身と同じアラブ系インドネシア人たちがどのように行動したのか。フセインが描くのは、こうした自身のルーツに関わるテーマです。
崔:インドネシアでは、アラブ系の人々も古くから暮らしていましたが、長い間、外国人として国内での権利は制限されていました。にもかかわらず、彼らは「私たちが生まれたこの土地こそが母国である」と、インドネシア独立運動に力を貸したのです。展示されている膨大な絵画群は、そのアラブ系インドネシア人の活動に関する写真資料をベースにフセインが描いたもの。ここでの「絵を描く行為」はアーティストにとって、写真が何を語っているのかを検証するプロセスだと言えますが、しかしそれによって「知られていなかった歴史を語る」ということにはならない。むしろ、キャンバスに余白の多さが見られる通り、「歴史にはわからない部分がある」という当然の事実こそが際立ってくるのです。
崔さんによれば、彼らアラブ系インドネシア人の歴史は、長く続いた独裁政権下の表舞台では扱われてこなかったそうです。「他者をきちんと見る」という行為は、大きな歴史からこぼれ落ちたものを考え直すことにもつながります。
西欧文化の象徴「スーツ」を通して見える、自分の意識
崔:そういった意味では、パキスタンのアーティスト、バスィール・マハムードの『つくりもの』と、フィリピンのアーティスト、キリ・ダレナの『消されたスローガン』にも、似た問題が言えます。前者ではパキスタン人の男性が、同国の日常的な衣服から、着慣れない西欧文化の象徴たるスーツへとぎこちなく着替える様子が映されます。これを見た人は、西欧文化に同化していない存在を知るとともに、スーツを日常化している自らの視線にも自覚的になるでしょう。
また後者の作品では、1950~70年代のフィリピンにおける数々の政治デモの写真が加工(プラカードの文字だけが消されて白紙になっている)されて扱われていますが、これらの写真の存在を偶然知ったフィリピン人のキリはとても驚いたそうです。なぜならこれほど多くのデモがあったのに、彼らの要求は何も受け入れられなかったから。彼女によって白紙化されたプラカードは、「強いられた沈黙」の象徴でもあり、そこにあったメッセージを考えさせるための装置でもありますが、それと同時に、現代にも同じような抑圧された声があることを示唆しています。
暴力的に、強烈なインパクトを持って耳に響く、他人の音
まるでパラレルワールドのように、自分の「世界」と並行して流れる、無数の「他人の時間」。それを認識することの難しさが展示を通して見えてきた気がします。そして次に向かった展示室では、その問題に対する、ある驚きのアイデアが示されていました。
ブルース・クェック『鏡の回廊:アジア・パシフィックレポート』2015年
やってきたのは、ライターとしても活躍するアーティスト、ブルース・クェックによる『鏡の回廊:アジア・パシフィックレポート』の部屋。壁には24個の時計がずらりと掛けられ、それぞれ異なる速度で針を回しています。各時計の赤い針が0時の地点を指すたびに「チン」と音が鳴りますが、これは一体なんでしょう?
崔:一見、無地の時計ですが、よく見ると盤面に文字が書かれていますよね。これは、アジア太平洋地域で起こったさまざまな事故や病気による死亡者、事件などの1年間の統計を時計の動きで表現したもの。「チン」という音はそれぞれの出来事が起きたことを表し、たとえば針がとても早く回る「女性器の切断」は、それだけ数多く行われていることを示します。事実を拾って無味乾燥な統計数値を見せたとしても、それは他人事で終わってしまうかもしれない。そこに疑問を持ったアーティストは、事実をなんとか身体的に体験させられないか? と考えたそうです。
たしかにイヤでも聴こえてくる「チン」という音は、各項目の詳細を知った後となっては、ある意味で暴力的に、強烈なインパクトを持って耳に響きます。
崔:またこの展示室では、自分が滞在した時間中、それぞれの出来事がどれだけ起こったのかが、退室時にレシートに印字されて渡されます。各事象はとても大きな問題なのですが、それが自分の時間と重なり合うことで、具体性を持って実感できるんですね。
ブルース・クェック『鏡の回廊:アジア・パシフィックレポート』2015年 レシートを発行するシステム
言葉や数では認識していても、ありきたりな方法では届きにくい「他人の時間」。その伝達方法の工夫がとても興味深いです。
ベトナム戦争を経験したアーティストが撮影した、世界各地のアメリカ軍兵士
続くベトナム出身のアーティスト、アン・ミー・レーは写真というメディアを使って、誰もが知るアメリカ軍の意外な側面を描き出します。
