映画『それでも私は生きていく』は、『未来よ こんにちは』(2016年)で『ベルリン国際映画祭』銀熊賞(監督賞)を受賞したミア・ハンセン=ラブの長編8作目。病を患う父に対する悲しみと、新しい恋の始まりの喜びという2つの状況に対峙するシングルマザーのサンドラを、レア・セドゥが演じている。
ミア・ハンセン=ラブ監督は、自身の父が病気を患っていたなかで脚本を書き始め、そのときの経験が本作にも反映されているという。親の介護、子育て、仕事、恋など日常のなかでさまざまなことに対処していくサンドラの物語を「35歳の女性をそのまま等身大に描いたポートレート」と話すハンセン=ラブに、互いの生き方を批判せずに認めあう登場人物の描き方や、ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』からのインスピレーション、愛する人の喪失との向き合い方などを聞いた。
葛藤する女性たちの人生に優しく陽光を注ぐ、ミア・ハンセン=ラブのまなざし
哲学教師を両親に持つフランスのフェミニスト映画作家ミア・ハンセン=ラブは、光や季節の変化を捉えながら、印象派画家のように、実存的な不安を抱えるさまざまな現代の女性たちの肖像をしなやかに描く。自伝的な要素を再創造しながら、ごまかしのハッピーエンドに頼ることなく、人生に忠実に、映画を決して誰かを非難するための道具にはしない。声高に綴られてこなかったかもしれない女性の人生と経験への洞察を観客に与え、人々を愛し、日々のなかにある美しさを祝福するために映画をつくる。
『それでも私は生きていく』は、現在のフランス映画界を代表する俳優、レア・セドゥを主演に迎え、35歳のシングルマザー、サンドラの日常の機微を慎み深く探る。夫を亡くした後、通訳として働きながらパリの小さなアパートで8歳の娘と暮らす一方で、神経変性疾患を患う元哲学教師の父ゲオルグ(パスカル・グレゴリー)の介護に献身する彼女は、同時に、久しぶりに再会した旧友で既婚者のクレマン(メルヴィル・プポー)と恋仲になっていく。
彼女の映画では、しばしば女性たちは、男性、特に父親やボーイフレンドの突如の不在に直面する。ヌーヴェルヴァーグの先人エリック・ロメールの英知を学んだ彼女は、大きな出来事も小さな出来事も等価に見つめ、喪失や死別、失恋の経験から人生を再形成しようとする女性たちに優しく陽光を注ぐ。厄介な人間模様が存在しながらも、原題(Un beau matin)が示す通り、本作はサンドラに「美しい朝」を垣間見せる──一貫して35mmフィルムにこだわり、澄んだ光を探究するハンセン=ラブの哲学は、時間の流れのなかで悲しみと喜び、喪と再生を循環的に、相反する矛盾した感情を相補的に捉えることにあるかもしれない。
本作の物語は、ハンセン=ラブが、コロナ禍で老人ホームへの面会が禁じられたなかで、自身の父親を亡くした経験に由来している。Zoomを介してパリ近郊からインタビューに応じてくれた彼女は、映画が、死者の魂を存続させ、いつまでも彼らと精神的につながり続けるための方法であると語る。思えば、以前、同時代の仏女性作家セリーヌ・シアマにインタビューした際、彼女もまたパンデミックの最中に見舞えなかった祖母を哀悼した『秘密の森の、その向こう』(2021年)において、同種の試みをしていたことを明かしてくれた。彼女たちにとって、映画は一種のセラピーでもある。その癒しの力はそれをまなざす観客にも作用するだろう。
撮りたいのは「不完全な人間」。自分の映画の登場人物すべてを愛さずにはいられない
─『それでも私は生きていく』では登場人物たちが恋愛や家族の病などさまざまな出来事と向き合いながら、それぞれに行動を起こしますが、誰の行動も罰したり非難しないように努めるあり方が美しいと感じました。それは映画をつくるうえでのあなたの美学でしょうか。
ハンセン=ラブ:私にとっては「美学」というとちょっと美しすぎるかもしれません。むしろそれは倫理であり、私がつくっているすべての映画に共通する固有の道徳だと言えるかと思います。本作に限らず、私は登場人物を非難するための映画を撮ることはできないのです。私独自の映画に対する倫理観であり、私は登場人物すべてを愛さずにはいられません。
