稀代の名曲“上を向いて歩こう”が、アメリカのビルボードチャートで1位に輝いてから、ちょうど50年を迎える今年、その名曲の裏側にある物語を紹介する展覧会が、東京・芦花公園の世田谷文学館で行われています。
1つの曲をテーマに展覧会を作り上げるという異例の企画が行われた背景には、作詞の永六輔、作曲家の中村八大、そしてこの曲を歌った坂本九の三人による、数多くの人間ドラマがありました。人気テレビ番組の台本制作を投げ捨ててまで参加した安保闘争が挫折するという傷を負った永六輔、若くして日本ジャズ界の大スターとなるも大きな葛藤を抱えていた中村八大、型破りな歌唱ゆえに当初は永六輔を激怒させたという坂本九。通称「六・八・九トリオ」と呼ばれる三人が描いたストーリー、そして稀代の名曲を後世に継いだ人たちの存在など、知られざる“上を向いて歩こう”の裏側を、LITTLE CREATURESなどで活躍し、最近はTakuji 名義での活動も本格的にスタートさせた音楽家・青柳拓次さんと一緒に探求してきました。
ジェームス・ブラウンやBeach Boysを押さえてビルボート1位になった“SUKIYAKI”
展示室入口に立ったとき、「今まで、なぜか節々で歌う機会があった曲だったんです。だから今日のお話をいただいたときは、不思議な縁を感じましたね」と、今回のレポート取材を受けた理由を話してくれた青柳さん。この曲を初めて強く意識したのは1990年、日本人レゲエシンガーとして本場・ジャマイカで活躍していたNAHKIの“Combination”という楽曲を聴いてからだったそうです。
青柳:その曲では、パトワ(英語とジャマイカの現地語が混ざった言葉)でワーッと歌われているなかで、突然“上を向いて歩こう”の一節が入ってくるんです。「この曲をこんなふうに使うんだ!」っていうのが衝撃的で、それから特別意識するようになりました。海外で現地の人に「日本の曲を歌ってほしい」とリクエストされるときも、まず最初に思い浮かぶのが“上を向いて歩こう”なんです。初めて聴く人でも、みんな「いい曲だ」って言うんですよ。一度歌うと、それ以降も会うたびに「あの曲をやってくれ」って言われたりして(笑)。
青柳拓次
自らの体験を通して、“上を向いて歩こう”が持つ不思議なパワーに触れてきただけに、ミュージシャンとしても、そのパワーの秘密に大きな興味を抱いていた青柳さん。満を持して展示室に足を踏み入れると、まずは“上を向いて歩こう”が、“SUKIYAKI”としてアメリカで大ヒットしていた当時の雰囲気を、貴重な資料で実感することのできる展示が待ち受けていました。
そのアメリカでの大ヒットを象徴するものといえば、アメリカの音楽ヒットチャート誌『ビルボード』HOT100での1位獲得。1963年6月15日に達成されたこの快挙は、50年経った現在でもアジアの楽曲として唯一無二の記録。展示されていた当時のチャートをよくよく見ると、“SUKIYAKI”が、並み居る有名アーティストの楽曲を差し置いて1位となっていたことがわかります。
青柳:1位“SUKIYAKI”の下に、ジェームス・ブラウンがいたり、Beach Boysがいたり……。ランクインしている他のアーティストの名前を見ていると、あらためてこの1位獲得のすごさが伝わってきますね(笑)。
79位で初登場してから、5週かけて1位まで昇りつめた“SUKIYAKI”は、その後3週間にわたり1位をキープ。ちなみにThe Beatlesが初めてHOT100にランクインしたのは、この数週間後。イギリスを代表する世界的ロックバンドがアメリカを席巻するよりも前に、日本人がアメリカで頂点に立っていたという事実は、あらためて知ると非常に興味深い出来事なのではないでしょうか。
アメリカでの大ヒットを受け、同年8月に渡米した坂本九は、人気テレビ番組『Steve Allen Show』にゲスト出演。その際のステージ映像も展示されていますが、その様子は青柳さんが「ちょっとお客さん、びっくりしてますね(笑)」と言うほど、堂々と歌う坂本と、それを珍しそうな表情で見つめるアメリカ人との対照的な姿が印象的でした。しかしながら、その後“SUKIYAKI”のセールスは100万枚を突破し、発売翌年の1964年5月15日には、ゴールドディスクを獲得。その実物も展示されています。
