メインビジュアル:©田村由美/小学館 ©フジテレビジョン
タイトルのように「ミステリ」でありながら、そうではないものも描いていくと印象づけた、第1話
3月28日に最終回を迎えた『ミステリと言う勿れ』。本作は、田村由美による同名漫画を原作としていて、菅田将暉が大学生でひたすらよく喋る久能整(くのう ととのう)という主人公を演じた。
さまざまな事件が起こる本作は、そのエピソードによって登場人物が変わっていくため、遠藤憲一や門脇麦、水川あさみ、柄本佑、小日向文世、佐々木蔵之介、北村匠海など、豪華な俳優陣が、数話の出演だけで登場している。
原作にファンの多い作品だけに、菅田将暉が天然パーマで仏頂面、誰彼かまわず持論をまくしたてる久能整を演じることに、当初はイメージと違うと漏らす意見が数多く聞かれたのも事実だ。しかし菅田将暉自身が、整のセリフの内容の背景を調べて、自分のなかに落とし込んでから喋るようにしたり、また、原作よりもおっとりとした喋り方で人間的な面を見せるようにしたりと、役の解釈を深めたり広げたりした結果、菅田が整を演じることに対しての世間の違和感は早々に消えたように思える。
第1話は、漫画原作の1巻の内容とほぼ同じで、整が同じ大学に通う大学生を殺害した犯人と疑われ取り調べを受けることになる。そこには遠藤憲一演じる刑事の藪がいたが、彼は旧態依然とした考えの持ち主で、整を追い詰め、反論されると、整の首元に手をかけて凄むような「ホシをあげるためにすべてを投げうってきた」「刑事の鑑」のような人物(もちろんそれは警察内部の古い考え方においての)である。
この回では、整が示す旧来的な価値観に縛られない若者像と、古いしきたりにがんじがらめで、それを守るためであれば、手荒なことをしても構わないという藪刑事の対比を描くことによって、このドラマが、タイトルのように「ミステリ」でありながら、そうではないものも描いていくものなのだということを、うまく印象づけていたのではないかと思う。
第1話の最後で整は取り調べで藪にむりやりつきつけられた矛盾だらけの話を、一つひとつその洞察力により覆していく。その結果疑いを晴らすばかりか、その能力を警察に買われて、探偵のようなことを続けていくようになる過程が、上手い具合におさめられていた。
また、藪が家庭をかえりみない部分があることについて、家族のためには仕事を優先して時間をつくれなかったのに、家族を失ったあとは復讐に時間を費やすことができる、その矛盾を子どもの立場から指摘していた。これは、性別による役割分業の話でもあり、現代において重要になりつつあるものであるから、整のこうした部分が、ドラマの根底に流れるようなものになればいいなと期待していた。また、原作よりもフィーチャーされることとなった刑事、風呂光聖子(伊藤沙莉)に対しても、働く女性が抱えるものをあきらかにして、見ているものに、何か明るく道を照らしてくれるのではないかと期待していた。
回をおうごとに大きくなっていった「ミステリ」の途中経過に焦点を当てること
ただ気になったのは、整が正論を言うときに、「これからいいことを言いますよ」と、まるで本に蛍光マーカーで線を引くように、音楽を流していたことだった。よく聞くような「テレビは映画ほど集中して見ないものだから、よりわかりやすくしたほうがいい」という価値観においては親切であるが、そうしたものを求めない視聴者からすると、違和感をおぼえることもあるのではないだろうか。実際、SNSの感想でも、音楽の使い方(音楽自体が悪いというわけではない)が気になるという意見が散見された。
第1話で整が容疑者として取り調べを受けているときに「真実は人の数だけあるんですよ」と言うが、これは、整が言う正論めいた話だけが正解ではないということや、ときに間違いながらも、よい方向を目指していこうということを示していると思う。それは、これだけが正解と決めてかかるより、誠実なことでもあるだろう。
ただ、このドラマは、回をおうごとに、いろんな要素が入り乱れ、このドラマのタイトルにあるように「ミステリではない」部分もあるということをおざなりにし、「謎を視聴者に残したい」という「ミステリ」の途中経過の部分に焦点を当てるところが大きくなっていったのではないか。
特に、最終話は、原作のさまざまなエピソードが行ったり来たりして、わかりにくくなっていたし、ラストに何かが解決するわけではなく、謎を残してドラマが終了してしまった。最終話に至る前にも、ドラマのクライマックスのような部分が、前半に持ってこられていたりして、後半は別の話が始まるような展開も多かった。蛍光マーカーを引いて、わかりやすくするような演出を用いながらも、わかりにくいエピソードの行き来があったり、前半にクライマックスがあるように見えたりするのは、もしかしたら、たくさんの要素を詰め込むことで、視聴者を飽きさせない工夫などもあったのだろうか。
