シャーロット・ウェルズ監督による長編デビュー作『aftersun/アフターサン』は、若い父親と娘のひと夏の旅の思い出を、20年後、父と同じ年齢になった娘の視点で綴る物語だ。英米のさまざまなメディアで2022年ベストムービーの1本に数えられ、娘への愛情と31歳の男性としての苦悩をあわせもつ父のカラムを繊細に演じたポール・メスカルは、本作の出演で『アカデミー賞』主演男優賞ノミネートを果たした。
家庭用小型ビデオカメラ「miniDV」で映したローファイな映像やBlur、R.E.M.、Queen & David Bowieらの楽曲に彩られた本作は、1987年生まれの監督の自叙伝的要素も含む。よく兄妹に間違えられたというウェルズと父が実際にトルコで過ごした夏休みの思い出がベースになっているという。大好きだった父の姿と、当時は知り得なかった父の内なる葛藤──非常にパーソナルであり、曖昧なところをたくさん残した映画でありながら、本作が多くの観客の胸を打つのはなぜなのか。来日したシャーロット・ウェルズに話を聞いた。
悲しみと喜びはコインの裏表のようなもの。どちらかだけではありえない
─『aftersun/アフターサン』が、悲しみと喜びを対比させるのではなく、そのどちらもが人の心にあるさまを描いていることに強く心を動かされました。ソフィが父カラムの誕生日を歌で祝うカットと、カラムがひとり咽び泣くカットが、クロスティソルブ(前後のカットを重ね合わせる手法)でつながれていたのが非常に象徴的です。
針の穴を通すような繊細さが求められるストーリーテリングだと思うのですが、そこに至る経緯や、事前に行なった準備などをおうかがいしたいです。
ウェルズ:ありがとうございます。準備は大変でした(笑)。悲しみと喜びは対極にありますが、同じコインの裏表のようなものだと思っています。どちらかだけではありえない。本作では、あるときは喜びをわかちあうが、離れているときにはそれぞれが複雑な事情を抱えている──そんなふたりの人間の物語を描きたいと思いました。
ソフィは本作の物語を通じて、母親、そして父親のもとからはじめて離れることで、彼女自身のアイデンティティーについてや、両親への尊敬など、さまざまな教訓を得る第一歩を踏み出す。カラムは旅のあいだ、自分でも気づいていないような彼自身の深い悲しみに襲われる一方で、ソフィと一緒なら最高でいられる。それらの相反するはずの感情が、矛盾せずに存在し得るということを描きたかったのです。
ウェルズ:この映画を撮るプロセスは、私自身の想いを理解することでもあり、それこそがもっとも難しかったところです。これが私の描きたいストーリーなのだろうか、と考え続けました。
最初は特に構成がないような、ただバケーションを過ごすふたりの人間の物語だと思っていたのですが、いざ草稿に取り掛かると、これは記憶についての物語だと気がつきました。するとこれは、何年も経ったあとのソフィの視点で描かれる話のように思えてきて、すべての要素はその視点に仕えるべきだと考えました。そこから、いったいどうやって記憶について語るのか、語りたいのか、どうすればこの映画の終わりに、観客と最良のかたちで感情的なつながりを持つことができるのかを考えたのです。
─いま話していただいたように、記憶、そして記憶の曖昧さとたしからしさは本作のメインテーマだと思います。ジョーン・ディディオン(※)の文章に「記憶はかすれ、記憶は調整され、記憶は私たちが覚えていると考えているものに合わせられてゆく。」というものがありますが、本作を観ながら、まずその文章が頭をよぎりました。なぜ「ソフィが思い出している」ことを主軸とした物語の構成にしたのでしょうか。
※ジョーン・ディディオン:ニュージャーナリズムの先駆者として知られた、アメリカの作家・脚本家。小説やエッセイなど多数の作品を発表し、2021年に87歳で逝去した。文中の一節は『さよなら、私のクィンターナ』(池田年穂訳、2012、慶應義塾大学出版会)より。
ウェルズ:かっちりとした時系列通りに進行する物語にはしたくありませんでした。記憶はかたちを変えながら、特定の目的を持って人々のなかに存在します。
