ロシアのウクライナ侵攻後、あらためていま読むべき本として注目を集めた、『ノーベル賞』作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの著書『戦争は女の顔をしていない』。ソ連で第二次世界大戦に従軍した500人を超える女性たちに聞き取りを行なった証言集だ。
このたび日本公開された映画『戦争と女の顔』は1990年代生まれの監督が、本書を原案に終戦直後のレニングラードを舞台にして完成させた作品である。戦争が終わった後、戦争に参加した女性に何が起こるのか。PTSDを抱える二人の元女性兵士の姿を通して「戦争が終わっても終わらない戦い」を映し出す本作を、文筆家の水上文がレビューする。
※本記事には映画『戦争と女の顔』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
『戦争は女の顔をしていない』から『戦争と女の顔』へ、引き継がれた問い
戦争はどんな顔をしているだろうか?
『ノーベル文学賞』を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』は、第二次世界大戦に従軍した500人以上の女性からの聞き取りによって書かれた証言集である。戦後、男たちが「英雄」とされる一方、従軍経験を持つ女たちは沈黙を強いられた。作家は秘められたその体験を描こうとしたのであった。男の言葉で語られてきたそれまでの戦争とは別の戦争、女たちの戦争を。語られなかった女たちの物語を。
そんな本の中には、母に「もし負傷するくらいなら殺してしまってください、女の子が不具にならないように」(*1)と祈られた経験を語る女性が登場する。
あるいは、16歳で戦争に行き、戦争から戻り重い病気にかかった女性は主治医に言われたという。「薬でも直せるが、ほんとうに健康を回復したいなら、生きていたいんなら、私の唯一の助言は、結婚して、できるだけたくさん子供を持つことだ。それしか救いようはないな。子供を一人産むたびに身体は回復していく」(*2)。
負傷するくらいなら殺してくれと祈られる「女性」とは、一人産むたびに回復する「身体」とは、いったい何なのだろう。子どもを産まない/産めないとしたら、どんな「回復」があり得るのだろう? そもそも回復とは何か?
恐ろしい戦争を戦い、生き延び、そしてその後も生き続けるとは、どういうことなのか——戦争によるトラウマを抱えて生きることをまさしく身体的なものとして描き出す作品こそ、映画『戦争と女の顔』である。
ロシアの巨匠アレクサンドル・ソクーロフ監督のもとに学んだ新鋭、カンテミール・バラーゴフ監督によるこの作品は、『戦争は女の顔をしていない』を原案に女性たちの戦後を描く。
映し出されるのは、戦争によるトラウマと後遺症に悩まされ、終戦してもなお終わることのない戦いを生きる女性たちである。中心となるのは後遺症の発作によって子どもを死に至らしめてしまった女性と、戦地で負った傷によって不妊になった女性であり、二人のクィアな関係性である。
物語に戦闘は登場しない。けれども戦争がどれほど終結後も人々の生を蝕むものなのか、『戦争と女の顔』は極めて雄弁に描き出しているのだ。
戦後のレニングラード、終わらない戦いを生きる元女性兵士たち
舞台は1945年、終戦直後のレニングラード——第二次世界大戦時、ドイツ軍によって900日近くにわたって包囲され、夥しい死者を出しながらも耐え抜いたと語られるソ連のあの都市——の軍病院である。戦争によって障害を負った傷病軍人が、ここには多く収容されていた。
物語は呻き声から始まる。言葉にならない、軋むように漏れ出る声から。
発しているのは、主人公のイーヤ(ヴィクトリア・ミロシニチェンコ)である。極めて背が高く、のっぽ(英語でbeanpole。本作の英題でもある)というあだ名で呼ばれるこの女性は、戦地へ行った経験を持ち、PTSDを抱えながらも看護師として働いていた。
イーヤはしばしば発作に襲われる。全身が硬直し、身じろぎすることさえ不可能になるのだ。物語の冒頭では、発作が起き、虚空を見つめて呻く(うめく)イーヤが描かれる。だが周囲はまるで動揺していない。心身ともに傷ついた人しかいない、それは「日常」だったのだ。
イーヤはパーシュカ(ティモフェイ・グラスコフ)という小さな男の子を育てていた。パーシュカは、イーヤの戦友マーシャ(ヴァシリサ・ペレリギナ)の子どもであった。先に戦地から戻ったイーヤに、マーシャは生まれたばかりの子どもを託したのだ。
動物のモノマネをして笑い合う傷病軍人たちのなかで、パーシュカはどんな動物の真似をすることもできなかった。犬の真似をするよう言われても、彼はそれができないのだ。
なぜなら犬を見たことがないから。恐ろしい包囲戦を経験したレニングラードで、その死因のほとんどが餓死だったと言われる場所で、犬は「食い尽くされて」いたから。
犬のモノマネを教えられたパーシュカは、イーヤにふざけてまとわりつく。その時悲劇は起こる。イーヤに発作が起きるのだ。そして「のっぽ」と呼ばれる大きなイーヤの身体の下敷きになり、パーシュカは死んでしまうのである。
戦争は終わったが、しかし終わってなどいなかった。生き延びた後に、だからこそ存在し得る悲劇が、苦しみがあるのだった。
元女性兵士の性と生、戦争のトラウマとジェンダー
パーシュカの死を知ったマーシャの行動は、予想外のものであった。
彼女はそれを知ると、イーヤに「行くわよ」と言うのだ。外出して、踊りに行くのだと。子どもを失ったマーシャは、また子どもをつくろうとするのだ。そのために踊りに出かけ、性行為の相手となる男性を見つける必要があった。
唐突で不可解にさえ思えるマーシャの行動は、彼女が負った傷の深さを示すものである。
彼女はパーシュカの死を悼むことさえできない。まるで戦争で悲しみ方を忘れてしまったかのように、ただ新しい「子ども」を得ることに彼女は固執するのである。