毎回ではないが、整のセリフに、「確かに、そういう考え方も必要だな」と思わせるものがうかがえることはあったのだが、さまざまなエピソードが交錯しているばかりにそれぞれが独立し、前後とのつながりが薄くなっているように思えた。そうなると、整の言っていることも、たんなる「正論」を唐突に言っているように見えて、より「正論」としてしか機能しないということもあったのではないか。
個人的には、最終話、整が新幹線のなかで出会った女性が、結婚式でバージンロードを父親と歩きたいということに対して「たいてい一番、手間と時間をかけて育ててくれてるだろう母親を脇に立たせておいて、どうして父親とだけ歩くんだろう。どうして父親のものから夫のものになる引き渡し式、みたいな形でいまもするんだろう」と素朴な疑問を口にし、結果、その女性は、「私を生んでくれたお母さんと、育ててくれたお母さんと、三人で歩きたい」と口にする。整の言っている素朴な疑問は、あきらかに家父長制に対しての疑問であり、こうした部分が「ミステリ」ではない重要なところなのだと思う。
ただ、この話も、最終話のなかの一部分であり、前半には終わってしまっていた。この育ての母とこれから結婚する娘のエピソードの終わりには、人間の恐ろしさと、その背景にある暴力との複雑な関係が読み取れると示されていて、複雑さもある。もっと自信を持って時間をかけて、一話で描いてもいいのではないだろうか。
このほか、原作を読んでいたファンからすると、原作よりもフィーチャーされた風呂光に追加されたものが、整への恋心であったことに違和感を抱いたという意見も散見された。なにもラブストーリーがつけ加えられることがすべて悪いというわけではない。「ラブストーリーの要素があるほうが、うれしいと思う視聴者がいる」という、安易な判断でつけ加えられているようなところに違和感を持っているのだろう。多くの原作ファンは、原作や第1話でも示されているように、風呂光が男性ばかりの職場で感じる生きづらさに焦点がもっと当たるのではないかと期待していたのではないだろうか。
原作からうかがえる「謎を解くことだけが重要なわけではない」という考え
書いていたら、さまざまな点を指摘してばかりの原稿になってしまったが、たんに誰か責任を負わせようと書いているというよりも、テレビとしてどうしたら飽きずに見てもらえるかと前向きに考えた誰かの見解が、さまざまなところに影響を及ぼしてこうなったのではないかと考えている。
最終回で謎を残して終わったことを考えても、菅田将暉の新たなキャラクターが結びついたという意味でも、そして原作にまだまだ映像化されていないエピソードがあるということを考えても、続編に期待を持つ視聴者もいるだろう。
だからこそ、何度も書くが、自信を持ってじっくりとストーリーを重ねる描き方をしたり、描く事件の背後にある人間の恐ろしさ——特にこの作品は児童虐待を多く描いているのだから、そのことを社会的なことにフィードバックさせたり、また整をはじめとして、ドラマでフィーチャーされた風呂光などのキャラクターのミステリ以外の要素、例えば彼らが事件から見た人間や社会に対して「考えていること」などに焦点をあてていってほしいと思うのだ。実際、ドラマの中盤では、被虐待児について、時間をかけて描いていた。
この作品に特にそう願うのには理由がある。原作者が「ミステリではない」とタイトルにつけたのは、「ミステリを書くなんておこがましい」という思いがあると言われてはいるが、それ以外にも、社会に横たわる事件の背景や、それに対して登場人物が何を思うのか(特に整は家父長的な考え方に流されない人物である)も描かれており、謎を解くことだけが重要なわけではないという考えもこめられているように感じるからだ。
- 作品情報
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- 発売情報
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『ミステリと言う勿れ』(Blu-ray BOX)
2022年8月3日(水)発売
品番:PCXC-60105
価格:31,020円(税込)
『ミステリと言う勿れ』(DVD BOX)
2022年8月3日(水)発売
品番:PCBC-61797
価格:29,260円(税込)
発売元:フジテレビジョン
販売元:ポニーキャニオン
©田村由美/小学館 ©フジテレビジョン
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