極彩色の金魚や異形の少女たちが中空を漂い、螺旋を描く松の木が、あるいは稲妻のような色の帯が飛び交う奇想の世界。1960年代から活躍し始め、サイケデリック・マスターの異名もとる田名網敬一の表現世界は、グラフィックデザインからアート、さらに音楽やファッションまでを横断・浸食してきた。70歳代半ばにしていまなお精力的な創作を続ける彼は、『ヨコハマトリエンナーレ2011 OUR MAGIC HOUR-世界はどこまで知ることができるか?-』にも出品中だ。その刺激的かつポップな世界観に潜む、幼年期の「記憶」や「夢」の役割とは? また、同トリエンナーレでも登場するアニメーション作品への取り組みのきっかけは? さらに、教育や交流を通した束芋ほか若い世代のアーティストへの想いや、コラボレーションを通した異ジャンルとの相互刺激についても話を聞いた。
田名網敬一
武蔵野美術大学デザイン科を卒業。1991年より京都造形芸術大学教授を勤める。1960年代よりメディアやジャンルに捕われず、むしろその境界を横断して精力的な創作活動を続けている。伝説的ロックバンド「モンキーズ」や「ジェファーソン・エアプレイン」などのアルバムカバーワークなど、日本におけるサイケデリックアート、ポップアートのトップランナーとして語られる一方で、今日の現代美術における「アートとデザイン」、「アートと商品」、「日常と美の関係」といった主要な問題に対して挑戦を続けてきた先駆者としても再評価されている。近年の主要な展覧会は、2008年「DAYTRIPPER」(Art&Public・ジュネーブ)、「SPIRAL」(Galerie Gebr.Lehman・ベルリン、ドレスデン)、2009年ドイツ・シュトゥットガルト国際トリック映画祭の審査員と特別プログラム上映など多数。今年の予定としては、8月に横浜トリエンナーレに参加。9月にはルクセンブルグ近代美術館で映像個展、10月、個展『結び隔てる橋』(NANZUKA UNDERGROUND)、同月『ジャラパゴス』展に参加(三菱アルティアム・福岡)、11月には(Galerie Gebr.Lehman・ベルリン)で個展。2012年には新しくオープンするシンガポール国立現代美術館で大型インスタレーション作品を展示する。
田名網敬一 Rolling 60S
一番関心を持っているのは、結局自分自身の内面に蠢く得体の知れぬ世界です
―さっそくですが、今回の『ヨコハマトリエンナーレ2011』への出展作について聞かせて頂けますか?
田名網:僕が70年代前半に作った短篇アニメーション、『Sweet Friday』(1975)と『CRAYON ANGEL』(1975)を出展しています。近年、あのころの映像がまた評価されてきたということもあるのかもしれません。今年のアート・バーゼル(スイスの大規模なアートフェア)でもNANZUKA UNDERGROUNDギャラリーのブースから新作を出したのですが、それと一緒に60年代のアニメーション映画を出してほしいと、向こうのディレクターからリクエストがあったそうです。
TANAAMI Keiichi《Sweet Friday》 1975, Collection of the Artist
―それだけ注目されるという読みが向こうにもあるのでしょうね。
田名網:少し前までは恥ずかしいからあの辺のアニメーションは出さなかったけど、最近は「もういいや」と(笑)。『アート・バーゼル』には映画専門の上映プログラムもあって、ダミアン・ハーストらの映像と混ざって数十年前の僕の映像が流れることになりました。今年始めのベルリンのアートフェアでも当地ドイツのギャラリー、Galerie Gebr. Lehmannが映画とポスターとドローイングを紹介したり、今年の11月にベルリンで予定している個展でも、60年代の作品をアニメーション含めて展示する予定です。
―現在はそのように現代アートの世界でもご活躍中ですが、60〜70年代当時の田名網さんの活動の場はどんなものだったのですか?
田名網:やはりグラフィックデザインですね。毎日、雑誌の仕事、エディトリアルデザインを中心に活動していました。ポスターやCMなんかも。
―67年にNYを訪れた際に、メディアを横断するアンディ・ウォーホルの活動に刺激を受けたとのお話もありますね。そういった中でアニメーションにも本格的に取り組んだきっかけは?