「なんでこういうジャケットになったんでしょうね(笑)」と、青柳さんが興味深く見つめていたのは、アメリカで発売された坂本九のLP盤。こちらはシングル盤とは別に、日本でのヒット曲を集めたレコードで、「火薬」「火気厳禁」と書かれた箱の上に座り、タバコの灰を落とそうとする反骨的な坂本九の姿が強烈なインパクトを与えます。
日本語で書かれているだけに、当時発売元だったアメリカのキャピトル・レコードが果たして意味を理解していたのか? 理解していたのであればどういう意図でこのジャケットに決めたのか? 見れば見るほど興味は深まるばかり。このゾーンには他にも当時の様子を窺い知れる資料がたくさん展示されていて、遠く海を越えたアメリカで“SUKIYAKI”が多くの人に受け入れられていった軌跡をたどることができます。
若くして絶頂と転落を経験した、作曲家・中村八大の決意と覚悟
続いてのゾーンでは、“上を向いて歩こう”を生み出した「六・八・九トリオ」(作詞:永六輔、作曲:中村八大、歌:坂本九)の物語が紹介されています。まず最初に目に飛び込むのは、ズラッと並べられた中村八大直筆による“上を向いて歩こう”の譜面。その内容を青柳さんは興味深そうに、まじまじと見つめていました。
青柳:この譜面はすごく美しいですね……。丁寧で、きれいで、音楽的なバックグラウンドの深さを感じるというか。アレンジも含めて、知識も、技術も、センスも、並外れたものをお持ちだったんでしょうね。
青柳さんがそう驚いたのも当然で、1931年に中国・青島で生まれ、幼い頃からクラシックに親しんできた中村八大は、小学3年生で東京に音楽留学(!)をしたり、その後はドイツ人音楽教師に師事したり、当時としては恵まれた音楽環境で少年時代を過ごしました。戦後もジャズやアメリカ映画に触れ、音楽家への道を邁進。中村が作った交響曲の譜面も飾られていて、音楽への深い造詣に驚かされます。
また、青柳さんが「今日はこれを見るのがすごく楽しみでした」と目を輝かせたのが、中村が22才のときに残した『中村八大とその生涯に於ける法則。』というメモ。
一、食事と睡眠
二、仕事(あらゆる働)と休息
三、計画と実行
四、事件、事物の早期処理
五、仕事と金銭。金銭と生活
メモには上の五箇条に加え、「中村八大は他から作られず、自分で完成させる物也」「中村八大が送る生涯は、自分が製作する人生也」「中村八大は誰よりも苦しく、誰よりも幸せでなければならない」などと書かれています。当時、渡辺プロダクションの創業者・渡辺晋が率いるジャズバンド「渡辺晋とシックス・ジョーズ」や、1953年に結成した「ビッグ・フォー」で、アイドルさながらの人気ピアニストとして絶頂を迎えていた多忙な生活と、音楽家としての理想との間で葛藤する姿がにじみ出ているようです。
青柳:本当に音楽のことを一番に考えた結果、ここに書かれていることを普段の生活でやってないと、忙しさのなかでちゃんと仕事をやり続けられないという実感があったのかもしれないですね。ある種マニフェストのような、アーティストとしての覚悟と決意を感じました。
フランス人に哲学的といわしめた歌詞を紡いだ、作詞家・永六輔
中村から遅れること2年、永六輔が生まれたのは1933年のことでした。少年時代からラジオへのコント投稿に熱中し、中村と同じ早稲田大学に入学した頃には、放送作家として活躍を始めます。永六輔の展示ゾーンには自身が構成作家を務め、“上を向いて歩こう”がヒットするきっかけとなったテレビ番組『夢であいましょう』の台本が展示されています。
青柳:これだけ綿密にぎっしりと毎週書き続けていたんですね……。作詞家として日本語をとても大切にしていたという話は有名ですけど、こういうところにも信条みたいなものがはっきり出ていますよね。
曲にグルーヴを吹き込んだロカビリー歌手・坂本九
残る坂本九が生まれたのは、1941年のことでした。9人兄姉の末っ子だった坂本は、芸事に通じた母や年長の兄姉たちの影響を受けて育ち、高校生でロカビリーバンド「ドリフターズ」の一員に。「ダニー飯田とパラダイス・キング」に移ってからは、“悲しき六十才”のヒットをきっかけにテレビやラジオでも活躍を始めます。坂本九の展示スペースには、エルビス・プレスリーのモノマネでクラスの人気者だったという中学生時代の貴重な写真も。