なぜわたしたちは、そしてソフィは過去のことをいまも覚えているのか? 「あってほしい」と願うなにかがそこにあると信じて、その記憶を抱えているのか? そのように考え続け、ソフィとカラムに寄り添うことで、フラッシュバックのように過去の感情が現在にあるようにする構成は可能だと思いました。物語自体が時間を遡る構成だとしても、単にこれまでを懐古するのではなく、これから先のことを見つめる、未来を垣間見るような物語にする、というか。
─劇中ではときおり物語の時系列と離れて、フラッシュが明滅する暗いレイヴの空間のなかで一心不乱に踊るカラムの姿が差し込まれますね。
ウェルズ:レイヴのシークエンスは、ソフィの時間を巡る旅のなかで彼女が探しているもの、つまりなんとかして父親(カラム)のことをもっとよく理解したいという望みを体現していると思います。
過去をできる限り現在のものとして扱うこと、さらに大人のソフィの造形を詳細に描くのではなく、彼女の感情にフォーカスして描くことで、観客が映画の世界に踏み込みやすくなり、作品とのつながりがより深まっていく。そして観客もまた、映画の終わりに、ソフィが劇中彼女の人生を辿ってきたのと同じように、この映画のなかで目にしたものを振り返り、見つめ直すことができる──そのようになっていればいい、と願います。
『aftersun/アフターサン』予告編
「悲しみ」を描いてきたウェルズが世界に向ける、メランコリックなまなざし
─もうひとつ、「悲しみ」も本作の大きなテーマだと思います。監督が過去のインタビューで名を挙げられていた、シャンタル・アケルマンやソフィア・コッポラ、エドワード・ヤンといった監督たちもみな、悲しみを描く名手と言えますが、『aftersun/アフターサン』もウェルズ監督独自の表現で、そのレベルまで到達している作品だと思いました。
私は本作が悲しみや不安を描いてくれたことに、ポジティブな感想を持ちました。監督はこれまでの短編でも悲しみを描いていますが、物語で「悲しみ」を取り扱うことへの意識、そして物語をとおして「悲しみ」を共有することへのお考えをお聞かせください。
ウェルズ:そんな、ありがとうございます。おっしゃるとおり、私のすべての作品は悲しみを纏っており、いずれも内なる「もがき」を描いています。わたしたちの魂の葛藤ともいうべきものです。そして私の映画に登場するキャラクターはみな、物語中でなにかを避けようとしたり、拒絶したりします。『aftersun/アフターサン』でもそうです。毎回なにか違うことを描いていると思っても、振り返ってみれば、いつもそうなっている、きっとこれからもそうなのだと思います。
なぜ「悲しみ」を描くか──私は子どもの頃からずっと、メランコリックなまなざしをもって世界を見つめてきました。他人の頭のなかを真に理解することは誰にとっても不可能で、自分のなかで起きることは自分のなかでしか起き得ない。それでも、私たちはなんとかして他人にそれを伝えようとする、あるいはアートで表現する。どんなかたちであれ、同じような感情を抱く人と、どうにか「感情的につながっている」と思えるようにする。しかし、究極的には私たちは私たち自身のなかにしかいられず、どうしたって孤独である。ほかの人はわかりませんが、私はそのように世界を見ています。その考えが、私の映画には現れていると思います。
─いま話していただいたお考えは「離れていても同じ太陽を見ていれば、そばにいるのと同じ」と信じたソフィの言葉に現れている気がします。
ウェルズ:そうですね。でも、一緒に撮影してくれているシネマトグラファーであり、よき友人でもあるグレッグ(撮影監督のグレゴリー・オーク)は、そのような私のメランコリックな考えをいつも少し和らげようとしてくれます。はじめにお話したように、喜びに溢れた経験があるからこそ、悲しみを感じることができる。ある一方だけを描いていたら、それ自体が意味をなさなくなってしまう。彼は「両面を描く」ことがいかに大事かを教えてくれます。私はいつも、ちょっとだけ悲しみに流されてしまうから。
曖昧さによって生まれる、観客との作品との深いつながり
