メイン画像:ベネッセハウス(写真:山本糾)
「直島に行ってみませんか?」と誘われたのはこれが2度目だった。1度目はちょうど1年前の2020年11月末のこと。アートを専門とするライターであるにもかかわらず、そのときまで自分が1度も直島に行ったことがなかったのは、連れ立って旅に出かけるようなアクティブな友人が少なかったのも理由だし、夏の暑い盛り、旅行客が大挙してやってくるシーズンに足を運ぶ想像に、どうしても億劫な気持ちになってしまったからでもある。だからコロナの流行がいっとき収まりつつあった時期の直島やその周辺の島々を訪ねる経験は、特別な時間、特別な経験となった。
それから1年後の、やはり冬の直島に再訪するというのも不思議な縁だが、2度目の旅は1度目よりもいっそう奥深い経験になるとも聞く。それを信じて、私は香川県高松港からフェリーに乗り、直島へと向かった。
フェリーに乗り、いざ上陸
高松港と各島を結ぶフェリーは市民の生活航路でもあって、朝夕は通勤・通学の学生や社会人の姿が目立つ。日常的に海を渡る生活とはどんなものだろうか? コロナ以前であればここには国内外の旅行客も大勢いたはずだが、いまはまだ暮らしの時間が主役だ。
島へ渡るフェリーが風と波を切って進むほどに、少しずつ日常から非日常へと意識が溶けていく。川端康成が「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と描写した、スイッチを切り替えるような移動とは違って、船旅には目的地のほうがゆっくりと自分のそばに近づいてくるようなグラデーションの感覚がある。
『瀬戸内国際芸術祭』の会場にもなった男木島や女木島を横切ると、いよいよ直島がその姿をあらわす。目を引くのは、島の北側にある直島製錬所の高い煙突(アートファンには「現代アートの聖地」として知られる直島だが、地元の主要産業は三菱マテリアルが運営する製錬業なのだ)。やがて玄関口である宮浦港が視界に入り、そしてアイコニックな草間彌生の赤いかぼちゃのオブジェも見えてくると、直島に戻ってきたという感覚がいっそう強くなっていく。さあ、上陸だ。
直島に流れる複数の歴史、アイデンティティを可視化させる『瀬戸内「 」資料館』
まず訪ねたのは『瀬戸内「 」資料館』。パチンコ店だった場所を改装した「宮浦ギャラリー六区」としてさまざまな展示に活用されるスペースだが、現在はアーティストの下道基行が中心となり、瀬戸内海の近現代史を調べるための資料館・図書館として用いられている。
ユニークなのは、ここが単に情報や遺物を集めるアーカイブとしてだけでなく、宮浦エリアのコミュニティセンター的な場所にもなりつつあることだ。主に小学生を対象に、自分で調べ・発表する力をトレーニングする「しまけん 島の子供の研究室」で、ご近所の子どもたちと研究に勤しんでいる。建物の裏手にあった焼肉店を改装したスタジオでは、陶芸教室の先生をしていたこともある下道と彼の友人が、その経験を活かして「直島窯工部」をひらいている。
そもそもパチンコ屋だった場所がギャラリーになり、いまは資料館になっていることがユニークだが、さらにその用途を増やし続けていることが、私にはちょっとした希望のように感じられた。「自分はこうであらねばならない」と、1つきりのアイデンティティを求めすぎることには息苦しさがともなう。だが、自分の親しむ場所や物事が、ある人にとっては学びや創造のための学校であったり、またある人にとっては気持ちを和らげる休息地だったりすることの寛容な複数性は、人の創造性や可能性を広げてくれる。
下道は、ここで定期的に企画展を開いているが、それは直島の歴史の「複数性」を示す試みになっている。去年の夏に開催されていたのは『瀬戸内「鍰造景」資料館』。島民であるアンドリュー・マコーミックと岡本雄大とともに、「鍰(からみ)」と呼ばれる産業遺物をリサーチしたプロジェクトの成果発表で、「アートの島」と呼ばれるようになった直島の、もう1つの歴史を伝えるものとなった。