青柳:デビューしたときは、まだ17才だったんですね。高校生の頃に一度引退して、プロダクションの説得で芸能界に戻ったと書いてありましたけど、やっぱり当時から光るものがあったんでしょうね。坂本九といえば、“上を向いて歩こう”のイメージが強いですけど、ロカビリーが原点だったり、ドリフターズの初期メンバーだったというのも意外ですよね。
そして61年、いよいよ“上を向いて歩こう”が誕生します。ジャズブームの衰退やスランプによる薬物依存で絶頂から転げ落ちながらも、永六輔とタッグを組んで制作した水原弘のデビューシングル『黒い花びら』の大ヒットで『第1回日本レコード大賞』を受賞した中村八大。もう一度真摯に音楽に取り組むことを決意し、リサイタルの開催を計画。そのなかで発表する新曲の作詞を永六輔に依頼します。一方、永は当時手がけていた人気テレビ番組『光子の窓』の仕事を投げ捨て、社会問題化していた日米安全保障条約改定問題の抗議運動に参加。しかし、その想いは実らず、深い挫折感を味わっていたところでした。そんな二人の複雑な想いによって出来上がった曲の歌い手に抜擢されたのが、弱冠19才のロカビリー歌手として頭角を現し始めていた坂本九でした。
永六輔を激怒させた坂本九の歌声
1961年7月21日、『第三回中村八大リサイタル』において、“上を向いて歩こう”が初披露されます。しかし、坂本九独特のグルーヴィーな歌声は、永の耳に「ウヘゥフォムフフィテ / アハルコフホフホフホフ」と聴こえたそうで、「なんだこの歌は!」と激怒したそう。言葉を大切にする気持ちのあまり憤る永に対し、中村は「あれがいいんだ」となだめたとか。
青柳:いいですよね、本気でもの作りをしている熱い感じというか、侃々諤々としている感じが(笑)。僕自身、誰かとコラボレーションするときは、むしろ崩してほしいと思うタイプなんですけど、いつの時代も崩す人がいたんだなっていうのはおもしろいですね。
それから1か月後、テレビ番組『夢であいましょう』で“上を向いて歩こう”が取り上げられると、放送翌日から問い合わせが殺到し、レコードが発売されるや爆発的なヒットを記録。今では当たり前の、テレビ番組を通じて曲がヒットするモデルケースとなったのでした。
『上を向いて歩こう』オリジナル盤ジャケット、1961年(発売/東芝レコード) 個人蔵
しかしなぜ、こうも“上を向いて歩こう”は大衆に受け入れられたのでしょうか。展示のなかでもひときわ目立つ大きな存在感を放っていたオブジェを前に、しばらく考えこんだ青柳さん。オブジェには三人が残した言葉が刻まれていて、どうやらそこにヒントが隠されていたようです。
青柳:この三人の基本的な考えは、根本的なところですごく通じあってる感じがありますよね。「音楽はみな大衆のものだ」という言葉とか。誰か1人が突出して強く思っていることはあるだろうけど、三人揃ってというのは珍しいのかもしれないですね。そういう意味でも、この三人がつながって曲が生まれたというのは奇跡的だったんじゃないかなと思うんです。
「六・八・九トリオ」それぞれに焦点を当てた展示の奥には、1985年に日航ジャンボ機墜落事故で急逝するまで、坂本が残したシングル盤のジャケットが壁一面に飾られています。その数なんと87枚。これでも全ディスコグラフィーは揃っていないそうです。青柳さんは『ぶっちぎりNO文句』のジャケットがどうも気になった様子。「これだけ、すごく浮いてますよね。“おとなの童謡〜今だからいうけれど〜”というカップリング曲も気になります(笑)」と、言われてみれば確かに気になる……。実はこれ、覆面歌手「XQS(エクスキューズ)」として1983年に発売されたもの。ロックンロールや民謡など、さまざまな音楽性がごちゃ混ぜとなった曲調、そして明らかに怪しげな歌声は、今聴いても非常に斬新です。
「究極の大衆音楽、本当の意味でのポップス。とにかく大衆のために、みんなの歌になるような、そういう哲学が形になった歌なんじゃないかな」