─映画を観て、そしてこうしてお話を伺っていると、非常に多くのことを綿密に考えられていたのだな、と思います。しかし本作では、それを説明しすぎないように細心の注意を払っていて、同時に観客を信頼しているように感じられました。実際、そのバランスは非常にうまくいっていると思いますが、ある種勇気の必要な判断だと思います。
ウェルズ:ええ、ただ誰もがあなたのようにそう感じるかというと、わかりません。観客自身の経験によるところが大きい気がします。説明が足りないと思う人もいれば、語りすぎだと思う人もいる。そういった観客の反応を知るのは本当に興味深いです。
ナラティブの文脈が私の意図どおりに汲み取られなかったとしても、観客は映画からなにかを感じ取ってくれる。これは不思議なことです。最初はそのことに困惑し、ときにはもどかしい気持ちになったりもしたのですが、映画づくりを続けていくうちに、ある意味でそれを受け入れるようになりました。観客は本当によく私の映画とのつながりを感じてくれています。
しかし程度はどうあれ、解釈の余地や「説明しすぎない」という感覚がないと、その深いつながりが失われてしまうと思います。
─本作でも観客の反応や映画との感情的なつながりを意識することはありましたか?
ウェルズ:『aftersun/アフターサン』では、いままでよりも時間をかけてそのことについて考え、受け入れるようになりました。誰もが映画を気に入ったり、理解したりしなくてもいい、万人に向けて映画を撮るわけではないのだから、と。
映画をつくろうとするときに「よくわからないと感じる人がいてもいい」と口にするのを快く思わない人も当然います。しかし、この映画はおそらくそのような人々のためではなく、「行間を読む」ことや、明確な回答が用意されてない、むしろ観る前よりも多くの疑問を抱えたまま映画を観終わることを楽しむような人たちのためにあると思っています。
31歳の誕生日を前にした父親。年齢を重ねつつも不安がつきまとう
─本作で重要な存在であるDVカメラの機能に言及した「カメラの焦点が定まれば、明るさは自動調整される」というセリフがありましたが、登場人物それぞれが抱える、大人や親になること、先への焦点が定まらないことへの不安を逆説的に感じさせ、印象的でした。私も劇中のカラムや大人になったソフィと同年代なのですが、そういった人生の次の曲がり角への不安もまた、本作のテーマだと思います。
ウェルズ:そのセリフについて言及されたのははじめてです。じつは私が意図して書いたものではなくて。私の父が撮ったホームビデオを観ていたら、父がその言葉を発していて、それをそのまま書き取り、映画に組み込んだものです。
キャラクターの年齢についてはとても考えました。カラムが29歳ではなく30歳で、31歳の誕生日を迎えようとしている設定にしたのは理由があります。29歳から30歳になる誕生日には、意味がありすぎる。30〜31歳は、自分がいるべきところにいないような不安がいまだにつきまとう年頃だと思います。年上の大人も、ソフィのような年下の子どももいて、自分はその境目にいる。
ウェルズ:この映画を書き始めたときには、カラムが歳を重ねる意味や、年齢と内面の変化のパラレル性に気づいていなかったと思います。私がこの映画に取りかかり始めたのは2015年、まだ20代半ばの頃で、当時の私の経験がところどころに反映されたものだったから。カラムを演じる俳優をキャスティングする段階になってはじめて、年齢の持つ重要性に気がつきました。
私はカラムというキャラクターをとても若く見えるようにして、スクリーン上に視覚的なダイナミクスをつくりたかった。実際に私の父もとても若く見え、よく私の兄弟と間違われたのです。私もよく、実年齢より若く見えると言われますが、そう言われるたび、年齢的にも経験的にも見くびられているような変な感じがしていました。
本作で『アカデミー賞』主演男優賞候補になったポール・メスカルとの協働
─カラムを演じたポール・メスカルや、ソフィを演じたフランキー・コリオとは撮影にあたってどのような会話や準備をしましたか?