おそらく彼女にとって「子ども」とは、冒頭で引用したように、戦争で負った傷を癒すための無二の手段だった。けれども戦地で負った傷によって不妊となったマーシャは、自分では子どもを産むことができない。だからマーシャは、イーヤに子どもを産むように迫る。自分の子どもを代わりに産んでほしいと。預けていたパーシュカを失ったのはイーヤのせいなのだから、と。
イーヤは男性との性行為を恐れ、嫌悪しながらも、マーシャの望みを拒絶することが出来ない。なぜならイーヤはマーシャを愛しているからである。彼女は自分が代わりに子どもを産むことで、マーシャの「主人」になりたいと願っているのだ。
二人の奇妙な企ては何を意味しているのだろう? 子どもを得ることに固執するマーシャの姿は、戦争によって損なわれた「女性」としての生の回復を試みているようにも思える。
実際、元女性兵士にとってジェンダーとトラウマは切り離せない。それは文字通り、終わらない戦いそのものだったのだ。
たとえば軍服を着たマーシャを見る男たちは、「軍の女は食べ物を渡せばヤらせてくれる」と笑っていた。こうした視線は、実際に元女性兵士に向けられたものである。男たちが賞賛を得る一方で、「女性らしくない」経験をした彼女たちは「結婚相手にはしたくない」などと言われることもあったのだ。
戦争によって傷つけられた女性性——映画のなかには、そんな彼女のあり方を象徴するシーンがある。ある時マーシャは緑のワンピースを着る機会を得る。だがワンピースを着て浮かれる彼女の踊りは、徐々に狂っていく。無邪気に「女らしさ」を誇示していた回転は歪になり、笑顔は消え失せ、焦燥感と必死さが際立っていく。停止する術を失った回転とは、損なわれた「女らしさ」への渇望と、上滑りしていく努力そのものだったのだ。
緑と赤のコントラスト、女性たちのクィアな関係
フェルメールの絵画のように印象的な画面は、緑と赤に彩られていた。
病院の壁や部屋の壁、衣服の鮮やかな緑は、「回復」への望みそのもののようである。
にもかかわらず、マーシャは緑のワンピースを着ても思うような「回復」が得られなかった。印象的なのはその後である。逃げるようにその服を脱ぎ、追い立てるように仕立て屋を部屋から締め出した後、涙に濡れたマーシャにイーヤが口付けるのだ。
傷ついたマーシャに、彼女を求めてやまないその愛を知らしめるように。そして当初はイーヤを拒んでいたマーシャもまた、イーヤが発作を起こしたことに気づくと情熱的に彼女に口づける。麻痺した彼女を再び取り戻そうとするかのように。緑のペンキに塗れながら行なわれるその口づけは、傷つきながら手を伸ばし合おうとする様、互いを救おうとする様そのものであった。
緑と赤、ソビエト連邦という共産主義の「赤い国」で生き、血を流しながらなお「回復」しようと足掻く二人の姿を、その色彩は狂おしく彩っていたのだ。
一方で、作品には戦争による女性間の分断も描かれていた。
作中には、富裕層の女性がマーシャに対して、前線で兵士たちと寝ていたのだろう、「戦地妻」だったのだろうと侮蔑的に言い放つシーンがある。元女性兵士に偏見の目を向けたのは男たちばかりではない。戦場へ行かなかった女性からの蔑視もまた実際に存在していたのだ。
偏見をあえてなぞるかのように嘘をつくマーシャの姿は、長きにわたって言葉を制限され、沈黙を強いられた実際の数多の元女性兵士たちを体現するかのようであった。
それにしても、マーシャがあれほど渇望する「子ども」に集約される回復とは、いったい何なのだろう? 子どもを産むたびに回復すると語られる「女性」とは、何なのか。
『戦争と女の顔』は、異性愛や妊娠・出産を前提とするような「女性」の物語ではないのだった。むしろ妊娠・出産能力を奪われた女性がそれでもなお回復しようと試みる様を、そしてつながり得る女性たちのクィアな絆をこそ描くのだ。
このことは、『戦争と女の顔』の他ならない批評性の現れである。ともすれば「女性ならではの戦争体験」について描かれたものとして、「女性とは何か」を問うことなく読まれてしまいかねない原案に対して、クィアな問いを挟むのだ。
原案について、ベラルーシの作家アレーシ・アダモーヴィチはこんな風に紹介していた。「戦争は女の顔をしていない。しかし、この戦争で我々の母親たちの顔ほど厳しく、すさまじく、また美しい顔として記憶された物はなかった」(*3)。この見事な紹介に、『戦争と女の顔』は付け加えるかのようだ——「母親」ではない女の顔もまた、厳しく、すさまじく、美しかったと。そして問いかけている。そもそも「女」の顔とは何か、いったい戦争はどんな顔をしているだろうかと。
*1:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、三浦みどり訳『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫) p53.
*2:同前 p221.
*3:同前 p484.
- 作品情報
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『戦争と女の顔』
2022年7月15日(金)新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開
監督・脚本:カンテミール・バラーゴフ
共同脚本:アレクサンドル・チェレホフ
原案:スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)
出演:
ヴィクトリア・ミロシニチェンコ
ヴァシリサ・ペレリギナ
アンドレイ・ヴァイコフ
イーゴリ・シローコフ
配給:アット エンタテインメント
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