“上を向いて歩こう”が海を越えた先は、アメリカだけではありませんでした。次の展示ゾーンでは、なんと最終的に世界70か国以上へと広がっていった同曲の貴重な資料が展示されています。発売当時、海外進出を主導したのは、東芝レコード・石坂範一郎。しかし1962年8月にフランスで初めて海外発売された際は、日本語タイトルのままということもあってか、思うような結果が出ませんでした。その後、同年末にイギリスのレコード会社からジャズカバー“SUKIYAKI”としてリリースしたいという要望が届くと、フランスでの経験を踏まえ、曲名を変えての発売を決断。このKenny Ball & His Jazzmenが演奏したジャズカバーは、全英チャート10位に入るヒットを記録したのです。この曲名は、翌年アメリカで原曲が発売される際にも使われることになり、歴史的ヒットにつながる要因の1つとなったのでした。
青柳:“SUKIYAKI”というタイトルは、海外で勝手につけられたのかと思っていたんですけど、ちゃんと日本側の判断でもあったんですね。日本人の感覚からすれば的外れなタイトルに見えるけど、こうやって作った本人の手を離れて、違う文化の人たちに新しい受け止め方をされるというのも、歌や音楽のおもしろいところですよね。
その後も“上を向いて歩こう”は世界各国でカバーされ、1981年には、女性デュオ「Taste of Honey」によるカバーがビルボードで3位となり、ミリオンセラーに。さらに1995年にも男性アカペラグループ「4 P.M.」によるカバーがビルボード8位となり、50万枚を超えるセールスを記録。作曲者である中村には、再びゴールドディスクが贈られました。ここでは世界各国で発売された“上を向いて歩こう”のレコードや譜面が展示されていて、なかにはアラビア語盤のレコードなんてものも。国ごとに特色が出ているジャケットデザインを眺めて見るのも楽しそうです。
日本でも数えきれないほどのアーティストがカバーしていますが、そのなかでも忌野清志郎がRCサクセション時代の1979年頃からライブで毎回のように“上を向いて歩こう”を披露し、多くの若者に向けて歌い継いでいたことはご存知でしょうか? ここでは、「日本の有名なロックンロール! ワン、トゥー、サン、シー!」と叫んでから歌う当時のライブ映像や、“上を向いて歩こう”を含む手書きのセットリストなどが展示されています。そして、展示されていた忌野清志郎の衣装を間近で見て、無邪気な笑顔を見せてくれた青柳さんも、この名曲を歌い継ぐアーティストの1人。
青柳:最近のライブでは、“見上げてごらん夜の星を”をカバーしているんです。歌い継がなきゃとかそういう意識ではないですけど、あのくらいの時代には本当にいい曲が多いですよね。それと、忌野清志郎の歌をカバーすることもあって、最近も“スローバラード”と“ラブ・ミー・テンダー”を歌いましたね。
“上を向いて歩こう”が歌い継がれてきたのは、アーティストによるカバーだけではありません。2004年には台風23号による事故でバスに一夜取り残された人たちが“上を向いて歩こう”を歌って不安を乗り越えたり、2011年の東日本大震災の際も被災地で広く歌われ、神戸の人たちによる『上を向いて歩こうプロジェクト』が立ち上がるなど、希望の歌として受け継がれてきました。また、スタジオジブリ映画『コクリコ坂から』のワンシーンでは、昭和の時代背景を象徴する歌として挿入曲に使われるなど、この曲を聴くだけで当時の記憶がよみがえると言う人も少なくありません。
そんなエピソードを紹介するゾーンを越えると、いよいよ最後の展示として、壁一面に書かれた“上を向いて歩こう”の歌詞が待っています。そしてその横には、今回の展示に際して永六輔が寄せた直筆の歌詞も。薄暗い展示室のなかで、鑑賞者を包み込むように大きく広がるパネルと、ぼんやり光で浮かび上がる歌詞は、「読む」というより「体験」するよう。そのなかで静かに佇んでいた青柳さんが、ゆっくりと口を開きました。
青柳:最初のほうの展示で、海外で発売された際に「この歌手は哲学を専攻しているのか!?」と、フランス人の記者から質問を受けたというエピソードがあって興味深かったのですが、こうやって読み直してみると、2番の「悲しみは星のかげに 悲しみは月のかげに」というところなどが、そう思われた理由なのかなと感じました。違った目線で読んでみると、抽象的でたしかに不思議な歌詞だなと思います。
日本人なら自然に口ずさんでしまう、だけど普段あまり深く考えることのない“上を向いて歩こう”の歌詞。しかしこうやって展示をとおして振り返ってみると、あらためて色んな想いや感情が湧いてくるようでした。展示を観終えた青柳さんにロビーで、同曲や展覧会の感想をお伺いしました。