ウェルズ:フランキーに対してはなにもしませんでした。なにも準備はしてほしくなかったのです。もしかしたら撮影の前にビリヤードのやり方を教えてあげたら良かったかな、とは思いますが(笑)。でも、撮影期間中にポールが彼女に教えることも、この映画づくりの重要な一部だから、と彼女には言いました。
反対にポールには、カラムについて私が考えていたすべてを話しました。脚本やさまざまなシーンについて、カラムのモチベーションや感情、行為の動機について、電話越しに何週間も会話をしました。
ウェルズ:しかし、ある時点から、カラムというキャラクターを彼に預けるようにしたのです。もちろん監督なので、ガイドとしてポールの質問に答えたりはしていましたが、彼は本当によくカラムに感情移入し、彼なりのカラム像を築いてくれました。もしかしたら私よりもカラムのことを理解してるかもと思えるくらいに。その様子を見るのは本当に美しいことでした。
ときに役者は、つくり手の意図を超えて、瞬間に意味や背景を吹き込んでくれるものです。そして今回、ポールはそれをやらねばならなかった。なぜなら本作では、カラムが「ソフィの想像する父の姿」として孤独に存在するシーンがあるからです。しかしカラムは一方で血の通った、物語中に実在するキャラクターでもあるわけで、「想像のなかのカラム」としてだけ演じることはできません。ポールは彼なりのやり方で、その難題をこなしてくれました。
─ポール・メスカルとフランキー・コリオ、それぞれに正反対のアプローチをしたのですね。
ウェルズ:そうですね。その過程で思わぬ美しい出会いもありました。劇中、ソフィがDVカメラを置いて「じゃあ心のカメラで撮るから」と言うセリフ。あれはフランキーが発した言葉なのです。あんな良いセリフ、私が書きたかった。
リハーサルでフランキーにDVカメラの使い方を教えているとき、充電がなくなってカメラが使えなくなり、みんながあたふたしたことがあったんです。撮影が始まってまだ数日だったのにフランキーとポールはすでに打ち解けていたのですが、そのときフランキーがポールにのしかかって、ポールの足の毛をいじりながら言ったのです。「じゃあ私の心のカメラで撮っておくから」と。私はすぐにそれを脚本に書き込みました。
R.E.M.やQUEEN&ボウイなど、音楽を通じて観客が感情と出会う
─BlurやChumbawambaなど、時代とムードにぴったりのサウンドトラックも素敵でしたが、なかでもソフィがカラオケで歌うR.E.M. “Losing My Religion”、そしてQueen & David Bowieの”Under Pressure”の使われ方には、胸が引き裂かれるような気持ちになりました。
前者はフランキーが歌うことで、それを見つめるカラムが自身の感情に出会ってしまうような、後者は観客であるわたしたちが、隠れていたカラムの感情に気づいてしまうような、俯瞰的な視座を持たせるための曲の使われ方に感じられました。このような音楽の使い方について、意図をお聞かせください。
ウェルズ:また難しい質問だ……(笑)。
─すみません……(笑)。
ウェルズ:待って、違う! 謝らないで。あなたがそれだけ深く、この映画にたくさんのつながりを見出してくれていることに本当に感謝しているんです。それがこの映画の目指したところだから。この映画をつくっているときは、まるで殺人事件の捜査のように、壁に映画のなかにあるすべての要素を貼りつけて、たくさんのひもで結びつける作業をしていました。視覚化、把握するのが本当に難しかったから。なので、このようにインタビューして点と点を結びつけてくれることに感謝しています。
こうして話していても、カラムというキャラクターは自分でも本当に興味深いなと思います。書き始めたときには、大人と子どもふたりが出てくる映画で、観客が大人のほうに感情移入するとは思っていませんでした。カラムのストーリーはより複雑で、ソフィのほうが理解しやすく、観客にも身に覚えのある存在だと感じられるだろうと思っていたからです。書いているときも、撮影を終え編集しているときでさえも、私はソフィにフォーカスしていました。もちろんカラムのことも考えてはいましたが、それはこの映画がソフィの記憶の話で、その記憶にカラムが関係するから、という理由です。でもいざ映画が完成してみると、カラムの存在が、私の意図を超えて立ち上がって見えたのです。
