体重272キロの男に、観客は自らを見る。『ザ・ホエール』、現代の神話のごとき映画表現

メイン画像:CAP:『ザ・ホエール』より ©2022 Palouse Rights LLC. All Rights Reserved.

A24製作、アカデミー主演男優賞を受賞した映画『ザ・ホエール』が公開された。主演を務めたのは『ハムナプトラ』シリーズのブレンダン・フレイザーで、体重272キロの男を演じている。

ダーレン・アロノフスキー監督が本作を指して「共感のエクササイズ」と語っているように、この映画には、大半の観客とはかけ離れた存在であろう「体重272キロの中年男性」チャーリーに自らが不思議と重なって見える瞬間がある。ブレンダン・フレイザーの演技の真価とともに、映画『ザ・ホエール』が描き出したものを読み解く。

ポッドキャスト番組「聞くCINRA」では、本稿のライター稲垣貴俊が映画『ザ・ホエール』について語った回も配信中(Apple Podcastはこちら

※本記事には映画『ザ・ホエール』本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承ください。

アカデミー主演男優賞受賞、ブレンダン・フレイザー演じる体重272キロの男に観客は何を見出す?

日々の生活に憂鬱を抱え、死と暴力に惹かれる青年イシュメールは、その思いを振り払うために捕鯨船・ピークォド号に乗り込んだ。船長エイハブは、かつて自らの片脚を食いちぎった白鯨「モービィ・ディック」への復讐に燃え、船員を支配しながら鯨を捜す……。

ハーマン・メルヴィル著『白鯨(The Whale)』は、エイハブ率いるピークォド号の長い航海の顛末が、語り手のイシュメールによって饒舌かつゆっくりと語られてゆく長編小説だ。復讐心をたぎらせるエイハブの怒りと狂気は、やがて船に乗る全員を危機にさらし、ついには大きな犠牲を招く。なぜ、エイハブはそれほど執拗に白鯨を追わなければならなかったのか?

この小説のタイトルをそのまま引用したのが、映画『ザ・ホエール』だ。

あらすじ:40代で一人暮らし、大学のオンライン講座で文章を教えることで生計を立てている「体重272キロの男」チャーリー。元妻・メアリーとのあいだには高校生の娘・エリーがおり、かつて彼女はこの『白鯨』に関するエッセイを書いたことがあった。チャーリーと娘の関係は崩壊しているが、彼はこの文章を、まるで娘そのもののように大切にしている。巨体ゆえの病を患うチャーリーは、しかるべき治療を拒んでおり、いまや余命わずかの身。歩行器なしではまともに歩くことさえできず、ひとりでは部屋の外にも出られない。自分の死期がまもなくだと悟った彼は、失われてしまった娘との絆を取り戻そうと試みるが……

ほぼ全編がチャーリーの部屋のみで展開する本作は、劇作家サミュエル・D・ハンターの同名戯曲を映画化したもの。舞台に感銘を受けたダーレン・アロノフスキー監督は、すぐさまハンターに連絡を取り、戯曲の映画化に着手したが、その実現にはおよそ10年を要している。大きな課題のひとつは、「体重272キロの男」チャーリーを誰が演じるかということだった。

ブレンダン・フレイザーが起用されたきっかけは、『復讐街』(2006年)の予告編でブレンダンの演技を見たアロノフスキーが、直感的に「この人がいい」と確信したこと。しかし、監督は『青春の輝き』(1992年)や『ジャングル・ジョージ』(1997年)『ゴッド・アンド・モンスター』(1998年)といった出演作を見ておらず、以前のブレンダンがあらゆる世代から愛される俳優だったことを知らなかったという。しかも心身の健康を損なっていたブレンダンは、ハリウッドの表舞台から一時期姿を消していたのだ。

もっともブレンダンは、自らが人生とキャリアのどん底を経験したせいもあるだろう、ボディスーツと特殊メイクの力を借りながら、このチャーリーという男を見事演じきった。かつてアクションやコメディー、ラブストーリーなどを得意とした「ポップな映画スター」ブレンダン・フレイザーの姿はここにはない。

なぜ『白鯨』をモチーフに?妻子を捨て、同性の恋人を選んだチャーリーと娘・エリーの関係が示唆すること

チャーリーは、ただ単に引きこもり、暴飲暴食を重ねたせいで肥満体となり、体調を崩したわけではない。彼には抱え続けてきた闇がある。

8年前、同性の恋人・アランとの生活を求めた彼は、妻のメアリーと娘のエリーを捨てて自分の人生を歩むことにしたが、その後、最愛のアランは自ら命を断った。喪失感に打ちひしがれたチャーリーは、自らの孤独を埋めるように食べ続けたのだ。そんな彼が自らの死期を悟り、娘との絆を結び直そうとするのは、自らの罪を償いたいという思いからである。