田名網敬一
田名網:深夜テレビ番組『11PM』の中で、毎回いろんな人たちに4〜5分の短篇アニメーションを依頼して放送する企画があったんです。久里洋二、宇野亜喜良といった人たちが参加していて、僕にも声がかかった。でも、1週間前に依頼が来たりするんですよ(苦笑)。アナログ時代なので16mmフィルムで撮るんですが、これがすごく大変でした。毎回500枚近く描くんです、1人で。それでテレビ局に行って撮影・録音するという。まぁ大変なんですが、でもとても自由にやらせてくれた。『11PM』は、時間(尺)と期日だけ守れば多少過激でもOKで、当時その辺はわりあいルーズでした。そんなサイクルで1ヶ月に1度くらい順番が回ってきて、15本ほど作りましたね。それ以前にも赤坂・草月ホールの『アニメーション・フェスティバル』などで作品を出していますが、いま各地で上映している僕のアニメーションはほとんど、そのころ作ったものですね。
―アニメーションの制作方法もそのとき学んだのですか?
田名網:子どものころから叔父にもらった英国製の幻灯機(スライド映写機の原型)で遊んでいたので、コマ撮りで絵が変化していく動きには興味を持っていました。だから自然と、アニメーションを作ってみたい気持ちはあったけれど、制作環境がなかったんです。それで、久里洋二の工房でアナログのアニメーション手法を教えてもらって。横尾(忠則)さんも宇野さんも来てましたね。そのころは他にアニメ工房なんてほとんどなかったし、久里さんもマンションの一室でやっていて、作りたい人が順番待ちで作業する感じでした。
TANAAMI Keiichi《CRAYON ANGEL》1975, Courtesy the Artist
―横尾さんも今回の『ヨコハマトリエンナーレ2011』に参加なさるようですね。こうした国際美術展への出展については、何か思うところはありますか?
田名網:うーん、よく「国際」とか改まっていうけど、もうそういう時代じゃないと思う。だっていまの環境なら、何をやっても普通に国際的な催しでしょう。創作に関して僕が一番関心を持っているのは、結局自分自身の内面に潜むわけのわからない謎ですね。
リハビリなんて言葉もない時代に、僕の頭の中で増幅されて出てきたもの
―田名網作品によく登場する金魚や極彩色の世界は「サイケデリック」と語られることもしばしばですが、根底には幼いころの体験などがあるそうですね。
田名網:そうですね。色々あるんですが、例えば幼年時代に目黒に住んでいて、戦時中に新潟へ一時疎開して終戦で東京に帰ってきたんです。そのとき、権之助坂の上から母親と街を眺めたら、家や樹木がたくさんあったところに何もなくなっていた。今度の震災と津波でも、ニュースを見ていて当時のことを思い出しましたが…子どもだったからよくわからないけど、すごいことになっちゃったのだな、というのはわかった。赤い焦土と真っ青な空を二分する水平線。その衝撃はずっとあります。他にも空襲で防空壕に避難して、爆撃が終わって出て来た時の変わり果てた街の様子とか…。
―そうした「記憶」が重要な源泉なんですね。あの金魚も、空襲時に防空壕から見上げた水槽の中に見た、照明弾や炎の光に照らされた蘭鋳(金魚の一種)のイメージが影響している、とのエピソードを聞いたことがあります。
田名網:もちろん、見たものを直接描くわけじゃないですけどね。まだ小さかったから、恐怖心はなかったかもしれない。ただ、母親のただならぬ表情を見てこれは大変なことなんだと思いました。そういう記憶は今も、むしろ若いころより強烈に蘇ってくる。空襲時に道端に転がっている若い女の蒼白な頭部、髪の毛が蛇のようにぐるりと巻き付いていて、僕に向かって笑いかけているように見えたんです。そんな情景のひとつひとつが幼年時代の傷になって残ってるんでしょう。リハビリなんて言葉もない時代で、それが僕の頭の中で増幅されて出てきたもの。今はもう、辛いとか悲しいとかそういうことではないのですが。
―今回の『ヨコハマトリエンナーレ2011』への出品作にも、そういった記憶は反映されていますか?