世の中に悪が存在しないと思っているわけではありません。しかし、映画作家として、私は、絶対的な悪を撮ることに関心がないのです。完璧な人間を撮るのではなく、弱さや欠点、感情の複雑性、傷つきやすい部分を持つ不完全な人間という存在を撮りたいと思っています。
私が関心を持つのは、人間の脆さです。登場人物たちは私に愛させるのに十分な人間的な価値を持っています。私が愛することができる人々についての映画をつくること、それが私の映画の道徳的な前提条件なのです。
『それでも私は生きていく』あらすじ:サンドラは通訳者として働きながら、パリの小さなアパートで8歳の娘リンとふたり暮らしをしているシングルマザー。彼女の父ゲオルグは、かつて哲学の教師として生徒たちからも尊敬されていたが、いまは病を患い、徐々に視力と記憶を失いつつある。別居する母フランソワーズとともに彼のもとを頻繁に訪ねては、変わりゆく父の姿に直面し、自身の無力感を覚えるサンドラ。仕事、子育て、そして介護。長年自分のことどころではなかったサンドラだったが、ある日、旧友のクレマンと偶然再会し、自然と恋に落ちる。病を患う最愛の父に対する、やるせない思いと、新しい恋の始まりに対するときめきという相反する感情をサンドラは同時に抱くようになる。
仕事、子育て、親の介護に同時に対処する、35歳の女性のポートレート
─映画では、女性が日常生活のなかで調和を保とうとする姿を描いています。ひとつのテーマに絞らずに、日常のなかで仕事、育児、介護などに同時に対処するサンドラをどのように描こうと思いましたか。
ハンセン=ラブ:私の映画の多くはポートレートですが、この映画もある女性のポートレートと捉えています。35歳の女性をそのまま等身大に描いたポートレートですが、彼女は多くの義務や任務に直面する人生の時期にあります。仕事や子育てに加えて、病気にかかった父親の介護に追われる非常に苦しい状況に置かれています。彼女には選択の余地がありません。でも人生とはそういうもので、彼女は一歩一歩それらを行なうしかないのです。
ハンセン=ラブ:この映画で私が表現したかったのは、サンドラの勇気を称えることではありませんでした。英雄のように描いて、彼女が勇気を示して人生を歩んでいくような啓発的な映画をつくりたかったのではなく、むしろ彼女のレジリエンスを描きたかった。父親がいなくなってしまう様子を身近で見て、彼女自身が孤独になるのはつらいことですが、サンドラが、どのように生まれ変わり、孤独を克服し、自分の人生に新しい意味を持たせてくれる人に出会うことができるかを示したかったのです。
これは、ふたたび幸せを見つける人の物語でもあります。孤独のなかで苦悩を乗り越えながら、しかし、幸せになる可能性、愛する可能性、官能を楽しむために自分の体を感じる可能性を見出した女性の物語でもあるのです。
女性が「自分ひとりの部屋」を持つことの困難さ。「男性は何世紀も前から自分の書斎を持っていた」
─日常に地に足のついた人物で、自ら欲望する女性をレア・セドゥに演じてもらうことの面白みをどのように感じていましたか。彼女が演じるサンドラは、ピクシーカットでカジュアルな動きやすい格好で画面に現れます。
ハンセン=ラブ:個人的にレアと知り合いだったわけではありませんが、私は以前から彼女の映画をたくさん観ていて、とてもいい俳優だと感じていました。
例えば洗練された煌びやかな人物を演じるときであっても、彼女の演技には飾らないシンプルさがあった。私はいつも彼女が表現する悲しみに心を打たれると同時に、シンプルにミニマリズムで体現する演技に驚かされてきました。そのような削ぎ落とされた演技の方法は、私がつねに俳優たちに求めていることでもあり、それがレアに惹かれた理由でした。
ハンセン=ラブ:また、サンドラは日常的なことを経験する、一見、平凡でシンプルに見える役かもしれませんが、レアがこれまで演じたことのないような役だと思えたことも彼女の起用に関心を持った理由のひとつでした。レアは男性の視点から生まれた、洗練されたグラマラスな女性像を多く演じてきたと思います。そんな彼女に私たちの身近にいるような等身大の日常を生きる女性を演じてもらい、欲望の対象としてのみ見られるのではない彼女の姿を映すことに興味があったのです。