もちろん、エリーは父親の身勝手を許すことができない。「ゴミみたいに私を捨てておいて、8年経ってからいきなり父親になりたいって言うの? あなたはボーイフレンドのために私を捨てた。すごくシンプルな話だよ」。父に捨てられたという現実を生きてきた彼女は、実際にはその事実を受け止めきれていない。高校の停学処分を受け、卒業さえ危ういエリーは、何も信じることができず、周囲の人々を攻撃し、目の前の人間を試し続けるのだ。

チャーリーは「この世界すべてに怒る必要はない、僕にだけ怒ればいい」と語りかけるが、その言葉はなかなか届かない。

家族を捨ててまで人生を賭けた恋人に先立たれたチャーリーと、文字どおり家族の半分を理不尽なかたちで失ったエリーは、ともに大きな喪失を抱えている。そんななか、チャーリーは、娘が今後よい人生を歩むことを願いながら言葉を絞り出す。「あの子がいい人生を送れるという確信を持ちたい。人を大切にし、人から大切にされるという確信を」「君は素晴らしい、最高の娘だよ」。それらは今のエリーについて語る言葉というよりは、「どうかそうであってほしい」という祈りに近いものだ。

しかしエリーからすれば、そうした父親の態度もまた素直に受け入れられるものではない。彼女は自分なりに父親との関係をとらえ直そうとしているようだが、自らの感情と行動をうまくコントロールできず、母であるメアリーの言葉を借りるなら、できるかぎりの「邪悪」を尽くして暴れまわるのだ。そのとき二人は、互いに自らの喪失を埋めるべく格闘しているようにも見える。

悲しいと思う。この鯨は感情を持たず、どれだけエイハブが彼を殺したがっているかも知らない、ただの悲しい動物だから。また、私はエイハブも残念だと思う。彼は鯨を殺せば人生がよくなると思っているけれど、現実はそうならないからだ。この本を読み、私はとても悲しくなったし、登場人物にはいろんな感情を持った。けれど一番悲しかったのは、鯨の説明だけが続く退屈な章を読んだとき、語り手が自分自身の悲しい話を少しの間でも避けているのがわかったことだ。この本は私に自分の人生を考えさせてくれて、よかった。
- 作中で描かれるエリーによる『白鯨』のエッセイより

これはエリーが『白鯨』について書いたエッセイの一部で、彼女たちが劇中で繰り返し読み上げるものだ。感情を制御できずにチャーリーを攻撃するエリーは、『白鯨』で鯨への復讐に取り憑かれたエイハブにあたるのだろうか。それとも、自分の悲しみから目を背ける語り手=イシュメールだろうか。ならばチャーリーは、彼女の攻撃を受け続ける鯨か、それとも同じく悲しみを直視しない語り手か。あるいは、なりふり構わずに相手を求めるという意味で、彼もまたエイハブなのか。

『ザ・ホエール』本編映像

宗教と医療。二つの「救済」を衝突させることで描こうとしたものは何か

もっとも、原作者のハンターが自ら執筆した脚本と、アロノフスキーによる周到な演出は、この親子と『白鯨』の登場人物を重ね合わせよう、重ね合わせたいと考える観客の思惑をするりとくぐり抜けていく。『ザ・ホエール』の複雑さは、喪失を抱えた登場人物がこの親子だけではないことなのだ。

チャーリーの部屋を訪れるのはエリーだけではない。キリスト教の宗派「ニューライフ」の宣教師トーマス、亡きアランの義妹である看護師のリズ、そしてエリーの母親であるチャーリーの元妻メアリーもまた、揃って人生の喪失を乗り越えられずにいるのだ。

この映画が終始もの悲しい雰囲気に包まれているのは、5人の登場人物が、喪失を抱えるがゆえに誰ひとりとしてチャーリーを正面からきちんと見据えることができないからだろう。それはチャーリー自身も例外ではない。

トーマスは出来心の犯罪ゆえに家族という居場所を失い、また、リズは義兄のアランを救うことができなかった。メアリーは元夫とうまく関われず、娘の子育てを成功させられなかったという罪悪感にも苛まれている。そうした喪失と悲しみから目を背けるため、彼らは嘘をつき続けてきた。親身にチャーリーの面倒を見るリズでさえ、そのことは同じだ。