鍰とは銅を製錬する際に排出される不純物のことで、直島ではレンガ、タイル、瓦などに鋳直され、建材に使われてきた。製錬技術の進歩で新たに排出されることはもうないが、街巡りをしていると、古い家屋の土台に鍰が使われているのを発見できる。黒く重みのあるソリッドな見た目は装飾としてもイケているが、鍰は直島が発展していく過程で進んだ、近代化の副産物でもある。もちろん三菱マテリアルが扱う事業は島の主要産業として島民の暮らしを支え続けている。だが、こうした近代化の歴史を経た先に現在の直島があるのだと知る経験は、アートに触れることを目的にやって来た気ままな旅人の意識も揺さぶるはずだ。
時間のあり方を決定的に変えてしまう体験。『ザ・フォールズ』
次に足を運んだのは島東部に広がる「本村エリア」。ここは直島における城下町のような集落で、古い民家が立ち並ぶ落ち着いた雰囲気が特徴だ。
ここで1998年から展開している「家プロジェクト」は、町内に点在する古民家などをまるごとインスタレーション化する試みで、直島がアートに関わり始めた初期のプロジェクトだ。特殊な鑑賞体験を提供するジェームズ・タレルや内藤礼など、前回の訪問でも強い印象を残した作品が多数あるが、今回あらためて驚かされたのが、千住博の作品が展示された家プロジェクト「石橋」である。
製塩業で栄えたというこの館での作品の存在感はけっして強くない。家自体の空間や歴史のほうを際立たせるために、庭先に置かれた石や襖絵は「じつは作品でもあるんですよ」と控えめに主張している。
奥に歩を進めると、蔵として使われていたとおぼしき薄暗い場所にたどりつく。そこに展示された『ザ・フォールズ』は、「滝」を描いた大きなモノクロームの壁画だ。千住の代名詞とも言える滝の作品は、例えば羽田空港のターミナルなどで見ることができる。それらは、滝の落水や朝靄といった移りゆく自然現象とその時間を、力強い筆致と高い技術によって停止させたかのようだが、私はそれを「マッチョすぎるのではないか?」と感じていた。だが、この「石橋」にある滝には、これまでと異なる発見があった。
蔵の上部に穿たれた小さな窓から射し込む午後の外光は、夕暮れの訪れを予感させるほんのりとした茜色を帯び、モノクロームの滝に重なってくる。人間の知覚と受容の感性はとても不思議で、そのような暖かな色彩を目にするだけで、ある種の「動き」を想像させる。薄暗い蔵や静謐な滝が想起させる静止した世界が、ゆっくりと、本当にゆっくりと賦活していくように見えてくる。
この感覚は強烈なものではないので、少しでも鑑賞の集中力やリラックスが途切れると失われてしまう、繊細なものだ。だが、ひとたび掴んだ「そこにある」感覚は、私にとっての時間のあり方を決定的に変える。
「よく生きる」。直島の哲学を体現するベネッセハウス
1泊2日のコンパクトな旅では、ついついいろんな予定を詰め込みたくなってしまうものだが、無理は禁物。『瀬戸内「 」資料館』や家プロジェクトで得た貴重な時間の感覚を大切にして、本日の宿であるベネッセハウスに早めのチェックインをしよう。
ベネッセ(Benesse)とは、ラテン語の「bene(よく)」と「esse(生きる)」を合わせて「よく生きる」という意味を与えた造語であり、直島のアート活動全体を貫く理念でもある。大量消費社会化した現代への反省として、アートや島の暮らしを通じた本来あるべき人間性との再会が、「ベネッセアートサイト直島」の創立者である福武總一郎が約30年をかけて目指してきたものだが、ベネッセハウスでの滞在では、その理念の体現を自然に感じることができる。
ホテルスタッフに案内されたのは、目の前に瀬戸内の海が広がる客室。ネットは通じるがテレビはなく、時計も目立つようには置かれていない。大きなテラスからの自然の眺望におのずと目と身体が開かれるような落ち着いた空間だ。
客室にはそれぞれ異なる作品が設置されている。今回はジェームズ・タレルの『スティル・ライト 1990-91、Juke』(1990-91年)。光と空間を作品化するタレルのアイデアを結晶化させたような、シンプルな平面作品だ。