─あなたは自身が妊娠中に本作の脚本を執筆し、産後に撮影されたそうですね。劇中でサンドラは自分ひとりの時間を持つことに苦労しますが、女性の物語を語るうえで、ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』からインスピレーションを受けていらっしゃいますか。
ハンセン=ラブ:ヴァージニア・ウルフの文章はずいぶん前に私は読んだんですが、近いうちにまた読みたいなと思っています。本作に関連して『自分ひとりの部屋』に触れる方も多いため、そのことについてよく考えますし、女友達とも自分のためのスペースや書くスペースを持つことの重要性についてよく話します。
女性が男性と同等の芸術家になる権利、考える権利や自立する権利を意識するようになるまで、とても長い時間がかかりました。男性は何世紀も前から自分の書斎を持ち、自分のスペースというものを持っていましたが、女性のこういった権利が認識され始めたのはまだ最近のことで、フランスや日本でもまだそれは完全に当たり前のようにはなっていないですよね。
ハンセン=ラブ:このことは、私にとっても重要な問題です。私は幸運にも映画監督という仕事をし、脚本家でもありますが、書くためのスペースを持つことは簡単ではありませんでした。私はここ数年、個人的な事情でオフィスがなく、スペースが不足していたのです。最近、引っ越したことで、ようやく娘と離れて、落ち着いて物を書くスペースを確保することができました。
この問題について、今回の映画と前作『ベルイマン島にて』(2021年)はまったく対照的なかたちで触れています。『ベルイマン島にて』においては、非常に広いスペースと与えられた自由をテーマにしているのですが、ヒロインのクリスは、書くためにスペースを占有しなければならないという事実をなかなか受け入れられない。それに対して、本作では、サンドラは、パリの狭いアパートで限られた空間で自分のスペースを持つことに苦労しています。このように両作で、ヴァージニア・ウルフが提起した「自分のための部屋」という問題に関連して語っているのです。
『ベルイマン島にて』は、創作活動にも互いの関係にも停滞感を抱いていた映画監督同士のカップルが、映画監督イングマール・ベルイマンが愛した島で過ごしたひと夏を描く物語
人生は川のように続いていく。運命はある程度決まっていたとしても、希望は必ずあると信じている
─サンドラは、徐々に憔悴していく父の肉体よりも、彼が持っていた本に精神的なつながりを見出します。あなたの映画では愛する人の喪失や失踪がよく描かれますが、残された/遺された者がどのようにその不在に対処するかに関心を持っていますか。
ハンセン=ラブ:魂の存続は、私の映画の核心です。私は、魂の存在を信じる必要性を感じています。ただ、私は魂の存在を信じますが、人が亡くなった後にそれがどのようになっていくかはわかりません。魂が死後にどうなるかは人それぞれ考えが違うと思いますが、それは私たち一人一人に生じることであり、誰もが抱く普遍的な疑問だと思います。
私たちが愛する人を失ったとき、何かが肉体的な消失を越えて生き延びると思いたいものです。どんな宗教であれ、神を信じると、死後の世界や天国に何かがあると考えることができるため、それが簡単になると思います。しかし、私は特定の宗教を信じてはいないので、このことに対する納得のいく答えを見つけるのは非常に難しいですね。
でも私は、愛する人が亡くなった後もその人のことを忘れないように記憶に留め、愛し、思い続けることで魂が生き続けると考えていますし、私の映画の多くはそのように信じています。
─あなたは映画で安易な解決策を提示しませんが、『あの夏の子供たち』(2009年)で流れるドリス・デイの名曲が象徴するように、「ケ・セラ・セラ(なるようになる)」の精神が通底しているように思います。『グッバイ・ファーストラブ』(2011年)で主人公のカミーユは「過去にノスタルジアはなく、未来にすべてを期待している」と言いますが、あなたは、女性たちの人生に楽観主義を提示することを望んでいますか。
ハンセン=ラブ:楽観主義と呼べるかどうかはわかりません。楽観主義や悲観主義という考え方をすることは、私にとっては一種の教条主義を意味します。つまり、ポジティブな感情を人に与え、人生の認識に影響を及ぼすドグマのようなものを感じるのです。