アン・ミー・レー『アメリカ海軍派遣部隊、ショールウォーター湾、オーストラリア(「陸上の出来事」シリーズより)』2005年
崔:レーの家族は1970年代のベトナム戦争末期にアメリカへ亡命したのですが、それを手助けしたのが、母国を戦地にした他ならぬアメリカ軍でした。この『陸上の出来事』シリーズは、彼らに対するアンビバレントな感覚をかたちにすべく、2005年から世界各地の非戦闘地域に配置されたアメリカ海軍に同行して撮影されたもの。軍というのは簡単には理解しきれない巨大システムですが、その中で兵士という主体がどう作られるのか、また一方で兵士はいかに一個人のままでもありうるのかを、彼女は写真で捉えようとしています。そこには、彼女のアメリカ軍に対する複雑な思いと共に、興味や親密さも表れていて、たとえばある写真は、放水ホースを先頭で構えて張り切るアメリカ兵たちに対し、後ろに並ぶ現地の兵士たちがどこか客観的に演習を眺めていたりと、どこかユーモラスな1枚になっています。
アン・ミー・レー『被害対策訓練、米国艦船ナッシュビル、セネガル(「陸上の出来事」シリーズより)』2009年
崔:レーの作品で重要なのは、「判断を保留している」ことだと思います。彼女は写真を「本質的に抽象的なメディア」と呼んでいるのですが、なぜ「抽象的」かと言うと、写真は事象の間に存在する複雑さをそのまま捉えることができるからだと。しかしその抽象性のために、このシリーズは母国ベトナムの展覧会で、アメリカ軍への賞賛として受け取られることを恐れた主催者によって展示を自粛されたこともあったそうです。その意味で「判断を保留している」作品は、受け手側の意識をあらわにしてしまう作品でもあるんです。
注目を浴びる沖縄に対して、あまり知られていない状況を伝えることで、考える間口を広げるアート作品
物事の複雑さを捉えた写真が仇になってしまうとは、「白か黒か」と答えの二極化を求める現代の雰囲気を象徴するようなエピソードにも思えます。隣の部屋にある沖縄出身のアーティスト、ミヤギフトシさんによる映像作品『The Ocean View Resort』にも、アメリカと沖縄の関係が描かれていますが……。
ミヤギフトシ『The Ocean View Resort』2013年 展示風景
ミヤギフトシ『The Ocean View Resort』2013年
崔:これは、アメリカ留学から故郷の沖縄に帰った「僕」が、幼馴染の「Y」から第二次大戦中にアメリカ軍捕虜になった彼の祖父の話を聞くストーリーが主軸になった作品です。そこでは、「Y」の祖父とアメリカ兵が、ベートーベンの音楽を介して心を交わす束の間の出来事が語られるのですが、今まさに政治の論点として注目を浴びる沖縄に対して、アーティストは明確な立場を表明するのではなく、あまり知られていない状況を見せることで、考える間口を広げる表現に専念しているように思えます。その点が、レーの写真との共通性と言えるかもしれません。そして、同じように私たちの偏った見方を意識させるのが、南ベトナム解放戦線ゲリラの覆面写真家として活動した、ヴォー・アン・カーンによるベトナム戦争の記録写真です。
ヴォーの写真は、この展覧会の企画会議のために訪れたオーストラリアのクイーンズランド州立美術館で見せてもらい、衝撃を受けたものと言います。
崔:写されているのは、ベトナム戦争中にアメリカ軍と戦った南ベトナム解放民族戦線、通称「ベトコン」の活動です。私たちは、たとえばハリウッド映画などを通じてベトナム戦争にあるイメージを持っていますが、そこには描かれないベトナム側の視線がここには写されています。この写真の被写体は、政治学の授業に向かう女子学生たちで、みな一種の防衛策として覆面をしているとのこと。アメリカへの抵抗運動を記録するという、その機密性の高さなどから、ヴォーが撮った写真は長い間、世に出ることがなかったと聞いています。
大きな歴史の力によって隠される「他人」の姿もあれば、緊迫した事情によって当事者自らの手で隠される「他人」の姿もある。時空に潜む、さまざまな「他人の時間」が浮かび上がります。
「他人の時間」を生きざるを得なかった、3重スパイの人生
最後の真っ暗な展示室に流されているのは、数々の国際映画祭 / 芸術祭で注目を集める映像作家、ホー・ツーニェンの映像作品『名のない人』。画面には1人の俳優がさまざまな場面で演技をする姿がコラージュのように映されています。
崔:この映像作品に描かれているのは、第二次世界大戦中にフランス、イギリス、日本の3重スパイとして暗躍したベトナム人のライ・テックという人物。国やアイデンティティーの境を越え活動しましたが、彼自身の素性には今も謎が多い。つまりこれは「他人の時間」だけを生きざるを得なかったスパイの人生を描いているんです。加えてこの作品は、同じ俳優が出演する複数の映画から短いシーンが切り取られ、再構成されていて、作品の構造としても「他人」の作品の引用になっているんです。