ベネッセハウスには、それぞれの客室以外の場所にもたくさんの作品が展示されている。今年3月にオープンした「杉本博司ギャラリー 時の回廊」には、名建築や松林を被写体にした写真作品だけでなく、作家自ら設計した長椅子や造形作品が並んでいる。さらに今回いちばんの驚きだったのが、ヴェネチア、パリ、京都でお披露目されてきたガラス製の茶室『聞鳥庵』(2014年)が敷地内に移設されていたこと。水場の上に設えられた透明な矩形の茶室を、夜明けの光のなかで見る経験は美しいものだった。同ギャラリーは数年ごとに展示替えも予定されているらしく、近い未来に、またここを訪ねる理由ができた。
こうした作品の数々に触れつつ、瀬戸内の豊かな食材でつくられた料理も堪能し、リラックスした眠りの時間を過ごすことのできるベネッセハウスは、それ自体が巨大な体験型のインスタレーションのようだ。「よく生きる」という思想には「よく見る」「よく食べる」「よく眠る」こともきっと包含されている。
時間の経過とともに、気づかなかったものが視えるように。李禹煥美術館
翌朝。ベネッセハウスで朝食を食べたあと向かったのは、送迎バスで行くことのできる李禹煥美術館。
2010年に開館した李禹煥美術館は、「もの派」と呼ばれる芸術動向を代表する李禹煥の作品を展示する施設だ。瀬戸内海を背にした巨大なアーチや、安藤忠雄の手による建築の重厚な佇まいのダイナミックさに最初は目を奪われるが、心はもっと微細なディテールへと心惹かれていく。巨大な鉄板に含まれた油分がその下の敷石に染み出して侵食している『「関係項–対話」2010』の痕跡であったり、巨大な石をガラス板と鉄板の上に落とした『「関係項」1968/2010』の、生じるはずのない不思議な亀裂(ガラスには傷一つなく、その下の鉄板に三筋の亀裂が走っている。因果の錯綜?)。時間が移り変わるほどに、気づかなかったものが視えるようになってくる。この美術館では、そういった経験の変容を至るところで促されるのだ。
「もの派」とは、物質そのものの存在性や、異なるものから生じたさまざまな現象が互いに及ぼし合う関係性に関心を向ける動向であったが、李禹煥の作品はその関係性を造形として可視化するだけでなく、原因と結果の関係や順序を混濁させるサイエンスフィクション的な想像力も提示しているのかもしれないと、今回私は思うようになった。
真っ先に連想したのは、クリストファー・ノーランの映画『インターステラー』や『テネット』である。そのような想像を植え付けられてしまったあとでは、「沈黙の間」や「瞑想の間」と名づけられた空間を有する美術館の静寂は、私の頭のなかにそれとは真逆の思考の嵐を巻き起こすのだった。それは昨日の家プロジェクト「石橋」での経験にも似た、動きと静止を同時に体感する奇妙な経験である。
李禹煥の作品は、東洋的な「禅」と関係づけられて受容されることが欧米圏ではとくに多いが、もしも禅と呼ばれているような経験がチルアウトやマインドフルネスの平穏だけでなく、もっと過激でラディカルなものであるのだとしたら、人間とアートが出会うなかで得られる経験も、より異なる相貌を露わにするのではないかと思う。速度を極めた先に訪れる安定状態……のような何か。これもまた、直島の「時間」から得た発見である。
直島が「現代アートの聖地」と呼ばれるまで
哲学的な問答で、私の頭はオーバーヒート気味だ。でも、アートを見ること・考えることの疲れは心地よい。
人間や社会についてのさまざまな問いが衝突し、ときに矛盾を生み出すことの先に、「作品」はかたちを持って生まれてくる。さらにそれは、新たな謎や問いも見る者に投げかけてくる。この終わらない問いの連鎖・円環に人間は大いに刺激され、疲労する。そして、それはとても楽しい。
そのようなプロセスは、不条理で解決困難な問題に向き合う現実社会の反映と言えるかもしれないが、アート=芸術ならばその先にある「何か」に触れることができるとしか思えない瞬間が私にはある。そういう時間を経験するのはアートにおいてすら稀だが、直島ではしばしばその感覚を思い起こす。おそらくそれは、現在の直島がつくられるに至った歴史が関係している。