青柳:究極の大衆音楽、本当の意味でのポップスですよね。頭の一節ですべて語っていて、誰が聴いてもわかるだけでなく、それでいてちゃんと深みがある。とにかく大衆のために、みんなの歌になるような、そういう哲学が形になった歌なんじゃないかな。そこがブレていたら、もっと装飾的な言葉使いになってしまったり、自分さえカッコいいと思えたらリスナーはわからなくてもいいとか、そういう作品になっていたかもしれないですよね。ちょうど最近、ポップスというものに対して自分なりに考えるところがあったので、今日感じたことは時間をかけてゆっくり噛みしめたいと思っています。
たった1つの歌にまつわる、限りないエピソードの数々は、いかがでしたでしょうか? もちろん今回のレポートでは、すべてご紹介できませんでしたが、実際の展示に足を運べば、数多くの資料や書籍などによって、三人の物語や音楽に対する強い想いをより深く感じることができ、歴史に残る名曲が生まれた背景には、それ相応のストーリーがあるということをあらためて感じるに違いありません。そしてきっとこれからも、“上を向いて歩こう”は新しいストーリーを紡いでいくことでしょう。日々新しい曲が生まれては消えていくなかで、ずっと歌い継がれる曲の裏側には何があるのか。名曲が名曲である所以を見つけに行きませんか?
- イベント情報
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- 『上を向いて歩こう展 ――奇跡の歌から、希望の歌へ――』
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2013年4月20日(土)〜6月30日(日)
会場:東京都 芦花公園 世田谷文学館
時間:10:00〜18:00(入場は閉館30分前まで)
休館日:月曜
料金:一般700円 大学生500円 高校生・65歳以上・障害者手帳をお持ちの方350円 小学・中学生250円
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- 関連イベント
『6(永六輔)×8(中村八大) Song Book』 -
2013年6月8日(土)OPEN 16:30 / START 17:00
会場:東京都 有楽町 東京国際フォーラム・ホールC
出演:
永六輔(司会)
遠藤泰子(司会)
上條恒彦
小林幸子
島田歌穂
マルシア
中村中
引地洋輔
加藤慶之
荒井健一(RAG FAIR)
島健
ソノダバンド
黒柳徹子(ゲスト)
松下トモ子(ゲスト)
料金:9,500円(全席指定)
- 関連イベント
- プロフィール
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- 青柳拓次
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1971年東京にて、古典楽器店を営む父とクラシック・ギタリストの母の間に生まれる。18才の時、Little CreaturesでTVのオーディション番組に出演し、5週連続グランプリを獲得。メジャーデビューをするや否や渡英。帰国後は、ClubやラジオのDJ 、プロデュース、アレンジ、選曲(COMME des GARÇONS、tsumori chisato)、俳優、映画やCM音楽の作曲、絵本、詩、エッセイ、写真など、様々な分野で活動。同時に、Little Creatures、Double Famous、Music in ElevatorなどのグループやソロユニットのKAMA AINA、青柳拓次名義で国内外のレーベルから数々の作品をリリース。2010年に東京から沖縄に移住。農園に暮らし、心と身体のホリスティックなケア(気功、整体、食養など)や、太鼓と民謡(木津茂理氏)を学び始める。2013年、約3年の準備期間を経て、世界中の様々な民族、部族のスキャット(意味を持たない詞)をオリジナルのメロディに乗せて唄う、新たなるソロユニットTakujiをスタート。国籍、人種、年齢を問わない参加型のライブでは、ピアノ、パーカッション、Takujiとオーディエンスの声がその日だけのハーモニーを響かせる。
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