ウェルズ:"Losing My Religion"はカラムが好きだった曲です。脚本上ではあの曲が彼らにとって持つ意味がもうすこし説明されていて、カラムが特別な思い入れを持ってソフィにシェアした曲として書きました。
劇中ではこの曲をソフィが歌うので、カラオケのシーンではソフィの立場を表している歌だと考えていたのですが、あのシーンのカラムの様子を観ると、たしかにカラムが自分自身の感情を見つめてしまっているように感じられますよね。そしてそのさまを見て、ソフィもある意味で、カラムの内面に気づいてしまう。
ソフィの年齢を11歳にしたのは、まだ子どもでありながら、思春期に片足踏み入れている年頃であり、世界に対峙する自意識というものに気づき始める年齢だからです。そしてその気づきの瞬間が、あのカラオケのシーンに訪れていると思います。
劇中ソフィがカラオケで歌うR.E.M. “Losing My Religion”
ウェルズ:“Under Pressure”はもともと想定していなかった曲でした。この映画は、当初想定していなかったたくさんの要素でできています。ホテルの寝室のカーテンやブランケットの色、ランプの見た目、タイルの大きさ、衣装の襟や袖口の大きさ、その他ありとあらゆるディティール……完全に本能的に選んだものがたくさんあり、“Under Pressure”もそのひとつです。
QUEENとデヴィッド・ボウイの共作曲“Under Pressure”(Apple Musicはこちら)
ウェルズ:フレディー・マーキュリーとデヴィッド・ボウイ、ふたりのボーカルパフォーマンスを聞いて湧き上がる感情……深く考えることなくただ映画のシーンに合わせて流してみたら、それが正しい選択のように、「特別ななにか」があるように思えて。その直感を信じてみました。
そしてそれこそが、映画をつくることの真髄のように感じます。途方も無い時間をかけて細部に至るまで考え、エネルギーと不安を注ぎこむと同時に、突拍子もない飛躍をただ運命的に選択してみる。そのどちらもが、私には必要なのです。
- 作品情報
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『aftersun/アフターサン』
2023年5月26日(金)からヒューマントラストシネマ有楽町、新宿ピカデリーほか全国公開
監督・脚本:シャーロット・ウェルズ
出演:
ポール・メスカル
フランキー・コリオ
セリア・ロールソン・ホール
配給:ハピネットファントム・スタジオ
- プロフィール
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- シャーロット・ウェルズ
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1987年、スコットランドに生まれ、ニューヨークを拠点とするフィルムメーカー。ロンドン大学キングスカレッジの古典学部で学んだ後、オックスフォード大学でMA(文学修士号)を取得。そのあと、金融関係の仕事をしながら、ロンドンで映画スタッフのエージェンシーを友人とともに経営する。その後、ニューヨーク大学ティッシュ芸術学部でMFA(美術修士号) / MBA(経営学修士)をともに取得する大学院プログラムに入学。在学中は、BAFTAニューヨークおよびロサンゼルスのメディア研究奨学金プログラムの支援を受け、3本の短編映画の脚本・監督を手がける。短編初監督作『Tuesday』(2016)は、2016年、『エンカウンターズ短編映画祭』でプレミア上映され、スコットランド『BAFTA』のニュータレント賞にノミネートを果たす。2作目『Laps』(2017)は、2017年の『サンダンス映画祭』で編集部門のショートフィルム特別審査員賞を受賞し、『サウス・バイ・サウスウエスト映画祭』の短編ナラティブ部門の審査員特別賞を受賞。修了制作『Blue Christmas』(2017)は、同年9月にTIFFでプレミア上映される。2018年、『フィルムメーカー・マガジン』の「インディペンデント映画の新しい顔25人」に選ばれ、2020年のサンダンス・インスティテュートのスクリーンライター及びディレクター・ラボのフェローとなった。『aftersun/アフターサン』(2022)は長編初監督作品である。
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