私は楽観でも悲観でもなく、人生で実際に経験したことを忠実な方法で描こうと努めています。まさにいまあなたが話した「ケ・セラ・セラ」というのが私の映画のある種のモットーであり、私の映画をとても上手に要約している言葉だと思います。
ただ、私は運命論者ではありません。たとえ運命はある程度決まっているものだとしても、人生に希望はあると信じています。人生は、人工的なものではなく、川の流れのように続いていく。誰しも必ず死や苦悩というものは経験するわけですが、例えば冬の後には春が訪れるように、そこで終わりではなく、その続きがまたある。神様の考えや、物事がうまくいくだろうという楽観的な考えよりも、物事には生まれ変わるものが必ずあるということが私には最も重要なことです。私にとっては、それが人生のあらゆる波乱や困難に対する最大の慰めの源なのです。
─しばしば実体験を映画に反映させていますが、フィクションが持つカタルシス、癒しの力をどのように考えていますか。
ハンセン=ラブ:少なくとも私にとって、フィクションにはカタルシスがあると信じています。カタルシスは小説や他の形式のフィクションにもあり得ますが、私の場合は、映画を通して、またそこで俳優の生きた身体を通して、表現するということに関係しています。私は映画をつくることは、私の生きている人生の混沌を物語に変換し、俳優を通して、私の感情や経験を他者の身体に移し替えていく作業だと考えています。それは私にとってカタルシスを感じられる作業なのです。
例えば今回の父親ひとりの人物像にも、インスピレーションを受けた人が2〜3人がいます。モデルとなった人たちのいろいろな部分をひとりの役者が体現して演じていく。そういうふうに置き換えていくことによって、私は自分の体験したことをふたたび思い出し、忘れてはいけないものとして、そして永遠のものとして自分のなかで昇華していく。それによって私自身を解放することができていると思います。
映画をつくることで私自身と私の経験とのあいだに時間的にも心理的にも距離を置くことができる。映画は私にそのすべてを許してくれます。
- 作品情報
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『それでも私は生きていく』 2023年5月5日(金・祝)から新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座ほか全国順次公開 監督・脚本:ミア・ハンセン=ラブ 出演: レア・セドゥ パスカル・グレゴリー メルヴィル・プポー ニコール・ガルシア カミーユ・ルバン・マルタン 配給:アンプラグド
- プロフィール
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- ミア・ハンセン=ラブ
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1981年2月5日フランス・パリに生まれ。映画監督、脚本家、俳優。両親ともに哲学の教師という家庭に生まれる。1998 年、オリヴィエ・アサイヤス監督の『8月の終わり、9月の初め』に出演し、続けて同監督の『感傷的な運命』(2000)にも出演。その後、2001年にパリのコンセルヴァトワールに入学し、本格的に演技を学び、2003年に退学。2005年までフランスの映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』にて映画評論を執筆。監督としては、『すべてが許される』(2007)で長編デビュー。続く、『あの夏の子供たち』(2009)では、『カンヌ国際映画祭の』ある視点部門の審査員特別賞を受賞。『グッバイ・ファーストラブ』(2011)では『ロカルノ映画祭』で特別賞を受賞。『EDEN/エデン』(2014)では、兄のスヴェンをモデルに 1990年代のクラブシーンを描いた。同年、芸術文化勲章でシュヴァリエを授与される。『未来よ こんにちは』(2016)では『第66回ベルリン国際映画祭銀熊賞』を受賞し、フランスを代表する監督の一人に数えられるようになる。
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