田名網:はい。今回出展する2本のアニメーションのうち『CRAYON ANGEL』は、記憶の中にある戦時を回想した映画だと言えます。超スローモーションでコマ撮りしていて、金髪にみえますが、眩しいほどの閃光に反射する日本女性なんです。これ、爆弾が落ちたときのシーンなんですね。爆風が髪をたなびかせていて…本当の爆風って、焚き火に顔を30cmくらいまで近づけたような熱がブワーっと迫ってくるんですよ。
―ワンシーンの絵柄だけ見るとポップでスタイリッシュな印象もありますが、重い記憶が重なっているんですね。
田名網:連日、死と向かい合って生きているわけですから、10回以上無惨な死体と遭遇したし、機銃掃射で赤い服の女が宙に浮いた一瞬も見ていますからね。
画家がテレビに出てくると母に呼ばれて「このままだとこうなるよ?」って
―田名網さんの創作には、記憶に加え「夢」も重要な要素でしょうか? 実際に見た夢を描いたような、シュールな作品も多くあります。
田名網:鎌倉時代初期、明恵上人って京都の高山寺のお坊さんがいて、これは白洲正子や河合隼雄が本に書いたりもしているんだけど、19歳から60歳で亡くなるまで40年間にわたって自分の夢を書き記した人です。それを知って、これは面白いと僕も始めた。明恵上人は、12、3世紀の頃すでに「夢」という内的体験に主体的に取り組んでいったわけで、世界でも類を見ないほどの高僧です。見る夢もレベルが違うわけです。夢の中ですごく高い崖を登っている。頂上からの景色を見ようとするが、途中で目が覚める。さらに見たくてもう一度寝ると、続きが始まってその景色が見渡せたとか。他にも驚くような内容の夢を見ていたようです。
―夢でも修行中、みたいな感じだったのですかね。
田名網:彼の夢は何かを暗示しているんです。それと後年のフロイトやユングに通じる近代性がある。僕のは明恵上人に比べれば陳腐でくだらないけど、やっぱり「こんなの見たいな」とか「続きが見たい」というのを寝る前に念じると、特に若いころはよくそれが出てきました。それで枕元に鉛筆置いといて、すぐ描けるようにしていました。夢って、記憶の編集だと言われますね。そこにまったく想像できない異界が出現する。記憶と夢が複雑に絡まり合っているんですね。
―最近見た夢で何か憶えているのはありますか?
田名網:ついこの間見た夢では、僕がバーにいて、そこのカウンターに若い頃の母親が座っている。あ、おふくろだ、って思うんですが20代くらいの若い母でした。なぜか僕は逃げ出した。なぜ逃げたのかを夢の中で自己分析し始めて…どうも何か悪いことしたのがバレたらしいと。そんな夢でしたね。母親はよく出てくるんです、夢に。
―記憶の中でも夢の中でも、そして現実にもお母さんは大きな存在なのですかね。
田名網:母は、僕が絵を描くことをずっと嫌がったんです。美大に行くのも大反対で。代々が商人の家だったし、父が道楽者で苦労もしたからなおさら、「絵を描くことも道楽だ」と嫌悪していた。そのころって、テレビに絵描き役が出てくると、だいたい呑んだくれで、女たらしで貧乏なんですよ(笑)。
―いわゆる破天荒で破滅型、という…(笑)。
田名網:そういう場面がテレビに出ると必ず母に呼ばれて、「あんたもいずれこうなるんだよ」って。そういうことを延々言われつづけながらも、この仕事を選んだから、何か人前で堂々と描けない自分もずっといました。こんな歳になっても、どこか尾を引いているところはありますね。母もいい加減諦めましたが、絶対に褒めることはなかったです。とんでもない道楽者だった父のこともあったから、しょうがないとは思いますけどね。
絵って「教えてもらうこと」ではないから
―最近では、渋谷の街を行き交う女子高生たちにインスパイアされたという作品群もありましたね。きらびやかであると同時に、作りあげられた美という運命を持つ観賞用金魚と、彼女たちの姿を重ね合わせて…。
田名網:渋谷のセンター街に入るとすぐ、パン屋があったんですよ。今はもうなくなったんですが、2階でコーヒーが飲めた。そこから見ると女子高生たちの生態がとても面白くて…当時は毎日のように通っていましたね。
―新しい「記憶」や「夢」も作品世界に反映されていくということでしょうか。関連して、京都造形芸術大学における束芋さんや佐藤允さんらの教え子、そして宇川直宏さんたちとの交流は、どんな魅力がありますか?
田名網:とにかく勉強になりますね。年代だけでなくそれぞれの考え方が違うので。束芋は学生時代から目的意識がはっきりしていて、他の学生とはまったく違っていた。これは面白いなと。佐藤允もそうでした。入学してきて、パッと(作品を)見たらわかるんです。束芋のような学生がひとり居ると、そのクラス全体のレベルがつられて上がるという効果もありました。佐藤は今回の『ヨコハマトリエンナーレ2011』にも参加していて、僕と同じ部屋での展示になっています。彼はいま大学で一緒に授業をしていて、今回の参加作家の中では最年少のようですね。
―教師・田名網敬一はどんなタイプの先生なのでしょう?