「私だけがチャーリーの力になれる」。そう言い放つリズの欺瞞は、実際には彼女以外の人間もチャーリーを支えられるという事実を無視し、彼と周囲の人々をある意味で引き裂こうとしている点にある。リズが心身を病んだチャーリーに亡き義兄の姿を見ていることは否定できず、彼女はチャーリーを救うことで過去を精算し、本当は自らを救おうとしているのだ。彼女の行動原理は、他者を救うことで自分の居場所を取り戻したいトーマスにもよく似ている。

だからこそ、ニューライフという信仰を挟むかたちで、リズとトーマスが対立することは必然だった。宣教師、すなわち熱心な信仰者であるトーマスが「神による救済」=精神的救済を提案するのに対し、ニューライフを忌み嫌う元信者のリズは、それとは対極の「医療」=肉体的救済をもってチャーリーを救おうとする。目的は同じ、しかし思想と手段が異なるがゆえに二人は衝突するのだ。

もはや、誰もが片脚を失ったエイハブであり、あるいは悲しみに暮れるイシュメールなのかもしれない。愛情と怒り、悲しみが絡み合った人間関係を見つめているうち、チャーリーの部屋という密室は、モービィ・ディックを追って大海原をゆくピークォド号そのものにも重なってくるだろう。ときに彼らは、誰かの怒りの矛先となる白鯨でさえある。ここはアパートの一室であり、船であり、海であり、都市であり、国であり――私たちの暮らす社会そのものだ。

それは映画の可能性そのもの。ブレンダン・フレイザーの演技の真価はどこに?

とあるシーンで、部屋のテレビからは2016年のアメリカ大統領予備選挙の速報が流れる。本作の時代設定は2016年、ドナルド・トランプが大統領に就任する以前なのだ。原作の戯曲は2009年という設定だから、ハンター&アロノフスキーは、この物語を、現在のアメリカや世界の状況につながる出来事の直前に位置づけ直したのである。さまざまな意味で世界が分断され、あらゆるコミュニティーの人々がそれぞれの孤独を抱えるようになる直前の時間に。

ただし、これまた脚本家と監督の企みであることは言うまでもないが、2016年という「現代」を背景としながら、二人はこの物語から現代性をほとんど剥ぎ取った(エリーの使うスマートフォンなどを除いて)。

2023年の「今」という時代から明確に距離を取りつつ、この物語を遠い時代や世界の出来事としては手渡さない繊細なバランス感覚。宗教や信仰、古典文学である『白鯨』を織り合わせることで、時代や土地などに縛られない、まるで神話のごとき抽象性を作品に与えてもいる。

この映画について、アロノフスキーは「共感のエクササイズ」だと言い切っている。「私が映画を愛するのは、映画というものが共感のエクササイズであり、誰もが世界中のあらゆる人々を描いた作品を見られるから。それが純粋で誠実な表現であれば、誰でも自分の人生や現状をそこに見ることができるはず」と。

すなわちここにあるのは、かくも特異的な設定を持ち込み、いまという時間を生きる人々の存在を眼差しながらも、時代や思想、信仰、人種、年齢、体型、人生経験といった「壁」を越えて観客すべてに訴えかけるという「普遍性」への挑戦なのだ。

本作のブレンダン・フレイザーがすさまじいのは、この役柄になりきったことでも、彼自身の実体験を思わせるような演技でカムバックを印象づけたからでもなく、その「普遍性」そのものを体現してみせたからだ。そしてそれはまた同様に、周囲の人物の多面性を細やかに演じたアンサンブルにも言えることなのである。

参考資料

・『ザ・ホエール』プレス資料

・『ザ・ホエール』英語脚本

・Los Angeles Times「Darren Aronofsky sees ‘The Whale’ as an ‘exercise in empathy’」(外部サイトを開く

・JoBlo「Interview: Darren Aronofsky talks The Whale」(外部サイトを開く

・Vox「The Whale screenwriter on writing about religious fundamentalism, bodies, and hope」(外部サイトを開く

作品情報
『ザ・ホエール』
2023年4月7日(金)TOHOシネマズシャンテほか全国公開 監督:ダーレン・アロノフスキー
原案・脚本:サミュエル・D・ハンター
出演:
ブレンダン・フレイザー
セイディー・シンク
ホン・チャウ
タイ・シンプキンス
サマンサ・モートン 配給:キノフィルムズ


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