瀬戸内海の小島であった直島が「現代アートの聖地」と呼ばれるまでには、長く苦い歴史がある。17世紀後半から江戸幕府が直轄する天領であった直島と周辺の島々は明治維新後の近代化のなかで破綻状態を迎え、1917年に三菱合資会社(現在の三菱マテリアル)の銅製錬事業を創業する。日清戦争、日露戦争などを経て急速に進んだ日本の近代化に歩を合わせるように、直島も三菱の企業城下町として華々しい回復・発展を遂げた。しかし、それにより島の自然や文化は大きな影響を受けることになる。
「ベネッセアートサイト直島」の創立者である福武總一郎は、父である福武哲彦の遺志を継いで「直島文化村構想」を発表した1988年当時を振り返り、こう述懐している。
瀬戸内海の島々は、日本で最初の国立公園に認定されながら、日本の近代化や戦後の高度成長を支え、かつその負の遺産を背負わされた場所でもあります。直島や犬島には亜硫酸ガスを出す製錬所が建てられ、豊島は産業廃棄物の不法投棄が行われ、島々の自然と島民は痛めつけられました。また、大島はハンセン病の人々を収容する療養施設として、長い間、社会とは隔離され続けたのです。-
(『瀬戸内海と私――なぜ、私は直島に現代アートを持ち込んだのか』より引用)
誤解を恐れずに言えば、ベネッセアートサイト直島の理念は町民や島自体の怒りや苦しみ、矛盾を受け止めるところから始まっている。そして福武はこう続ける。
私は瀬戸内の島々と深くかかわりながら、東京での生活や社会のあり方を比較すると、これまでの自分の考え方が180度、転換して行くのを感じるようになりました。つまり、「近代化」とは「都市化」と同義語であり、東京に代表される大都会は、人間が自然との営みから離れ、人間の欲望だけが固まった、化け物のような場所ではないか、ということです。-
(中略)
そうした、「破壊と創造を繰り返す文明」から、「在るものを活かし、無いものを創っていく」という、「持続し成長していく文明」に転換して行かなければいけない。そうでなければ、文化の継承と発展は出来ないし、我々の作ったものも、いずれ後世に抹殺されてしまうだろうと考えました。
美術館とホテルが一体になったベネッセハウスのオープン(1992年)。「直島にしかない作品」をアーティストとともに制作するサイトスペシフィック・ワークへの方向転換(1996年)。地中美術館の開館(2004年)。犬島精錬所美術館の開館(2008年)。そして2010年の豊島美術館の開館……。直島は発展と拡張を続けてきたが、それはアートを通して「在るものを活かし、無いものを創る」という思想を土台とする、文化の継承と発展の営みであった。
自然が回復し、アートを介した経済活動が島に定着したあとも、直島を取り巻く状況は移ろっていくだろうし、新たな課題も生じるだろう。コロナ禍による人々の交流の途絶はまさに現在進行形の問題で、アーティストが作品をつくるうえでも、人々がアートを経験するうえでも、これまでになかった「出会うことができない」という課題に直島は直面している。しかしそのような困難、光と影が背中合わせで併存するような矛盾や混沌から文化は生まれ、継承されていく。そしてその鏡像としてのアートも生まれ続けるだろう。
『I♥湯』でひとっ風呂。旅の終わり
以上が、今回の直島滞在の私なりのエッセイだ。旅の終わりは大竹伸朗が設計した、作品と銭湯が一体化した直島銭湯『I♥湯』でのひとっ風呂。ちょうど冬至(12月22日)のタイミングで、柚子の浮かぶ湯船も今回だけのスペシャルな時間、スペシャルな経験であった。高松に戻るフェリーの時間は迫っている。
風呂から上がった私は、フェリーに飛び乗るために港へ急ぐ。心のなかでは「また直島に来よう」と、とっくに誓っている。
- 施設情報
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ベネッセハウス
「自然・建築・アートの共生」がコンセプトの、美術館とホテルが一体となった施設。
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