「他人の時間」のみを生きる人生とは、どのような経験なのでしょうか。そこには、つねに「自分」から離れていることに対する「不安感」があったかもしれません。展覧会の最後で、観客は今までの展示を真逆の視点から眺めるような経験をすることになります。
崔:とうてい理解が及ばない世界ですよね。どういう心理状態で、どんな恐怖を味わったかなど……。でもこの作品を通して、そう生きることを個人に要請した時代について、考えるきっかけにもなる。大きなクエスチョンを投げかけて展覧会を終えようと、あえて最後の作品に選びました。
「複雑な世界に対して、明確な意見を表明しないと「グレーな人間だ」と言われもしますが、そうした立場だからこそ、できることがあると信じています」
会場を回り終えた後、崔さんにあらためてお話を聞きました。アイデンティティーやルーツ、クラスタ、自己責任論など、「自分」と「他人」の差別化が盛んに行われ、あるいはその差異を前に戸惑うことも多い現代。中には、その違いに耐えられず、同じような価値観を持つ者同士で固まってしまう人もいると思います。そんな時代の空気に流されず、新しい「他人」同士のつながり方を模索したり、その違いをあらためて検証するアーティストたちの試みには希望を感じます。
崔:今、現実社会で起きている「同一化」と「峻別」の背景には、いろんな要因で社会が不安定になりつつあることへの不安感もあるのかなと思います。それが顕在化して、排他主義や、たとえば国家の「固有の文化」や「本来の姿」といったようなナショナリズムが強化される。しかし、他人の中に自分との意外な連続性を見ることは、自分がどのような存在なのかを絶えず更新してゆく契機にもなるし、異なる意見の人と共存するためには、よりしなやかな主体性が必要になるでしょう。今回の展示を、そんなことを考えるきっかけにしてもらえたら嬉しいです。
現代アート作品には、自分の立場やメッセージをハッキリとしたかたちで打ち出すやり方もあります。本展の作品には、それともまた異なるあり方が示されていたように思いますが……。
崔:そうですね。現代アートのあり方を考えるとき、ある問題に対して「確固たるステートメント(宣言、声明)を出す」ということはあっていいけれど、もう一方で、問題とされている対象の見方を根本から変えてしまうやり方もあっていいと思います。自分や歴史の語り方にはさまざまな方法があって、そこに唯一の真実はないはず。複雑な世界を前に明確な意見を表明しないと「主体性のないグレーな人間だ」と言われもしますが、そうした立場だからこそ見えることがあるし、できることがあると信じています。
アメリカ軍兵士を写した、アン・ミー・レーの作品に対する展示自粛のエピソードが示す通り、その「グレー」な抽象性には誤読のリスクやそれに対する不安も付きまとうでしょう。しかし、ある事象への眼差しの解像度を上げることでしか見えてこない「他人の時間」もある。それに躊躇せず向き合うことのできる「自分」の強さを、今日の展示作品たちは見せてくれました。
- イベント情報
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- 『他人の時間』展
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2015年4月11日(土)~6月28日(日)
会場:東京都 清澄白河 東京都現代美術館 企画展示室1F
時間:10:00~18:00(入場は17:30まで)
出展作家:
キリ・ダレナ
グレアム・フレッチャー
ホー・ツーニェン
サレ・フセイン
ジョナサン・ジョーンズ
河原温
アン・ミー・レー
イム・ミヌク
バスィール・マハムード
mamoru
ミヤギフトシ
プラッチャヤ・ピントーン
ブルース・クェック
下道基行
ナティー・ウタリット
ヴァンディー・ラッタナ
ヴォー・アン・カーン
ヤン・ヴォー
※ナティー・ウタリットのみ5月下旬より展示予定
休館日:月曜
料金:一般1,000円 大学生・専門学校生・65歳以上800円 中高生600円
※小学生以下無料
※身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳をお持ちの方とその付添者2名までは無料
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