田名網:僕が学生のころは、偉い先生たちは生徒の作品講評に来ても10分位しか教室にいないとか、ダメな作品に絵の具でバッテンを直接つけちゃったり、ある意味いい加減で大胆(笑)。その時代に比べると、いまの美大は手取り足取りという感じ。度が過ぎてもよくないけれど…僕の場合は、自分自身にとっての関心や興味のある課題しか出さない(笑)。まぁ僕とはまた違うタイプの先生もいるので、学校全体としてバランスが取れればいいんじゃないかな。絵って、「教えてもらうこと」ではなくて、自分で考えるものだと思いますね。
―以前ある記事で束芋さんが、田名網さんの授業は「発想を教える」ものだと語っていたのを思い出します。気になる生徒さんというのは、どういうところを見てそう感じます?
田名網:どうだろう、それは生徒によっても違うものね。順応性が高い生徒も、反発する生徒もいる。でも優秀な生徒はどっちかって言うと、順応するよりも抵抗してくる。逆に言えば、それをきっかけにディスカッションできるから面白いんです。あまり考えていない学生は言いなりでしょ。そういう生徒は伸びないですよね。佐藤なんかは、僕が研究室に行くと毎回毎回、新しい作品持ってきた。もういいかげんにしてよというくらいに(笑)。
「これで完成」っていう感覚は、自分でも未だによくわからない
―田名網さんは他のクリエイターとの協働にも積極的ですよね。最近で言えば、シンガポールの若手クリエイター集団「:phunk」と現地でコラボ展をしたり、同時期に当地の名物インディペンデントマガジン『WERK』で特集されたり。
田名網:やっぱり面白いですよ、みんな違うからね。他にも2年前にインド出身のファッションデザイナーと一緒に、僕の作品をとんでもない服にしてパリ・コレクションで発表したマニッシュ・アローラという人がいて…いまちょっとその服持ってきましょうね(いくつか現物を広げてくれる)。
―…っ!? これは着る人が、服のパワーと対決しないといけないですね。刺繍や色合いもスゴいです。
田名網:とてもいいんですよこれが。いくつかデータを送ったらこんな風に予想を裏切る作品に仕上がった。面白いでしょう?
―大満足です(笑)。ところで田名網さんは、長いキャリアにおいて特に満足感や達成感というのを感じた瞬間はどこかであるんですか?
田名網:「これで完成」、達成感っていう感覚を味わったことはないですね。自分でも未だによくわからない。答えはないから「このへんでいいのかな」って思いながらやってきたところはあります。もちろん、出した本が売れたり、作品に良い反応がきたりすれば嬉しいですけどね。
―最後に、今後トライしたいことや構想など伺えますか。
田名網:映像については、好きなので今後もやっていきたいですね。ただ、アニメーションを10年間の長期にわたって一緒に作ってきた相原信洋君が、今年の5月にバリ島で死んじゃったんです。彼は天才的なアニメーション作家でした。往復書簡の形で作品を作ったり、互いの見た夢を交換して再編集したりして、アイデアが渾然一体になるのが面白かった。気が合ったし、いなくなってしまったのはとても残念です。でも、これまでも僕1人でも作ってきたし、今後も映像はやっていきたいですね。
また『ヨコハマトリエンナーレ2011』の後も9月にはルクセンブルク近代美術館で映像個展があり、10月には田名網敬一個展『結び隔てる橋』(NANZUKA UNDERGROUND)、『ジャラパゴス』展に参加します。そして11月にはGalerie Gebr.Lehmann・ベルリンで個展がある他、ファッションデザイナー、ルシアン・ペラフィネとのコラボレーションがあり、スイスのNieves社よりドローイング集『HOP STEP JUMP』を出版します。2012年には新しくオープンするシンガポール国立現代美術館で大型インスタレーション作品を展示する予定です。
『ヨコハマトリエンナーレ2011 OUR MAGIC HOUR―世界はどこまで知ることができるか?―』
2011年8月6日(土)〜11月6日(日)
会場:神奈川県 横浜美術館、日本郵船海岸通倉庫(BankART Studio NYK)、その他周辺地域
時間:11:00〜18:00(最終入場は17:30まで)
休場日:8月、9月は毎週木曜日、10月13日(木)、10月27日(木)
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